集団自決「軍の命令」で応酬、大阪地裁の出版差し止め訴訟で陳述──大江氏「軍の命令あった」、元隊長「村人を諭し止めた」2007/11/10配信
太平洋戦争末期の沖縄
訴えていたのは、1945年3月、沖縄・慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島で、多くの住民が集団自決した当時、座間味島の
大江さんは著書「沖縄ノート」で、ほかの文献を引用する形で集団自決を日本軍の命令とし、渡嘉敷島の守備隊長について「『命令された』集団自決をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」などと表現。「事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」と記した。 大江さんはこの日、集団自決について「『軍官民共生共死』という日本軍の方針や、軍から島民に手りゅう弾が与えられたことなどが重なり、米軍の上陸や攻撃をきっかけに現実のものになった」と陳述。「(命令は)守備隊長個人というより、大きく日本軍の行ったことととらえていたため、(著書に隊長の)名前を出す必要がなかった」と述べた。 原告の代理人が「読者は、罪のない島民を強制的に死なせながら自らは生き延びた非道な人物と梅沢さんらを認識する」と指摘したのに対し、大江さんは「個人の命令として集団自決に言及したことはなく、どうしてそう読み取られるのか理解できない」と答えた。 一方、これに先立つ原告への本人尋問で、梅沢さんは「村人から『足手まといになるから自決する。手りゅう弾が欲しい』と頼まれた」と陳述。さらに「『死んではいけない』と諭し、弾薬も渡さなかった」と述べた。 軍命令については「戦後、遺族補償を得るため、『軍命令があった』との虚偽の申請をしたと島民から打ち明けられ、『命令はなかった』との書面も書いてもらった」とした。 1980年に梅沢さんが手紙に「集団自決は軍の住民への影響があり、軍の指揮官として責任を感じている」などと書いているとの大江さん側代理人の指摘に、梅沢さんは「当時、島にいた日本軍として全く関係ないわけではないという趣旨」と応じた。 この日は65枚の一般傍聴券を求めて693人が並んだ。裁判は12月21日に結審し、来年春にも判決が言い渡される見通し。
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