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2007-11-07 (Wed.) 原因の特定、打開策、勘所

まず、カトリック新聞。

日本へ宣教師派遣要請

     池長大司教、アジア召命会議で  タイ

【サンプラン(タイ) 10月24日UCAN】 大阪教区の池長潤大司教が、アジアでの召命についての初のシンポジウムで、日本への宣教師派遣を呼び掛け、参加者の驚きを誘った。
 十月二十二日から二十七日まで、タイ・サンプランのバンコク教区司牧養成センターで開かれていた「今日のアジアの召命」と題された会議の作業日初日、池長大司教はアジア諸国の教会に助けを求めた。「多くの召命に恵まれた」各国に構造的計画によって、日本のような召命の極端に少ない国々に司祭や修道者など宣教師を送るよう呼びかけたもの。(…)

カトリック新聞 2007年11月4日 第1面

何となく、恥ずかしい... (- - ;)
「日本の教会は、自分で自分の尻も拭けないのか?」という疑問が起こる。
「日頃何かというと "日本の独自性・自律性" などと誇るくせに、そんなていたらくかよ」と思っちゃう。
司教様方の一生懸命なお働きにケチを付けるようで申し訳ないけれども、これってまったくの、見事な「対症療法」ですよね。間に合わせです。それとも「他国との麗しい協力関係」「持ちつ持たれつ」でしょうか? まさかね...

対症療法ではなくこれを "根治" させるには、「真の原因」を特定しなければならないけれど、それについて日本の司教樣方はどう思っていらっしゃるのだろう。

それにしても司教樣方。私はどうもそのような気がしてならないのだけれども・・・
ひょっとして、日本で召命が少ないことを、「文化」や「社会世相」のせいにしておられませんか? あなたの「私はそれを憂えている」という言葉は、どこまで "本当" ですか?

私は、実は昔から、「それは怪しい」と思っています。司教様の中の誰かお一人がそれを憂えながら話すのを耳にしても、「そのお気持ちは "本当" ですか? どこまで "真剣" なのですか? 形だけの "決まったセリフ" じゃないのですか?」と意地悪に訊いてみたい気がします。

司牧者の方々が口ではそう言いながら、その実けっこう "のんびり" しているのは、きっと司牧者の方々も人間であって、本当の意味で天主の御前に一人っきりで立つより、ご自分達の「仲間」の群れの中にいて、ある種の "眠り" に陥りがちだからだと思います。それが人間の共通した性です。
しかし聖ピオ神父であれ、アルスの聖ヴィアンネ神父であれ、どれほど「天主の御前に一人っきり」であり「変わり者」であったことでしょうか!

日本の司牧者の方々は、日本が「召命の極端に少ない国」であることの「原因」を、いったいどのような「方面」に見出そうとなさっておられるのでしょうか。私は、もしその掴んだ「方面」が間違っていれば、どんなに涙ぐましい努力をしても駄目だと思います。

私には、一言で言って、司牧者の方々が「社会分析」みたいなものに終始しているような気がしてなりません。私達の〈肉の目〉に映じるもの、この世の社会の様相とか現象とかばかりを相手になさっておられるような気がします。まるで学者さんみたいに。
しかしそうやって把握された原因ら (複数) は、普通、とても拡散して、捉えどころがないものです。一つの大きな事象はものすごく多くの、そして細かい事象と連関し、絡み合っているからです。何でもいいです、この社会に落ちている問題、懸案事項のどれか一つを拾いあげて、それに知的な分析を加え、それの「原因」と思われるものをあげてみて下さい。すると、それらはとても広範囲にわたっていて、複合的であることがわかると思います。どこから手をつけていいのかわからないくらいに。L(- -;)」オテアゲ
〈肉の目〉に映じることばかりを相手にし、それを根底にし、出発点にし、そしてそれにいわば〈肉の知性〉ばかりをもって究明の手を加え続ければ、必ずそんなふうなことになります。

私が先日抄訳してみた英文の記事の中にもちょうど、訳さなかった前半の部分に、次のようなのがありました。

年月の経過と共に別の嫌疑も加えられた。
アメリカ合衆国のカトリック誌 The Homiletic and Pastoral Review の1980年5月の記事の中で、ブニーニは、彼が聖体を信じていないという嫌疑に対して、また彼の改革は教会を空にしたという嫌疑に対して、自身を護ろうとしてこう言っている。「主の御恵みにより、神聖な聖体に対する私の信仰は、聖なるカトリック教会のそれでしたし、今もそうです。私は、[たとえ誰であれ] 典礼改革において神聖な聖体に対して疑いを置く只一つの表現をしても、それに挑戦します。"数百万" の人々を信仰から遠ざけたと言われている "典礼革命" のことですが... 私達の時代において信仰の後退の原因は多く、そして複雑です。」

Did Bugnini Get a "Bad Rap" after all ?
http://www.olfatima.com/August%207%202005.htm

「原因は多く、そして複雑です」 その通りです、ブニーニ大司教様。この世の現象はどれも、その「目に見える原因」を拾えば、「それは多く、そして複雑」です。当たり前のことです。

勿論そういう行き方が100%悪いというのじゃありません。これが学者さんなら全くOKです。でも、私達は第一に学者ではなく、あくまで信仰者です。

いったい「信仰」とは何でしょうか? それは最も基本的に言って、端的に言って、「目に見えないものを信じ、且つ、目に見えないものが目に見える事象-----物であれ、人であれ-----を動かすことを信ずること」ではないでしょうか? これはとても原初的な言い方ですが、しかしまかり間違っても嗤うべきことではありません。これを失うと、もはや「信仰」ではありません。

私達は信仰者です。だから、机の上に数々の「原因」を並べて考察を加えつつ椅子を温めているわけにはいきません。学者さんならそれで論文をまとめればおまんまを食べられるわけだけれど、教会司牧者の方々までがそれに倣ってのんびりとしたことをやっていたのでは、教会が危機に瀕します。

考えてみて下さい。「学者さん」(だけである人) が主の霊の府たる教会を救えるでしょうか? 先ほど〈肉の目〉と言い〈肉の知性〉と言いましたけれど、要するに「自然的」な手法をもって「超自然」の事象を動かせるでしょうか?

今の司牧者の方々は完全に勘違いなさっているかも知れません。それは、召命が私達人間の〈肉の心〉の問題だと思っていることです。召命が大方は自然的な事柄だと思っていることです。しかし真実は、それは霊的な事柄であり、超自然の事柄であるということです。召命を与えるのはただ主です。比喩的に言うのでも、「言ってみれば」「煎じ詰めれば」「振り返ってみれば」「とどのつまり」と言うのでもなく、正に、じかに、それはそうです。主が人を生み、運びます。決して、日本という国の文化や世相に合わせてする皆さんの「創意工夫」が召命を与えるのではありません。
「日本文化に鑑みて」と言いつつ、あるいは「日本の現代世相に鑑みて」と言いつつ、あるいはブニーニ大司教の内心にあったであろうように「人間本性の動かしがたい "現実" に鑑みて」と言いつつ、それらに合わせて教会のカタチをあーだこーだといじくろうとすることは、召命の問題が人間にとって自然的な事柄であり、〈肉の心〉に関係した事柄だと思っている証拠ではありませんか?

このように、私にはそもそも日本の司牧者の方々の原因を探す「方面」が間違っているような気がします。それも、おそらく決定的に。

地上ばかり見ています。地上の事象ばかり見て、あーだこーだと分析話をしています。司教様方は会議ばかりしています。私には教会の司牧者の方々が「原因の特定」の段階からして、とても「信仰者らしくない」ように思えます。(「らしくない」と言っても、私は単に見かけ上のことを言っているつもりはありません。何か、実際、とても信仰者として「ピンボケ」な感じがする。)

司教様。神父様。日本にこれだけ召命が少ないのは何故ですか? これだけ徹底的に目も当てられないほど少ないのだから、何か決定的な原因、大きな原因がなければなりません。
ここで「世界の潮流」なんて見ないで下さい。「先進国ではどこの国でも似たようなものだ」などというところに決して落ち着かないで下さい。

次にあげるのは、前世紀前半のポルトガルの話です。私は、ここに「原因の特定」の良い見本、あるいは「打開策」、その「勘所」の掴み方に関する良い見本があると思います。今の日本の司牧者の方々の目に、この話はどれだけ「現実味」のあることに映るでしょうか? 私は、下手をすれば、日本の司牧者の方々の多くが、このような話を「鼻で嗤う」のではないかと心配しています。

おそらく、ベルトーネ大司教は、聖母がすでに、ご自分の汚れなき御心の勝利がどのように見えるかについて、世界に一つのおぼろげな感知、のぞき見、前奏曲を与えられたということに気づいていないのです。聖母は1931年5月13日にポルトガルにおいて、ポルトガルの司教団がその国を--名をあげて--奉献した後に、このことをなさったのです。

教皇が世界の司教たちと一致してロシアを汚れなき御心に奉献するとき、世界的になそうとしておれることを一つの国のレベルで示すために、聖母はポルトガルをお用いになったと思われます。おそらく、聖母はまた、気の抜けた汎宗教的な「愛の文明」が決して天の元后の勝利を装うことができないように、わたしたちにこの予告編をお与えになったのです。

ポルトガルの奉献:「聖母のショーケース」

1931年5月13日、その出来事のためにファチマにやって来た30万人の信徒の面前でポルトガルの司教団はマリアの汚れなき御心にその国を荘厳に奉献しました。これらのよき司教たちは、ヨーロッパ中を、特にスペインを襲っていた共産主義の悪影響からその国を守るために、ポルトガルを聖母の保護の下に置いたのです。この奉献の結果としてポルトガルは三つの奇蹟を経験しました。ここで、わたしたちはただありのままの点だけを述べることにします。

1)すばらしいカトリック・ルネッサンスがあり、カトリック生活の偉大な再生がありました。それは非常に顕著であったので、それを経験した人々はそれを問題なく神の働きに帰しました。この時期の間、ポルトガルは司祭職の召命において猛烈な急増を享受しました。修道者の数は10年間にほとんど4倍になりました。もろもろの宗教共同体も同じように増加しました。カトリック新聞、カトリックラジオ、巡礼、黙想会、そして司教区および小教区の枠組みに統合されたカトリック・アクションのたくましい運動を含む、多くの領域に現れたキリスト教的生活の大きな更新がありました。

このカトリック・ルネッサンスは非常に巨大なものだったので、1942年にはポルトガル司教団は共同牧会書簡において次のように宣言しました。「25年前に目を閉じ、今目を開く人は誰でも、ファチマでの祝せられたおとめの御出現のつつましいそして不可視的な要因によって作用した変容が非常に大きいので、ポルトガルをもはや認めないでしょう。実際、聖母はポルトガルを救おうと望んでおられるのです。」

ファチマの聖母マリア「なんとも腑に落ちない話」
http://www.d-b.ne.jp/mikami/addup.htm

私はごく単純に思います。
「召命減少の『原因』は "神の御心に適っていないから" です。」

少なくともこのように単純に捉えてみる気すらさらさらないなら、「原因の特定としてこれはいささか大雑把過ぎる」と澄まし顔で言うなら、私は、それはむしろ「信仰者らしからぬ」ことだと思います。「天主は、もし私達が天主の御心に適っていさえすれば、必要なものは何でも私達に与えて下さる」、このような単純な言い方を少しも現実的と思わないなら、それは信仰者らしからぬことだと思います。

また、上の話を、他国の、それも遠い昔の話だと思ってはならないと思います。もしそのように思うのが正しいなら、私は今日から聖書を読むのをやめなければなりません。そこからは「現在の時代にマッチした教訓」を何も学べないでしょうから。

上のポルトガルの事例は、霊的な事柄の霊的な流れを私達に如実に物語っています。私達のしていることは霊的なことなのですから、どうして霊的な線に沿って何かをしないのですか? どうしてそのように信者を励まなさないのですか?

日本は物質的には豊かな恵まれた国ですが、精神的・霊的にはそうではありません。自殺、殺人、堕胎、ポルノ、鬱病、ひきこもり、いじめ、虐待、リストカット、薬物、依存症、責任感の喪失、人心そのものの喪失、破廉恥、快楽主義、唯物主義、拝金主義... もちろんこれらの不幸に虫眼鏡を当てて過度に誇張するつもりもありませんけれど、しかし天主の理想からは遥かに遠いには間違いないです。それで・・・
日本を聖母の汚れなき御心に奉献しては如何ですか?

確かに少し大袈裟な感じがします。でも、私はあえてこれを日本の司牧者の皆さんの前に差し出したいのです。「私達と天主様との関係はどういうものか?」と互いに真剣に考えるための機会にするために、失われ切っているかも知れない霊的な方向感覚を取り戻すために、これは良い題材です。「奉献」、これはカトリック信者にとって別にビックリするようなものではありません。本来カトリック教会の信仰の中に在ったものです。これにビックリしたり苦笑したりすることは、確かにそのような反応を見せる人の "信仰のかたち" を表わしています。
ポルトガルではそれによって召命が大幅に伸びた、と書いてあります。ですから、もし日本の司教様方が、「彼らは実は大して本気で憂えているのではないのでは?」という私の失礼な直感に反して、真実、心から憂えているのならばそうでないなら別ですが)、それをやってもいいのではないでしょうか。日本を聖母に捧げて下さい。だってあなた方は「召命の極端に少ない国」である日本のことを心配しているわけですよね。信徒に、「今後は皆さんにはしばしば司祭がいなくなります。だから皆さん自身でしっかりしなければなりません」とまで言うのですよね。あなた方が信者にこのようなことを言わなければならない日本のカトリック教会の現状は「おおごと」ですよね。それとも、それほどでもないの? 「なるようになるさ」とか、「これも時代で仕方がない。なるようにしかならないさ。それでも主はお恵み下さるだろう」とか言って済ませられる事柄なのでしょうか?-----そのへんのところ、どうなのでしょう?

あるいは・・・
日本のカトリック教会に豊かな召命があるように、もっと信徒にロザリオを祈るよう励まして下さい。
あるいはロザリオに熱心な信者達を中心にして、「ロザリオ信心会」のようなものを作ることを励まして下さい。少なくともその「提案」を、信者達の中にあなた方から置いて下さい。そして信者達全てに向かってこう言って下さい、「どうかミサの場でだけでなくご家庭でも、この意向のために聖母にロザリオを捧げて下さい。今の日本のカトリック教会はとてもひどい、憂うべき状態にありますから。あと十年もすれば、司祭の数がものすごく足りなくなるのですよ? 毎主日に御聖体を頂くことはできなくなりそうです。ですから出来得るだけたびたび、一人で、またご家族で、天主がこの苦境から日本の教会を救って下さるように、それを聖母が主に取り次いで下さるように、ロザリオを祈って下さい」と。そのように信徒に呼びかけることが、あなた方の日本の教会に対する「真剣な憂慮」からすれば、ごく自然ではありませんか。それとも違うのですか? 信徒のことを真に思えば、その程度はハッパをかけて祈らせるのが愛というものではありませんか。違うのですか?

でも、私が心配なのは、「奉献」や「信心」というものが-----そして悪いことに「祈り」そのものさえ-----現在の多くの神父様方の胸中におかれましては、実は何ほどの意味も持っていないのではないか、ということです。「奉献」や「免償」などは、今の神父様方においては、既に死に絶えたものかも知れません。事実、或る司祭は私の前で「贖宥? それは今はもうない」と言いました。では「信心」はどうですか。それは信仰そのものより、あるいは神学より、一段下のものですか。ただ単にそれを行う信者自身の心を信仰に引き立てる限りにおいて、つまりその信者の主観においてのみ価値のあることですか。ルルドでもファチマでも聖母は幾度となく「ロザリオを祈りなさい」とおっしゃいましたが、それでもあなた方はロザリオに客観的な価値と力を認めませんか。ロザリオは数ある信心業の中の一つのオプションに過ぎませんか。「犠牲」「犠牲を捧げる」ということはどうですか。聖母はこれも何度となくおっしゃっておられます。これも「時代遅れ」として一蹴ですか。(聖母を一蹴することに等しいですが。)

あなた方は実のところ、「祈りの力」を現実的なものとして信じているのですか?
祈る者の心(主観)を多少変えるものとして程度でなく、遥かにそれ以上の、人類の世界を実際に動かすものとして。
「祈ってもあまり大したことにはならない」と感じていらっしゃるのではありませんか?
司教様。あなたは、東方教会のBoniface修道院長が言ったように本来的に私達のリーダーです。そのリーダーが「祈っても大したことにはならない」と常に感じているとしたら、信徒の旅は辛くなります。

私は、このようなことがみな心配なのです。そして信頼できないのです。本当に、あなた方は学者さんみたいです。信仰の感覚を失っています。どうしてこれほどまでになってしまったのですか。

きっと本当には憂えていないのだと思います。それはきっと第二バチカン公会議によって「救霊」についての考え方が変わってしまったからでもあるのでしょう。今や他宗教でも救われます。プロテスタントならなおさらです。無宗教の人でさえその善意によって救われます。聖霊はその思うがままに吹き、あらゆる人に恵みを注ぎます。人が地獄に行かないために、必ずしもご聖体の秘跡やゆるしの秘跡は必要ないかも知れません。
これらの新しい眺望が実際にも霊的な世界の現実と符合しているか否かは一応は別として(それはこの世の人間にはなかなか知り得ることではありません)・・・
そんなんでどうしてあなた方は本当に教会のことを心配できるでしょうか?
いいえ、これらの新しい教えの故に、すぐ近くに予想される教会の惨状を目の前に置いてすらあなた方の心にそれほど「アクセルがかからない」であろうことは、比較的容易に想像できます。なんたって人は救われるために-----少なくとも滅びないために-----カトリック教徒である必要はないのですから!

「生温さ」「微温的」、これらの言葉も今や教会の中からすっかり消えてしまいました。信者の意識はたとえ緩むにだけ緩んでも救われ得るのです。

司祭も今や、たとえ信者の一人が教会に来なくなったことに明らかに気づいても何も心配しません。言葉もかけなければ祈りもしません。私はそのような司祭の心に直面しました(私は、その司祭が司祭の "標準" でないことを祈りますが)。彼は言いました、「それは本人の問題ですね。伝えられるべきことは伝えられているのですから、後は本人の問題です。また、あるいは、信者同士で啓発し合ってもいいでしょう」。しかし彼は何故かどうしてもその輪の中にご自分自身を置こうとはなさいませんでした。「そういう時、あなた方同士で声をかけ合うことが "信徒の交わり" "分かち合い" ということになるのではないですか? それはOKです。(あなた方でやって下さい。) 」
これはある意味本当です。私達は子供ではないですし。でも、それでも私は、この司祭の心はずいぶん冷淡な、ドライなものだと思わずにはいられませんでした。そして思います、「一人の信者の霊魂のことをこれほど心配できないなら、どうして教会全体のことを心配できるでしょうか」と。

私は、あなた方が教会のことを「心配している」なんて嘘だと思います。たとえ全く嘘ではなくても、実なかなり真剣味の足りないものだと思います。-----違いますか?

嘘つき呼ばわりされてグレて放り出さないで下さい。「嘘でない」というなら素直にその証しを見せて下さい。まずは説教壇の上から心のこもった聖母に関する説教を一つ。それだけで私達の心はどれだけ感激するでしょうか。-----知らないのですか?

どうか「原因の特定」、「打開策」、その「勘所」の掴み方において間違わないで下さい。私が最後に掲げる次のような悪い例に倣わないで下さい。

1990年代のアメリカのエピソード。

ある掲示板の投稿で読んだ話である。1990年代に、司祭不足に直面したアメリカのある教区で聖職者による会議を行い、司祭の召命をどうしたら増やせるかを話し合っていたそうだ。だが、いくら話し合っても出口は見えなかった。

とうとう、引退した大司教が手を上げ、「召命の多い司教区の事例を研究して参考にしたどうだ」と発言した。すると、司祭たちは顔を見合わせるだけで、関心を示さなかったとのことだ。なぜなら、大司教が例として挙げた教区は、カトリックの正統な教えを実践していたからである。あきれた話としか言いようがない。

知的生活の模倣「召命が不足する理由」
http://homepage3.nifty.com/mir/diary_catholic.htm#d20060817

あっちこっちミサはまた何時かやるのですか? フォーク・ミサは、インターナショナル・ミサは、子供ミサは?(しかし子供は正しく「訓育」すべきものです。)
もうそんなお遊びみたいな、イベントみたいなことはやめませんか? 私達の〈肉の心〉を喜ばせるようなことをしてどうするのでしょうか。むしろあなた方はきっちり正統な御ミサの中で自己を無にして下さい。あなた方は主イエズスのお道具ではありませんか。黒子でしょ? それに徹して下さい。そして私達にも、"ミサをエンジョイ" することなんかではなく、真に主の僕や婢女になることを教えて下さい。人間に対するあなた方の変な親切心が、大衆に対する媚びが、教会の質(霊性)をこれ以上なく落としていて、それによって召命が激減しています。



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