心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年11月28日(水) 奇妙な安定

例えば旦那さんが飲んだくれのアル中で、奥さんが一生懸命旦那の世話をしているとします。この関係は不健康ながらも、奇妙な安定のもとにある場合が多いのです。だから、現状維持の圧倒的なパワーが働き、なかなか事態が変わりません。

奥さんが、これではいけない、と思って、医者へ行ってみたり、断酒会やアラノンへ行ってみたり・・・そういう行動を始めると、奥さんに変化が訪れます。すると、不健康ながらも安定していた関係が不安定になってきます。健康な関係に変化するためには、これは避けて通れないフェーズのようです。
そこで(おそらくは意識せずにでしょうが)旦那さんが以前より大きなトラブルを起こして、奥さんの変化を止めようとする行動に出ることがあります。それによって、奥さんが引き戻され、ふたたび夫婦は以前の不健康な安定を取り戻す・・というパターンが繰り返されます。

逆もあって、旦那さんが酒を止め始めたら、奥さんがうつ病になったり、浪費に走ったり、男に走ったりして、旦那が安心して家を空けられないということになり、またずるずると酒を飲む生活に戻っていく、というパターンもあります。

奥さんがアル中の場合には、シラフで家を空けがちな奥さんよりも、飲んだくれでも家にいる奥さんの方が良い、っていう旦那はいっぱいいそうです。なので、旦那が奥さんの回復の足を引っ張る引っ張る。結局離婚するまで回復が始まらない場合もしばしばです。

同じことは親と子でも起こります。この場合の abuse な関係も、不健康ながらも奇妙に安定しています。子供が多少回復して、精神的に自立しようとすると、親の方がなんだかんだと圧力をかけて、元の abuse な関係に引きずり戻そうとするのもよくあります。
酒を止めるのと親子の関係の整理が同時進行する場合、親と同居ってのは、実は大きなハンディキャップだったりします。ただ、金銭的にも不安定な時期なので、親のすねを囓れるだけ囓るってのも必要だったりします。
けれど、優先順位からしたら、多少経済的に無理をしても(つまり生活保護を受給する羽目になっても)、親元から離れた方が順調にいくと思います。まあ、酒が止められなければ孤独死しちゃうかもしれませんけど。
(僕は見たことがありませんが、親の回復の足を、子供が引っ張るっていうケースもあるそうです。その場合引き離すべきかどうかは、専門家でも意見が分かれているようです)。

アル中の奥さんがやっと離婚して回復が始まると思ったら、実家に戻って今度は親に足を引っ張られたり・・・。回復を応援しながら、同時に足を引っ張る人間は多いのであります。


2007年11月27日(火) もう少し believe と faith について

この「とりあえず信じてみよう」は大事です。

世の中には様々なダイエット食品が溢れています。ダイエット食品などという曖昧な名称ではなく、減量食品と名付ければよいと思うのですが、そこまで直球な名前はつけられないのかも知れません。

我が家の食卓には、プロテインやら健康茶やらの、さまざまなダイエット食品が並んでいます。並んでいる=消費されずにそこに並べられている、ということです。使わないんだったら、邪魔だから捨てちゃえばいいのに・・・と思うのですが、捨てるとすごく怒られます。「高かったんだから」と責められます。なので捨てられません。困ったものです。

さまざまな広告を見て、これを食べれば(飲めば)痩せるかも知れない・・・と妻が思う=believeであります。そして、買うという行動に出ます(まったく相談もなしに、誰が稼いだ金だと思ってんだよ)。ところが、実際には痩せるという結果が出ないために、この beleive は faith に変わらずに終わってしまいます。

なぜ結果が出ないのか、それには二つの原因があると思います。
ひとつは、そもそもその食品に痩せる効能がなかった場合、つまり実力(power)がないという可能性です。例えば、お茶を飲むだけで痩せるとは、僕にはとうてい信じられません。
別の可能性は、買うところまでは行動が伴ったものの、そこから先が続かないパターンです。例えば○イクロダイエットという商品の場合、一日3食のうち、1食は食事制限せずに普通に食べて良いことになっています。残りの2食は、まずそうな粉末ジュースを飲むことで食事の替わりにしなければなりません。その粉末は「ダイエット時に不足しがちな栄養を補ってあまりある」そうなんですが、腹は減りそうです。これが続く人は少なそうです。
そう「行動を伴わない信仰は死んだ信仰」であり、役に立たない=結果が出ないのであります。

こうして我が家の食卓には「死んだ信仰」の残骸が積まれていくのであります。


2007年11月26日(月) 短いお話

ひさしぶりの勤務で疲れたので、昔いただいたメールのコピーなどでお茶を濁してみます。

「満足している漁師」というお話。アントニー・デ・メロという人の作。

北部から来た金持ちの実業家が、パイプを吸いながら自分の船のそばにのらくらと寝そべっている南部の漁師を見つけて、大変びっくりしました。

「なぜ漁に出かけないのかね?」と実業家は尋ねました。

「だってわしは今日の分のをもう捕まえましたからな」と漁師は言いました。

「何故それ以上に魚を捕まえないんだね?」と実業家は言いました。

「それがどうだって言うんです?」と漁師が尋ねました。

「もっとお金が儲かるではないか。それであんたはモーターをあんたの船に取り付けられる。それでもっと深い海に行き、もっとたくさん魚が捕れるではないか。ナイロンの網が買えるではないか。そうしたらもっと魚が捕れ、もっと金が儲かるではないか。間もなくあんたは2そうの船が買えるだけのお金を持てるだろう・・・多分もっとたくさんお船だってね。そしてあんたは、私のように金持ちになるだろうに」

「それがどうだって言うんです?」と漁師が尋ねました。

「あんたは何もせずに人生が楽しめるってわけさ」と実業家は言いました。

「では、わしが今していることとどう違うのですか?」と、満足しきっている漁師が言いました。


2007年11月25日(日) 頼りになる?

AAのサービス関係で東京へ。東京は暖かいですね。年内はサービス関係の遠出はこれでおしまいです。

さて、たとえ話であります。
あなたが、身に覚えのない多額の損害賠償を請求されたとします。「そんなものを払う理由はない」と突っぱねたところ、相手は弁護士を立てて裁判になってしまったとします。ところが、あなたには法律の知識が何もないものですから、このままでは相手の良いようにあしらわれて、多額の債務を抱えること必至です。

自分の問題なのに、自分では解決の能力がない(法律上の実力がない)。これをアルコールの問題に置き換えると「酒に対して無力」ということ、あなたはアルコールの問題をかかえているものの、自力では解決の能力がありません。ステップ1です。

法律の問題に戻りましょう。
そこであなたは、頼りになる弁護士を探す必要に迫られます。でも、世の中にはクライアントを食い物にするような悪徳弁護士もいるようです。あなたは方々で聞いて回った結果、「かんた」という弁護士が頼りになる、という話を聞きつけます(きっとかんたさんは優しいから、ここで名前を出すことを許してくれますよね)。

「私は法律の問題があると、かんたさんにお願いすることに決めているの」とその人は言います。これがAAのミーティングで聞くステップの経験談に相当しますね。

あなたはその話を聞いて、かんたさんを信じてみることにします。ここでの信じるは believe。これはステップ2。ニュアンスで言えば「とりあえず信じてみようかな」というか「ものは試し」であります。

次にあなたはかんたさんの事務所を訪問し、専門家としての援助をお願いします。これがステップ3です。そしてかんたさんの指示に従って、あれやこれや準備をし、裁判に臨みます(ステップ4以降の実行)。はたしてかんたさんの評判は本物であり、あなたもかんたさんを信頼してその指示によく従った結果、見事裁判を無事に切り抜けます(アルコールからの解放)。

料金も適正かつ良い結果が出たことで、あなたはこの専門家(かんたさん)にお願いして良かったなと思い、かんたさんを深く信頼することになります。あなたはもし次回、どこかで法律のトラブルに巻き込まれたときには、またこの人にお願いしようと決めるほど、かんたさんを信じるようになります。ここでの信じるはすでに believe ではなく faith 信頼あるいは信仰です。結果によって実力が証明されることで faith となります。
繰り返し証明されることで、この信仰は深められていきます。

さらにあなたは、法律のトラブルに巻き込まれている人を見かけると「それはかんたさんにお願いすると良いよ」と紹介するようになります(ステップ12)。

この最初の「とりあえず信じてみようかな」が大事です。最初から疑ってかかって、指示に従わないようでは、たとえ神様と言えども実力を証明しようがないのであります。


2007年11月24日(土) 予備の原稿

正直になると言うことは、怒っているのに、怒ってないふりをするということではありません。傷ついているのに、傷ついていないふりをすることでもありません。

どうして、怒っていないふり、傷ついていないふりをする癖がついてしまったのか。それはおそらく、自分を守る手段だったのでしょう。怒っていること、傷ついていることを表現するよりも、じっと黙って耐えた方が安全だったのでしょう。表現すれば、もっと嫌な思いをし、もっと傷つけられる羽目になるから、平和を装ってきたのです。

その怒りを溜めに溜めて、あげくにどーんと爆発する。爆発のきっかけを作ってしまった人は、「普段おとなしいこの人が、こんなに怒るなんて、私とんでもなく悪いことをしてしまったかしら」と思い悩んだりします。可哀想に。でも、膨らみすぎた風船が、静電気のパチっというショックで割れただけの話です。

怒りを適切に表現する、なんて話もありますが、そんな高度がテクニックがすぐに身に付くんだったら、こんなひねくれた大人に育っていません。

仕方ないから、小出しに出すしかないでしょう。仲のよい夫婦というのは、「お互いに」ギャーギャー文句がうるさいものです。でも、毎日夫婦げんかをしているのとは違います。

我慢するのが解決方法で、怒らないようにするのが回復だと思うのなら、それは勘違いですよ。怒らない日が3日あって、1日怒っただけだとしても、3日溜めた分だけヒドかったりしますから。

怒りを根本から取り除くということは、人にできる業ではないと思います。


2007年11月22日(木) サクリファイス

あまりに多くの時間、あまりに多くの情熱、あまりに多くの金銭などなどを「AAに捧げ」、それ以外のことを犠牲にしている人もいます。まるでその人の人生はAAのためにあるかのようです。
そうなると、依存の対象がアルコールからAAに変わっただけではないか、という批判も出てきます。もっとバランスを取り、自分本来の人生を大事にしたらどうか、という提案も出ます。AAがカルト的で恐ろしい所にも見えてきます。

そういう問題について、僕も今まで考えてこなかったわけではありません。

いままで僕の考えが変わってきたように、将来も意見が変わるかも知れませんが、ともかく現時点での僕の結論は、「そういう人には、それだけAAが必要であり、それ以外の人生はあり得ないのだ」ということです。「あまりに多くをAAに捧げ、その対価としてソブラエティを手にする」のか、あるいは「飲んだくれに戻る」のか、二者択一しか許されない状況の人がいると解釈しています。
それが不幸なことなのかは分かりません。本人が自分の選択に納得しているなら、人がとやかく言うことではないでしょう。
逆に言えば、依存症とはそれだけ厳しい選択を人に迫る(こともある)病気なのです。

もちろん、それほどAAに傾倒しなくても酒が止まり続けている人もいます。家のローンを払うために仕事が忙しく、年に何回かしかAAミーティングに来れない人もいます。けれどそういう人のAAに対する感謝も、どっぷりAAにハマったひとの感謝も、違いはないと思います。

そして、自分が「どっぷりAAにハマる必要がある」か、「たまにAAに顔を出すだけですむ」のか、残念ながら自己決定できる選択ではありません。俺はAAに人生を費やしたくないと言いながら、酒に人生を費やしているようでは話になりません。定期的にスリップしていたり、酒が止まっていても感情のトラブルを抱えているなら、人生の他の部分を犠牲にして、AAにより深くハマってみるしかないでしょう。
病気の重さは自分では決められません。

サクリファイス(sacrifice)とは生け贄を捧げるという意味です。手放したくないと思っていた何かをサクリファイスしなければ、次の人生が開けてこないってことは、何もAAに限った事じゃないでしょう。

ミーティングの数を減らしていって、酒を飲んでしまったら減らしすぎだった、ぐらいしか判断の方法がないのであります。


2007年11月21日(水) 研修会メモ書き(primary disorder)

長野県北部には断続的に雪が降るという予報でした。
実際にミーティングからの帰りには、雪が舞っていました。ただ、気温がまだ零度付近なので、積もるようになるのは先の話でしょう。

さて、研修会の話。

非常に基本的な話として、依存症全般は「原発的な疾患」であるという話。

依存症ではない人が、例えば大失恋という辛い体験が乗り越えられなくて、酒に溺れることで失意を紛らわそうとしたとします。この人が毎日酔っぱらっていたとしても、大元の原因である失恋が取り除かれれば・・・、つまり時間の経過によって脳がバランスを取り戻すとか、別の恋愛をするとか・・もはや酒を飲んでごまかす理由もなくなるので、酒に溺れることもなくなります。
心の悩みという原因があって、飲んだくれという結果が生まれます。

精神科医やカウンセラーのところに持ち込まれるトラブルには、表面的な症状とは別に、トラブルの原因となっている他の問題が潜んでいることが多いのだそうです。

一方依存症の場合には、最初は他の問題のために飲酒が始まったのかも知れませんが、この病気になってしまったら、もう原因を取り除いても、飲酒が止まるわけではありません。飲んだくれていることが、さらなるトラブルを呼んでいるわけで、トラブルを周囲の人が解決したからといって、依存症は治まりません。

依存症そのものが primary 第一の、主要な、おおもとの病気です。家族(奥さんやお母さん)から、こんなに本人が飲んだくれているのは、なにか心の悩みが原因ではないか、という相談を受けることがありますが、原因探しをしても始まりません。

だから、女優のお母さんが記者会見して謝罪しても、何も解決しません。親の育て方が悪かったという話でもありません。だって息子ももう成人男性なんですし、問題は薬物依存という病気なんですから。NAでもDARCでも、金があるなら海の向こうのどこかの施設でも、放り込んであげるのが適切な行動ということです。


by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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