'08.01.08 (火) |
教皇の間違う可能性 |
私たちは教義上の真理の感覚を取り戻さなければならない。そしてもしある司祭、司教、枢機卿、あるいは教皇でさえ、何らかの異端的な教義を公然とあるいは暗黙のうちに教えるようなあることを言ったり、あるいはしたりするならば、私たちはそれを恐れ、抵抗しなければならない。私たちはどの方面からのものであれ、異端的な陳述に抵抗することによって、私たち自身の霊魂を防御し、できる程度まで、他の人々の霊魂を防御しなければならない。そのような事柄を言うのがたとえ教皇であってもそうである。
たいていのカトリック者は、ある教皇が異端を教えたか、あるいは異端を抑圧する義務において失敗したか、そのいずれかの事例が教会史の中にあったということを知らない。そしてそのことが以前に起こったのであれば、ふたたび起こり得るのである。注1
例えば、教皇ニコラス一世は、洗礼は、それがいとも聖なる三位一体の三つのペルソナ(位格)の名において行われようと、あるいはただキリストの名においてだけ行われようと、有効であると言った。この点で教皇ニコラスは誤ったのである。キリストだけの名において行われる洗礼は有効ではない。注2
教皇ホノリウスは異端者たちとの妥協を正当化するために、634年に「われわれは古い諍いに再び火をつけないように気をつけなければならない」と言った。この議論に関して、その教皇は誤謬が自由に広まるのを許し、その結果真理と正統が事実上追い払われたのである。エルサレムの聖ソーフロニウスはほとんどひとりで、ホノリウスに対して立ち上がり、彼を異端のゆえに告発した。ついには、教皇は悔い改めた。しかし、彼の妥協的な原則によって彼が教会に及ぼした測り知れない害悪を回復することなく死んだのである。このようにして、第三コンスタンチノープル公会議は彼に破門を宣告した。そして、このことは教皇聖レオ二世によって確証されたのである。(D.S.561を見よ)
教皇ヨハネ二十二世はアヴィニョンで 1331年諸聖人の祝日に、霊魂は最後の日の肉体の復活までは至福直観には入らないと言った。その後、教皇はパリ大学の神学教授たちによって非難された。彼らは、教皇のこの説が異端であると知っていたから教皇を非難したのである。教皇が自分の誤りを撤回したのは1334年に死ぬ直前だった。注3
(中略)
教会博士である聖ロベルト・ベラルミンはローマ教皇に関するその著作の中で、教皇でさえもし彼が教会に害を及ぼすならば非難され、抵抗を受けるであろうと教えた:
「肉体を攻撃する教皇に抵抗することが正当であるのと同じように、霊魂を攻撃する者、あるいは市民的秩序を乱す者、あるいはなかんずく教会を破壊しようとする者に抵抗することもまた正当である。私は、彼が命じることをなさないことによって、そして彼の意志が遂行されないように妨げることによって、彼に抵抗することは正当だと言っている。しかしながら、彼を裁き、罰し、あるいは退位させることは正当なことではない。なぜなら、これらの行為は上長に適切なことだからである。」注11
同様に、16世紀の優れた神学者であるフランシスコ・スアレス(教皇パウロ五世は彼をDoctor Eximius et Piusすなわち、「例外的で敬虔な博士」として称賛した)は次のように教えた:
「そしてこの第二の仕方で教皇は、もし彼が教会の全体との正常な一致の状態にあることを望まなかったならば--それは彼が教会全体を破門しようとする場合に起こるであろうように、あるいは、カエタヌスやトルケメダが述べているように、教皇が使徒的伝統に基づいた教会の典礼を越えようと望んだならば起こるであろうように--教会分離主義者であり得るであろう...もし[教皇が]正しい慣習(道徳)に反する命令を与えるならば、彼に従うべきではない。もし彼が正義や共通善に明らかに反する何かをなそうとするならば、彼に抵抗することは合法的であろう。もし彼が力によって攻撃するならば、正当防衛に適切な節度をもって力によって彼を退けることができる。」注12
聖トマス・アクィナスは、信仰に対する危険が存在するとき、教皇をさえ非難し、正す積極的な義務を教えているが、しかし彼の権威が剥奪されたと宣言する義務を教えていない。神学大全において、「人は自分の上長を正す義務があるか」という問題の下に、聖トマスは次のように結論している:「しかしながら、もし信仰が危険に曝されたならば、臣下は彼の高位聖職者を公然とさえ非難すべきである。それゆえ、ペトロの臣下であったパウロは、信仰に関するスキャンダルの差し迫った危険のために、彼を公に非難した....」(ペトロは将来可能性のある改宗者たちに衝撃を与え、モイゼの律法に従う外見を与え、異邦人たちと食事をすることを拒否することによって教会の使命を脅かした。)聖トマスはここで、ある高位聖職者の公的な非難が「無遠慮な高慢の気味があるように見えるであろうが、しかしある点において自らをよりよいと考えることには何ら無遠慮は存在しない。なぜなら、この世においては、誰も欠点がないわけではないからである。われわれはまた、ある人が彼の高位聖職者を愛をもって非難するとき、彼が自分自身を何かよりよいものと考えているということは帰結しない。それは、アウグスティヌスが、上に引用した彼の規則の中で述べているように、単に彼が『あなたたちの間でより高い地位にいて、それゆえにより大きな危険のうちにいる』人に彼の助けを提供するにすぎない、ということを思い起こさなければならない」と述べている。注16)
しかしながら、聖トマスの教えのうちには、「信仰に関するスキャンダル」を犯した教皇は、ヨハネ二十二世がそうであったように、非難され正されてもよかったとしても、教皇であり続けるということが含意されている。この同じカトリックの原理はその著 De Romano Pontifice 「ローマ教皇論」を書いた教会の偉大な博士、聖ロベルト・ベラルミンによってこう要約されている:
「身体を攻撃する教皇に抵抗することが正当であるのとまったく同じように、霊魂を攻撃する者、あるいは市民的秩序を乱す者、あるいはなかんずく教会を破壊しようとする者に抵抗することは正当である。私は、彼が命令することをしないことによって、また彼の意志が実行されることを妨げることによって彼に抵抗することは正当であると言う。しかしながら、彼を裁き、罰しあるいは退位させることは正当ではない。というのは、これらの行為は上長に固有のことであるからである。」注17)
ペテロ(ケファ)は異邦人への伝道を行った後は、異邦人とよく一緒に食事(食事の供卓)をしていました。ところがアンティオキアにいる時、エルサレムからの来客があって以来、異邦人と食事するのを止めました。エルサレムからの客とは、割礼を受けているユダヤ人指導者でしょう。ペトロは律法にうるさいこのユダヤ人にしり込みしてから、異邦人と食事を共にしなくなったのです。しかも、バルナバにもそうするよう強制したのです。
パウロはこの偽善を見て、ペテロを罵倒します。反対したと言う言葉でルカはマイルドに記述してますが、原書のニュアンスは面詰・激怒らしいのです。異邦人のような生活をしていて、異邦人にユダヤ人の生活を強要する事は、偽善以外の何物でもないと、口を極めて怒鳴り倒します。