元麻布春男の週刊PCホットライン

無くしてほしくないPCの自由な世界




NTT東日本の古賀哲夫副社長
 11月8日に開かれたWindows Liveの発表会で、ゲストとして招かれたNTT東日本の古賀哲夫副社長の発言が、一部で話題になっている。主催者であるマイクロソフトを批判したように受け取れる発言があったからだ。筆者も、この都内のホテルで開かれた発表会には出席したが、ここではInternet Watchから引用すると、

1. 「こうした高速回線のメリットが実感できるサービスはの1つは動画だが、もう1つはOSそのものがネット上に乗り、それを家庭から利用できるような環境だと思う」

2. 「OSが新しくなる度にそれをパッケージで売るという物売りの発想ではなく、OSも月額料金で利用できて、バージョンが上がればそのまま最新版が利用できるといった、本当のソフト売りの発想を望みたい」

という2つの発言で、特に2がマイクロソフト批判ではないかと受け取られたわけだ。

 まぁこの2については、そういうNTTグループも、「販売奨励金をつけて端末を売るという物売りの発想ではなく、MVNOも含めた電話のインフラサービスを提供するという本当のサービス会社の発想を望みたい」、などと混ぜっ返したいところ。販売奨励金の投資がなければ、料金システムは分かりやすくなるだろうし、SIMロックも不要になるのではないか。が、筆者がここで取り上げたいのは、実は1の方の発言である。一般に1については、SaaS(Software as a Service)的な観点で、これからの進む道、正しい発言的にとらえられていることが多いようだが、筆者はあえてこれに反対したい。

 要はOSはネットワーク上のサーバーにあれば良く、ユーザーは家庭からNTTの光回線でこれを利用し、メンテナンスやアップデートはサーバー運営会社任せ、ユーザーはキーボードとディスプレイだけあれば良い、という趣旨だ。この実現については、メンテナンスで利用できなくなる時間をなくすことができるのか、データの損失に関する補償ができるのか、といった実務的な疑問もある。だが、筆者がもっと根源的な部分で感じるのは、そうなったらこれはもはや「PC」ではない、ということだ。

●PCの本質は計算機資源の管理にある

 良くも悪くもPCは、すべての計算機資源をユーザーが管理するシステムである。これを管理できる、と積極的に受け止めるか、管理しなければならない、と重荷に感じるかはともかく、これこそがPCの本質だ。PCが誕生した'80年前後、PCが一部に熱狂的に受け入れられたのは、研究所や大企業の計算機センターにしかなかったコンピュータを、個人が占有できる、ということからであった。性能は劣っても、誰に気兼ねすることなく、個人が自由に使える計算機が欲しい、ということがPCを生み出した。これは一般個人のみならず、企業内個人にもあてはまる。

 PCは、すべての計算機資源をユーザーが占有できるかわりに、その管理も行なわなければならないシステムだ。これは昔も今も変わらない。そうであるからこそ、ユーザーはPCにおける自由を確保できる。もし、計算機の利用が、サーバーの資源を端末で利用する形になれば、管理の責任を負わないで済む代わりに自由も失う。たとえば世の中にPCが存在せず、通信会社が管理するサーバーを、通信会社の光回線経由で利用するようなシステムばかりだったとしたら、Skypeのようなサービスは誕生しなかったに違いない。通信会社に不都合なソフトウェアやサービスは、簡単に排除されてしまうだろう。

 プラットフォームとしてオープンであるためには、そこに自由がなければならないし、それにはユーザーが自らソフトウェアを作成する自由も含まれる。もちろん現実問題として、ほぼユーザー全員がプログラマーだった8bitマイコンの時代はともかく、現在では自らソフトウェアを作成するユーザーは全体の1%未満かもしれない。それでも、可能性として誰もがソフトウェアを作成できるということに意味がある。PCの自由は時にカオスとなり、混乱をもたらすこともあるが、その中から新しいアイデアやイノベーションが生まれる。もちろん、アイデアやイノベーションのために反社会的な行動も許されるというつもりはないが、自由が失われればイノベーションも失われる。

 逆に、TV番組の情報を調べるのに、メールを読むだけなのに、計算機の管理を押しつけられるのはたまらない、という人もいるだろう。現在の問題の1つは、こうした人までPCを使わざるを得ない点だが、携帯電話がこうした人たちのための代替ネットワーク端末になりつつある(すでになっている)ように思う。キーボードとディスプレイだけの端末も、代替ネットワーク端末として携帯電話を補完するものというのなら理解できるが、発想として失敗したLモードに近いものを感じる。いずれにしてもPCがイヤならこうした代替端末を使えば良いだろうし、便利だと思えば両方を使えば良いだけの話で、それぞれを排他利用しなければならないものではない。

●貴重な自由を安易に否定してほしくない

 少し前、大手の検索エンジンで「初音ミク」の画像検索が期待した結果を返さない、ということが話題になった。徐々に沈静化し、本当の原因は何だったのか良く分からないのだが、この「事件」から学べることの1つは、1社のサービス、1つのサービスに依存することの危険性だ。独占的なサービスに依存してしまうと、情報操作されてもなかなか気づけない。計算機資源をすべてキャリアに握られることにも、同様の危うさを感じる。

 IBM PCが誕生して26年、Apple IIの誕生からは30年以上が経過した。PCのもたらした自由とカオスは、ネットワークでの相互接続を経て、ますます増大し、もはや誰もコントロールできなくなっているのかもしれない。その反動が、シンクライアントに代表される管理された、あるいは管理しやすい端末を待望させる結果となっているとしても、不思議ではない。特に企業においては、コンプライアンス遵守の観点からも、シンクライアント的な端末は必要だろう。

 それでも社内の端末がすべてシンクライアントの企業と、PCも使える企業では、生まれてくるサービスや製品に違いが生じると筆者は信じたい。人間から新しい発想を引き出すには自由が不可欠だ。その自由に、時に管理者側に不都合な要素が混じるのは、いわば避けられない副作用であろう。シンクライアントやSaaS的な発想を排除するのも短絡的過ぎる見方だが、すべてがそうなるべきだという考えにも賛成できない。サービスとしてマイクロソフトのOSが利用できるということを否定するつもりはないが、そうあるべきだ、という発想には断固反対したいのである。PCがPCであるためには、ユーザーが管理できるハードウェアと、それを運用するためのソフトウェアがどうしても必要だ。

 その担い手がマイクロソフトなのかどうかは筆者にはわからない、マイクロソフト自体にも自由から管理へという風潮があることは否定できないからだ。しかし、万が一、マイクロソフトがダメになっても、Mac OSやLinuxという複数の選択肢があるPCという世界の自由さは貴重なものであり、安易に否定してほしくないと思う。

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【11月8日】Windows Liveが「ソフトウェア+サービス」の方向性を示す、バルマーCEO (INTERNET)
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2007/11/08/17450.html

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(2007年11月14日)

[Reported by 元麻布春男]


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