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大阪力!part3

【大阪力!part3】

淀屋サミット

2007年05月20日

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淀屋の実像に迫った淀屋サミット=大阪市中央区備後町2丁目で

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淀屋の屋敷跡に立つ記念碑=大阪市中央区北浜4丁目で

 「淀屋の米市(後の堂島米市)」により江戸時代前期の「大坂」を日本一の商都に導いたとされる豪商・淀屋。その実像と大阪経済を振り返る「淀屋サミット」のシンポジウムが12日、大阪市中央区備後町2丁目の綿業会館で開かれた。「せんばGENKIの会」、大阪船場ロータリークラブ、淀屋研究会で組織する実行委員会が主催。淀屋を原点に、大阪の未来を考える場として今後も開いていくという。

 会場は約300人でぎっしり。最初に淀屋を研究する佐藤正人(53)が基調講演し「淀屋の米市は世界の先物取引に先鞭(せんべん)をつけた、と海外で高く評価されている」と述べた。また、貿易などにより海外事情に詳しかった淀屋の初代、常安(じょうあん)の名はキリスト教の聖職者を意味する「ジョアン」と似ている▽2代言当(げんとう)は繊維取引所があったベルギーの都市ゲント(Gent)と通じる、として2人の名前の謎を指摘。さらに、淀屋周辺にある「キリスト教のにおい」にも言及した。

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 続いて、大阪歴史博物館館長の脇田修(76)、作家新山通江(81)らが「淀屋と大阪・船場」と題してパネル討論。司会役のNPO法人プロジェクトOIJ理事長の横山征次(62)が「大阪を活性化させるために偉大な先人のことを学び顕彰していきたい」と呼びかけた。

 脇田は「贅沢(ぜいたく)を理由に1705年に闕所(けっしょ)(取りつぶし)となったせいか、淀屋に関する記述はほとんど残っていない。17世紀後半には大名の借金踏み倒しでつぶれる豪商が続出している。淀屋の場合、単なる贅沢が原因の取りつぶしとは考えにくい」と話した。

 「真説 淀屋辰五郎(上)(下)」(今井出版)を執筆した新山は、淀屋が闕所となった後、現在の鳥取県倉吉市と大坂で幕末まで生き延びた事を報告。「郷土史料や寺の過去帳などを調べた結果を自費出版しましたが、淀屋は謎だらけで、すっかりはまってしまいました」

 淀屋研究会代表の伊藤博章(67)は「闕所の10年後、淀屋は恩赦となった。4代目重当は、幕府の処分を警戒し、ひそかに番頭に娘をめあわせ、現在の鳥取県倉吉市に逃していた。それが牧田淀屋。倉吉で栄えるとともに、闕所の60年後には子孫が大坂の屋敷跡を買い戻し、木綿問屋として幕末まで続いた。闕所前を『前期淀屋』、再興後を『後期淀屋』と言うことが出来る」と、その後の淀屋を紹介した。

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 大阪21世紀協会理事長の堀井良殷(よしたね)(71)は「淀屋は世界商業史における天才。忽然(こつぜん)と現れて忽然と消えた。いま、抹殺された歴史の闇に光が差し込み始めた」と、淀屋研究の重要性を説いた。

 船場の繊維会社「和田哲」会長の和田亮介(75)は「私は松江出身だが、倉吉にある淀屋の大きな墓を訪れたとき墓から妖気が出ていた。淀屋をつぶして借金を棒引きにしたんだな、と感じました」。

 討論の終盤、堀井が「私見だが、大坂を藩としないで幕府の天領としたのは大坂に力を与えないための幕府の大戦略。この戦略は、いまだに国の構図として残っていると思わざるをえない。われわれは淀屋が活躍した大阪に誇りを取り戻すべく頑張らなくてはいけない」と発言すると、会場から大きな拍手が起こった。(文中敬称略)

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◇淀屋

 初代・常安(?〜1622)は材木を商い、中之島の開発などに当たり水利権を得た。淀屋橋、常安橋にその名が残る。2代目、言当(げんとう、1577〜1643)は「淀屋の米市」や靱の海産物市を開き、大坂に富をもたらした。4代目、重当(1634〜1697)の時代には大坂が「天下の台所」と言われるほど繁栄した。5代目、広当・辰五郎(?〜1717)は1705年、幕府から「町人の身分に過ぎた振る舞い」を理由に財産を没収され、大坂から所払いとなる「闕所(けっしょ)」の処分を受けた。淀屋が西国を中心とした大名や公家、幕府に貸していた額は現在の価格で100兆円を超えており、諸大名などの救済が「取りつぶし」の真の理由だった、と考えられている。

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