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インドネシアで旧日本兵の遺体115体見つかる

2007年11月13日

 赤道直下にある太平洋戦争の激戦地、インドネシア・ビアク島(パプア州)で今月、厚生労働省の遺骨収集派遣団が旧日本兵の遺体115体を確認した。洞窟(どうくつ)周辺や林、民家の敷地から人骨が次々と見つかり、連合軍兵士とみられる白人の骨もあった。凄惨(せいさん)な戦闘から62年余り経て、ようやく帰国した。住民によると、旧日本兵の多数の白骨が島のあちこちになお残っているという。同省は本格的な調査・収集活動に乗り出す方針だが、地元住民との協力をめぐる課題もある。

写真日本兵とみられる人骨や鉄かぶとが見つかった民家の敷地内の穴。派遣団が確認に行くと地元の子どもらが大勢集まってきた=インドネシア・パプア州のビアク島で
写真旧日本兵の骨は地元住民の協力を得て火葬された=インドネシア・パプア州のビアク島で
地図   

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 派遣団は厚労省の職員2人と、遺族であるNPO法人・太平洋戦史館(岩手県奥州市)のメンバー3人。今月1日から7日までビアク島を訪れた。遺族らが今夏、現地で多数の人骨を確認し、収集を要請していた。

 旧日本軍が司令部としていた島南東部にある「西洞窟」に近いマンドウ地区の林で78体、海岸に近いモクメル地区で4体を確認。地元住民らが見つけて保管していた遺骨計33体を受け取った。同行のインドネシア人医師が鑑定した結果、全員が10代後半から20代前半と推定された。これとは別に、連合軍の兵士とみられる白人の骨も10体以上あった。

 個人の特定につながる遺品がなかったことなどからDNA鑑定には至らず、5日に現地で荼毘(だび)に付された。白人の骨は当面現地で保管される。

 父親を同島で亡くし、7月に続いて訪問した平野達(とおる)さん(66)=高松市=は「DNA鑑定で遺族に返すことができればという期待があったが、やはり難しいのか。これから行く先は無名戦士の墓か……」と無念そうに話した。

 今回の収集中に住民から、米軍の砲撃で崩れた崖(がけ)の下に遺体があるといった新たな情報が寄せられた。また、島北部は旧日本兵約4千人が死亡したとされるが、収集は進んでいない。

 海外で戦死した旧日本兵の遺骨収集について、政府は75年に「おおむね終了」を宣言し、民間から確度の高い情報があれば収集するとしている。派遣団長を務めた同省の三宅満・援護企画課外事室長は「政府としても現地の調査をすすめるなど、効果的な遺骨収集を検討したい」と話した。

 持ち帰った遺骨は来年5月、東京・千鳥ケ淵戦没者墓苑に納められる。

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 ビアク島は面積約2千平方キロで東京都ほどの大きさ。熱帯雨林と白い砂浜に囲まれている。

 島の中心部から車で約15分。「ゴア・ビンサリ」(老女の洞窟)と呼ばれる巨大な洞窟は、ユスフ・ルマロペンさん(45)一族が代々住居としていた。

 43年にビアク島に上陸した日本軍は、この天然の要塞(よう・さい)を占拠。「西洞窟」と名付けて司令部を置き、最大約2千人の将兵がたてこもった。

 ルマロペンさんの父や祖父母は洞窟を追い出され、親類の男性4人は日本軍の荷役として使われた末、日本兵に殺されたという。

 「何の関係もないビアクの人がたくさん殺された。戦争の残酷さを証明するものを残しておきたい」。ルマロペンさんは80年代半ばから、一族の土地である洞窟や周辺に残された銃や大砲、飛行機の残骸(ざん・がい)、水筒や時計などの遺品を集め、手作りの資料館に展示している。壁には半ズボン姿の若い兵士らの写真が掲げられていた。訪れた戦友や遺族がルマロペンさんに託したものだ。

 「戦争では多くの人が死ぬもの。日本人に恨みはないし、遺骨を探しに来る遺族の気持ちも分かる」。ルマロペンさんは、日本兵の遺骨を探したり、情報を集めたりして、日本政府の遺骨収集に協力してきた。

 資料館の運営は、訪れる遺族らの入館料2万ルピア(約250円)や寄付でまかなってきた。だが、戦友や遺族の高齢化などで来館者は減少。老朽化した施設の改修もできない。「日本に支援してもらえないか」と訴える。

 米国と結ぶ航空便が94年に廃止され、唯一の高級ホテルも閉館。日本政府はインドネシア政府との関係から、独立運動がくすぶるパプア州への支援に消極的だ。

 派遣団の三宅団長は、遺骨収集に先だって県観光局を訪れ協力を要請した。ピエット・ウォスパクリック局長は「日本もビアクの住民も共に戦争の犠牲者だ」と穏やかに応えた後、こう付け加えた。「この地域は教育や医療で支援を必要としている。遺骨収集事業がお互いの利益になることを願う」

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 《ビアク島》 太平洋戦争中、ニューギニア戦線で敗退を続けていた日本軍が「絶対国防圏」の拠点として、43年末から飛行場整備を進めた。44年5月に上陸した連合軍の前に、日本軍は約1カ月で壊滅。1万人以上が死亡した。

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