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2007.12.1









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愛の旅人
ジャック・マイヨールとゲルダ
「イルカと、海へ還る日」

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「イルカになりたい」がジャック・マイヨールの夢。人間はイルカと同じ水生能力があると信じていた=小笠原諸島・南島で

■悲恋に始まる魂の彷徨

 恋多きイルカだ。

 素潜りで前人未到の水深100メートルの壁を破ったジャック・マイヨールは、自らを「イルカ人間」と呼んだ。自由で、繊細で、気分屋のロマンチスト。

 「イルカと女性には驚くほど時間をかける男だったねえ」

 ジャックの晩年、家族よりも多くの時間を共に過ごした親友の成田均(ひとし)さん(60)は言う。得意のピアノを奏で、海やイルカの話を詩的な言葉で語る。相手の女性は彼の世界に引き込まれ、いつしか恋に落ちている。

 房総半島の南端、千葉県館山市に、ジャックが一年の半分を過ごした家が残っている。成田さんが93年に借金して民家を買い取り、「ジャックスプレース」と名付けた。大きないろりで、2人はよく語り合った。

 「ナリタ、神様が一つだけ欲しいものをくれるといったら何をもらう?」「お金か、愛か……」。成田さんが答えによどんでいると、ジャックが言った。「おれなら自由をもらう。自由の真の意味を理解した者だけが、友情と愛を手にできるんだ」

 ジャックは中国・上海租界で生まれ、高校を出ると故郷フランスを飛び出し、世界を旅した。21歳で、デンマーク美人と旅先で恋に落ち、一女一男をもうけるが、仲良しの兄ピエールさんにこう言い放つ。「子どもを授かったのはうれしいよ。でも、僕にはやりたいことが山ほどある。家族に邪魔されるわけにはいかないんだ」

 農園主、新聞記者と職も国も転々とした後、30歳のとき米国の水族館で雌イルカ「クラウン」と出会う。「子どものころに私を魅了したなつかしいまなざし。世界が一斉にブルーに染まったようだ」(自著『イルカと、海へ還(かえ)る日』)。一目ぼれだった。調教師になり、クラウンから水中での所作を学ぶ。これが転機となり、彼は海の深みをめざすようになる。ヨガを習得し、記録を激しく競い合い、自らの肉体を使って人間の水生能力を追究した。

 そんな冒険人生にも、彼の傍らにはきまって若く美しい恋人たちがいた。

 70年、ジャックは静岡県伊東市で76メートルの世界記録を出す。素潜りの選手だった成田さんは「神様みたいな存在」の彼を思い切って東北旅行に誘った。その旅に伴った女性がドイツ人の恋人ゲルダだ。7人でトラックに乗り、成田さんの故郷の秋田・男鹿半島まで北上し、帰りは太平洋岸を南下。気に入った海があれば潜った。費用60万円は成田さんが兄に借りた。

 「君はクレージーボーイだなあ」。そう言いながら、ジャックは旅を心から楽しんだようだった。

 3年後。千葉・勝山(鋸南(きょなん)町)のマリーナにいた成田さんの元にジャックが現れた。ひどく疲れた顔をして。

 「ゲルダはもういないんだ」

 女性とイルカを愛し愛された男の魂の彷徨(ほうこう)は、このとき、始まった。

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ジャックが滞在した家には日本語を練習したノートが残されている

■愛に求めたグランブルー

 東北を旅した70年、ジャック・マイヨールとゲルダは米国フロリダの森に移り住んだ。ある晩、ふたりは近所のスーパーに立ち寄る。ゲルダが買い物をする間、ジャックは車で待っていた。店で錯乱状態の男が銃を乱射し、ゲルダはその犠牲になった。

 最愛の人が突然、永遠に姿を消した。ぼろぼろに傷ついたジャックは日本に向かう。生前のゲルダのこんな言葉がきっかけだった。

 「クレージーボーイと旅したときのあなたは本当に生き生きとしていた。あの笑顔がまた見たいわ……」

♪  ♪  ♪

 水中写真家の中村征夫(いくお)さん(62)は25歳の頃、静岡・伊東での大会に向けて練習に励むジャックを東京・中野のプールで密着して撮影した。そのとき常にそばにいたのがゲルダだった。

 閉館後のプール。ジャックはヨガのポーズで瞑想(めいそう)し、プールをゆっくり2往復してから潜る。魚のように滑らかな動きで、水しぶきの音すらたたない。時々、ゲルダに「やってみるかい?」と尋ねる。彼女の潜りもまたしなやかだ。しんと静まったプールに2頭のイルカが泳ぐようだった。

 「余計なおしゃべりは一切ない。長年連れ添った夫婦みたいだった。彼女の気高さに、ジャックは心底ほれているようだったな」

 若き中村さんは、いつも静かにほほ笑んでいる栗色の髪のゲルダにあこがれていた。だから、映画「グラン・ブルー」(88年)でジャックの恋人が積極的で快活な現代女性として描かれていたことにがっかりしたという。

 映画のヒットで、ジャックは知らぬ人のない存在になる。だが映画の大筋はフィクションだ。「無口で謙虚で女性に臆病(おくびょう)」なジャックは実物とはかなり違う。本人は虚像との乖離(かいり)に苦しみ、しだいに孤独を深めていった。彼が「自分が先、映画が後だ。その逆じゃないぞ!」と叫ぶのを、兄ピエールさんが何度も聞いている。

 「晩年の彼は、寂しさから女性を求めているところがあった」と、成田均さんは言う。ジャックに恋人のいない時期はほとんどなかったが、「二股は絶対にしなかった。女性を心から尊敬していたから」。女性は体の中に海(子宮)を持っている――。そう考える「イルカ人間」にとって、女性ほど深遠な存在はなかった。

 そんなジャックがあるとき、当時の恋人を何げなく「ゲルダ!」と呼んでケンカになる場面に、成田さんは遭遇した。「結局、最後はゲルダに帰っていったのかなあって思うんだ」

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彼がよく泳いでいた入り江=千葉県館山市で

♪  ♪  ♪

 01年夏。自ら命を絶つ数カ月前、ジャックは佐賀県唐津市に最後の足跡を残している。

 玄界灘に面した唐津は、ジャックが上海租界に住んでいた頃、一家で何度か避暑に訪れた場所だ。「七ツ釜」と呼ばれる自然洞穴の前の静かな入り江で兄と潜るのがお気に入りだった。10歳のとき、そこで野生のイルカに出会った。優しい瞳に心を奪われ、「また会いたい」と強く願った。

 94年にテレビの取材で24年ぶりに訪れてからは毎年のように足を運んだ。天気が良いと城下町を自転車で走り、友人の老舗(しにせ)旅館「洋々閣」のおかみ、大河内はるみさん(63)には幼い頃泊まったホテル探しを頼んだ。ダイバーで写真家の高島篤志さんや、定宿だった唐津シーサイドホテルの総支配人、大谷賢二さん(59)らとはダイビングや散歩をして過ごした。朝食後、ホテルの前の浜を歩くのが日課だった。

 最後の夏、大谷さんはジャックとドライブに出かけた。彼はいつになく雄弁で、一日中、語り続けた。

 「人生には愛する人がいなきゃいけない。妻でも恋人でもいい。帰る場所、『ホーム』が必要なんだ」

 いつもバカ話をして笑い合うジャックと初めてする「愛」の話だ。彼はこうも言った。

 「今でもゲルダが忘れられない」

♪  ♪  ♪

 01年12月23日。未明の電話でジャックの死を知らされた成田さんは、高島さんら仲間4人でイタリアに飛んだ。窓のない小さな霊安室にいたのは、別荘を管理する女性と葬儀屋だけ。あれほどの有名人の死にしては、あまりに寂しい光景だった。

 30年前の恋人への愛は、ジャックが老いて孤独を増すほどに純化され、理想の「ホーム」となっていった。彼がめざした深い海の底のように、静謐(せいひつ)な安らぎが横たわる場所。

 「そこにはブルーしかない。上も下も左も右も、すべてが同じブルーに包まれる深海である。太古の昔、人間の祖先が住んでいたであろう世界だ」(『イルカと、海へ還(かえ)る日』)

 彼が愛に求めたのもまた、グランブルー(偉大なる青)だったのだ。

文・後藤絵里、写真・佐藤慈子
相関図

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70年、福島・勿来(なこそ)海岸でのふたり
〈ふたり〉

 「素潜りの神様」ジャック・マイヨールはフランス人建築技師の父とピアニストの母の間に生まれた。世界を放浪の後、39歳の1966年に閉息潜水で水深60メートルの世界記録を達成。その後、映画でも描かれたイタリア人のエンゾ・マイオルカさんらとの激烈な記録競争を繰り広げた。76年に水深100メートル、83年には56歳で105メートルを達成し、世界を驚かせた。ただ、競技としての閉息潜水とは早くに決別し、生理学や心理学的見地から人間の両生性を研究した。晩年は海底遺跡の探索や、水族館で飼われたイルカの保養所建設の実現に奔走したが、次第に気力を失い、01年12月、イタリア・エルバ島の自宅で首つり自殺した。

 ゲルダは70年の来日時に交際していたドイツ人の恋人で、当時20代後半。小学校の教師だったという説もある。



〈ぶらり〉千葉・館山


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