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【コラム】名料理人は一日にしてならず(上)

 かつて日本では「東の清香園、西の食道園」が韓国料理の名店として並び称されていた。在日韓国人1世の張貞子(チャン・チョンジャ)さんが東京に清香園をオープンしたのが1952年、林光植(イム・グァンシク)さんが大阪に食道園をオープンしたのが48年だから、日本における韓国料理の歴史もすでに60年近くになる。この間、食道園には美空ひばりや力道山といった朝鮮に出自を持つ不世出の大スターらが常連として訪れ、清香園にも李承晩(イ・スンマン)元大統領や張勉(チャン・ミョン)元副大統領、全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領といった大物が足を運んだ。

 張貞子さんと林光植さんはいずれも創業者であると同時に、料理人でもあった。2年前、85歳になった張貞子さんは、半世紀にわたって蓄積してきた韓国料理のノウハウを著書『時の香り』で公開し、話題となった。その後日本には数え切れないほどの韓国料理店が登場した。

 焼肉が全国に広まり、韓国料理店が進化した焼肉店が、刺身料理よりも普遍化し、日本のサラリーマンに最も人気のある料理として定着した。数カ月前、日本で『The 焼肉ムービー プルコギ 』なる映画が公開されたのも、韓国料理に対する関心の高さを示している。焼肉名人の境地に達した在日韓国人の兄弟が「最高のプルコギ」をめぐって競い合うというストーリーだが、残念なことに作品の完成度が低く、興行的には失敗した。

 日本でのこうした知名度の向上とは裏腹に、今韓国料理店に好ましくない変化が起きている。有名な料理店が増える一方で、まともな料理人がいる店が減っているのだ。その原因として次の二つが挙げられる。まずは韓国料理ブームに便乗し、料理も知らないいわゆる「ニュー・カマー」たちが厨房(ちゅうぼう)を担当する料理店が雨後の竹の子のように登場したことだ。もう一つは、一財産築いた1世たちが自分の子どもたちを厨房に立たせなかったため、技術が伝承されなかったことだ。いずれも店の経営と、肝心な料理とが分離してしまう結果を招いた。そのため、韓国料理店から名人級の料理長が輩出されなくなってしまった。

東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員

朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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