3歩先の経済学 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-05-15

[]科学の漸近線 その3

3部作でした。今回で終了。


分割して統治させろ

科学は世界をシミュレートすることを目的としている。現在の世界を理論というブラックボックス関数)に入力すると未来の世界が予言されることが究極の目標だ。逆に現在の世界を逆関数に入力すると過去の世界を知ることもできる。しかし社会科学のほとんどはこの目標を達成できていない。自然科学における予言能力と比べると情けないほどに社会科学はこの能力の完成度が低い。

この原因はすでに述べたように予言の対象が桁違いに複雑なことである。人間は一人一人が別々の価値観で行動しているために、本当に完全な予言を作り出すためにはその一人一人に変数の係数を設定しなければならない。さらに係数の数も膨大なためにシミュレーションに必要な計算数は天文学的な量になる。

この問題の解決方法の一つは単純にそれだけの計算をこなす計算機を使用することだ。量子コンピューターが発達すれば実用レベルの計算が可能になるだろう。しかしそうやって力任せに計算しても、予言と実際の未来は大幅に乖離してしまうだろう。

次の解決方法は統計学を利用して単純化したモデルを作成し、統計的な未来をシミュレートすることだ。しかし共産諸国もケインズも成功しなかった。マネタリストは少しだけ失敗の程度がましになった。新古典派はまだ本格的に政策に取り入れられていないが、成功と呼べるだけの成果は上げられないだろう。世界は彼らを常に裏切り続けている。ただし経営学の世界ならば、対象が国家よりも格段に小さいおかげで、極々短期間(せいぜい2年くらい)の予測ならばある程度の信頼性(その会社の株を買ってもいいかと投資家に思わせる程度)を獲得できている。

最後の解決方法は未来の予測をたてた本人がその予測の結果の責任を負うことだ。予測が外れることに問題があるのは、その予測を信じて行動した人間が損失を被ることだ。損失を被った人間は当然予測を立てた人間に文句を言う。損失の補填さえされるのであれば実質的に予測が正しかろうが間違ってあろうが不問にすることができる。しかし損失のサイズが大きすぎると予言者は実質的に損失を補填することができなくなる。その結果、損失を被った人間は泣き寝入りを余儀なくされたり、最悪の場合は予言者が文句を言ってきた人間を粛清してしまうということになる。

この損失を補填できるようにするためには損失を細分化するしかない。これが自己責任の本質だ。自分でたてた予測を自分が信じて行動し、それが外れていたならば自分自身でその損失を補填する。個人が被った損失はぎりぎり個人が補填可能だ。最悪の場合は首をくくることになるだろうが、それでも原理的には補填作業は完結させることができる。

もちろんこれは何度も書いてきたように真理への到達を放棄した方法論だ。しかも効率が非常に悪い。赤ん坊も含めたすべての個人が自分自身の生き様を決定するための知識を、しかも人生全般にわたっての広範囲な知識を持たなければならないからだ。さらにこの方法論を完遂させるためには究極的には無政府主義に行き着かざるを得ない。


分解して組み立てろ

自己責任を標榜しながらもある程度の効率を保つ方法論を人類が模索した(とりあえずの)結論の一つが民主主義だ。民主主義で選ばれた政治家の行動の責任の大部分は選んだ人間に帰させることができる。もちろんそれでも政治家本人に残される責任は大きく、彼が腹を切っても補填しきれない。だが回避不可能な小さな失敗(それでも広く薄く損失が発生するために損失額は莫大だ)で命を取られるとしたら政治家になる人間はいなくなってしまう。そんなことをしたら汚職などで元を取ろうと意図する人間しか政治家を目指さなくなってしまうというモラルハザードが起きるだけだ。だから政治家の失敗の責任はわざと小さくしか追及しないという社会体制が妥協の産物として出来上がっているのだ。

もう一つの方法論が、蒙昧な個々人が自己責任を負うだけの知識を習得できるように科学を細分化することだ。個人は自分の置かれた状況に必要な知識をそのたびごとに習得して、それを基に行動を決定できるようにするのだ。

僕のブログを読んだ人は、僕が何一つ断言しないことに不満を感じるだろう。「この状況ではこういった要因が影響します」「この行動を起こすとこんな結果を引き起こす可能性があります」「どれだけその要因が影響するかわからないし、その結果が起きる可能性もどれだけあるか分かりません」自然科学の美しさに心を奪われている人たちからすれば、全知全能の神様からすれば、僕の言葉に何一つの意味もないと感じるのは当然だ。

僕が書いていることは、ある事象を説明する理論に関係している変数を列挙しているだけでしかない。その変数にどのような係数をあてはめればいいかは当事者に委ねてしまっており、僕自身はどのような結果が出ても言い逃れができるようになっている。しかも実際の世界では僕が発見できなかった変数がまだまだ存在していることも僕は認めている。僕は僕の言葉に何一つ責任を取ろうとしていない。

それでも僕の言葉は科学だ。未完成で、しかも絶対に完成しない理論であるが、それでも科学だ。それだけは僕は責任を持って主張できる。もしも僕のこの理論がなければ、人々はもっと不確実な世界で生きていかなければならなくなる。ほんの少しだけだが僕は人類の幸福に貢献しているはずだ。

本当は僕はもっと確実な予言ができる理論を提供したいと思っている。しかし今僕が書いている原論を作り上げてからでなければ、その先の理論を組み立てることはできない。原論を経ずに個別の事象を個別に解説することは不可能ではないのだが、それにはどうしても高い心的能力が要求される。蒙昧な大衆が理解できる単純さで世界を記述しなければ自己責任を彼らに要求することはできない。一見遠回りに見える方法ではあるが、これがもっとも近道なのだ。

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