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川崎遼子さん
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▽被爆時
=8歳・城山国民学校3年生
▽被爆場所
=長崎市油木の防空ごう
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川崎遼子さんがいなくなったのは、原爆投下から丸十年を前にした一九五五年六月。「若い子が国鉄に飛び込んだらしい」。今の長崎市松山町にあった自宅で、姉の下平作江さん(68)はそういう話を聞き、すぐ近くの踏切へ急いだ。
顔も分からないほど傷んだ遺体。「線路脇に、げたと傘が並べて置いてありました」。遼子さんの物だった。
四五年八月九日の朝。「出たらつまらんて、兄ちゃんの言うたやろが」。空襲警報が解除され防空ごうから外に出た作江さんは、遼子さんにとがめられた。作江さんは城山国民学校の五年生。遼子さんは三年生。
すぐに猛烈なせん光が走った。爆心地から約八百メートル。防空ごうに残った姉妹と一歳のおい、近所の子どもら数人は助かった。警報解除で帰って行った子どもらは皆、死んだ。自宅近くにいた母と姉、前の晩「防空ごうから出るな」と諭した兄も亡くなった。
遼子さんは、それから十年後の高校を卒業した初夏、命を絶った。作江さんにとって、原爆投下の日を身を寄せ合って耐え、戦後も共に苦しみをくぐった妹だった。
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「彼女だけを撮った写真がない。集合写真から妹だけを肖像画にしてもらった。仏壇の前に置く妹の姿がほしかったんです」と姉の下平作江さん
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被爆後、髪の毛が抜けた姉妹は仰天し、傷ついた。その後何年も続いた下痢や出血―。被爆者の病気は「うつる」と言われ、遠巻きに見られている気がした。遼子さんは盲腸の手術後、一年ほども傷口がふさがらなかった。いつも血の混ざった、ひどくにおう体液が足を伝って流れていた。
動機につながる言葉を遼子さんから聞いたことはない。「傷のことだけじゃないかもしれない。ただ、十八歳の思春期。治らないと悩んだのでしょう…」
作江さんは被爆から五、六年たったころから、自殺者が多いと感じていた。「原爆で傷ついても生きなきゃいかん、と何年か頑張って、疲れ果てた人たち。鉄道ではしょっちゅうだった。でも妹まで…」。涙をぬぐい、肖像画を見やった。
妹は、長崎へ引き揚げるまで一家がいた旧満州遼陽で生まれたから遼子と名付けられた。引っ込み思案で無口だが、意地っ張りで頑固者。学校の先生が快活な姉と見比べて「ほんとに姉妹なの」と不思議がって笑った。対照的な姉妹は、登下校も家業の手伝いも一緒だった。
肖像画は、戦後の写真を基に東京の画家が描いた。遼子さんが中学生のころの笑顔。「あのころは死ぬのも生きるのも勇気がいった。遼子は死にたくて死んだんじゃない」。語り部である作江さんは、子どもたちに戦争を教えるとき、妹の死を話す。
2003年7月23日長崎新聞掲載
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