3歩先の経済学 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-05-13 科学の漸近線 その2

[]科学の漸近線 その2

飛び石戦略

社会科学(そして自然科学の大部分)が複雑性の問題や道徳上の問題から、科学的真理への直接アプローチが現実的でないことは示した。だから我々は科学的思考などの間接アプローチでもって科学的真理へと近づかなければならない。その一つの方法が前回の科学的思考だったのだが、今回は別の方法論を示したいと思う。

それは先人の成果を積極的に活用することだ。

これは先人たちの成果を学ぶことに力を注ぐことではない。むしろ逆だ。先人たちの成果を積極的に「学ばない」ことこそが、結果的に彼らの努力を活用することになるのだ。

我々の先人たち(歴史に残る古代の人々から直接の先輩そして後輩も)は科学に関して多くの成果を成し遂げてきた。それらのほとんどは否定されたり失敗してきた理論だが、それでもいくつかは今も否定されていなかったり、修正されて一応の信用の置ける理論だ。そしてこの信用の置ける理論だけでも膨大な量になる。これらを一から構築することは、いや、その論理性を理解しつくすことも一人の人間にはおよそ不可能な量だ。それどころかそれらの科学理論の存在だけでもすべてを知ることは不可能だろう。

我々はその先の世界に進む余力を残すためにも、過去を知る行為を取捨選択しなければならない。自分が本当に知りたいことは何かを見極め、それに必要なものだけを学ぶ時間しか我々一人一人には与えられていない。

多くの事柄に関してはうわっつらしか学ぶ時間を割くことができないだろう。いくつかの事柄に関しては理論を精密に理解しなければならないだろう。そしてごく少数の重要な理論に関しては個人的に検証しなおさなければならないだろう。そこから先が自分の時間だ。そしてそうやって自分が作り出した理論を後輩たちがうわっつらだけ利用していくことを是とするべきだ。

このようなおいしいとこどりが許せない潔癖症の人もいるだろう。彼らの言い分も多少正しい。人生の多くの時間を費やせば自分の専門分野の古典から最新の理論まで網羅することも不可能ではないからだ。そしてこれらの膨大な知識を利用すればうわっつらだけの知識よりかは役に立つのは自明のことだ。しかしこの潔癖な方法論は今世紀の中ごろにはもはや実行不可能になっているだろう。

20世紀の半ばまでは、学ばなければならない先人たちの理論はそれほど多くはなかった。この時期には先人の理論をすべて理解することのほうが効率的だった。しかし20世紀の前半に高等教育を受けた人たちに急速に浸透した科学的思考の恩恵を受けて、20世紀は「科学の世紀」と称されるほどに科学は発達した。現時点で正しいと評価されている理論は、僕の個人的な感覚だとこの百年で十倍くらいに増えている。

教育手段の発達と平均寿命の伸長は、この膨れ上がった知識を個人が習得することをぎりぎり可能にしている。しかしもう無理だ。これからは学ぶ速度よりも早く新しい理論が次々と生み出されてくるようになるだろう。今の時代ではうわっつらだけをつまみ食いし、それによってできた余裕を新しい世界の開拓にまわすほうが効率的になっている。そして数十年後には望むと望まざるとにかかわらず、その方法論でしか間に合わなくなっているだろう。井戸の中では「広く深く戦略」が正しい方法論だったが、広い海(いや、まだ池程度だが)では「広く浅く、一部だけ深く戦略」が正しい方法論となるのだ。そしてもっと広い大洋では「せまく浅く、ほんの一部だけ深く戦略」が正しくなるだろう。

ただし技術の進展によってはこの条件は変化する可能性がある。大脳生理学が発展し、人間の脳に直接記憶を書き込むことができるようになったら、再び「広く深く戦略」が有利になるかもしれない。人工知能が発達すればわざわざ人間が科学を発達させる必要がなくなるかもしれない。そんな状況を僕は「人としてどうなんだろう?」と感じてしまうが、未来の子供たちに「その感覚は潔癖症過ぎるよ」と笑われてしまうかもしれない。まあ、僕が生きているうちにここまで技術が発達するとは考えにくいけど。


深海のカエル

この「広く浅く、一部だけ深く戦略」はずいぶんと昔に放棄された学際的研究を可能にした。異論はあるだろうが、19世紀あたりでは学際的研究は非常に非効率な方法だった。わざわざ他分野の学問を修める時間があるのならば、その時間を自分の専門分野に投入することのほうが効率がよかったのだ。

それぞれの学問があまり科学的ではなかったということがこの非効率の原因の一つにある。多くの学問が経験論的で科学的検証を経ていないものだった。そういった学問から引き出される内容は信頼性が低く、応用がきかないものだった*1

しかし20世紀後半になると多くの学問が批判と検証を経て科学的になり、専門家以外の人間がその成果をそれなりに信用して利用できるようになった。また、科学的ということは論理的ということであり、論理的であるということは分野を越える普遍性を持つということであり、つまりは他分野で利用しやすい形態ということだ。

経済学で言うと手始めはゲーム理論である。経済学数学が融合したのだ*2。それまでの経済学計量経済学という分野で数学を利用していたが、ここで利用されていた数学微積分やシグマなどの加減乗除に毛が生えた程度のものだった(ニュートン先生ごめんなさい。)。言うなれば古い数学を使った古い経済学では時空間(お金)が一定であると仮定したニュートン力学的世界しか記述できなかったのだが、ゲーム理論を導入することで時空間が可変(お金には換算しにくい欲求)である相対性理論的世界に経済学が進化したのだ。これはどちらかと言うと経済学が論理的な科学に進化したおかげで学際的な協同に耐えられるようになったのだ。

次にこのゲーム理論心理学に応用が可能だ。心理学の最先端には詳しくないから知らないが、多分すでに応用されていることだろう。僕が心理学者なら絶対に応用する。行為障害などの症例の大部分は経済学で説明可能なはずだ。

当然僕としてはドーキンス博士の成果も経済学へ大きな影響を与えてると評価したい。逆に経済学ドーキンス博士に影響を与えたのかもしれない。論理の根幹が論理的(?)だからいくつもの事象に適用可能になった好例である。

当然、他の社会科学とも経済学は密接に結びつく。法学とは昔から相性がいいし、最近では歴史を経済学的観点から見ることが流行っている。歴史において「彼らはなぜそうしたか?」の理由を文献からではなく経済学的な観点から読み解く方法だ。文献はしばしば後世の権力者によって改竄されてしまうが、経済学的な観点、つまり「それによって誰が得をしたか」「なぜそのような政策が必要とされたか」という観点から検証することで文献のどの部分が改竄されている可能性が高いかを探ることができる。そしてそのように解明された歴史から今度は経済学が恩恵を受けることができる。マクロ経済学は実験が非常に難しい分野だが、どういった状況でどのような政策がとられたかが分かるのならば、その政策の効果を多少なりとも判明させることができるのだ*3

とにかく現代の科学は学際的な研究が盛んであり、その理由は「学際的な研究」が発明されたからではなく、学際的な研究が効率的である条件が整ったからである。そして学際的な研究をさらに効率よくすすめるために、専門ではないが利用する分野の理論を完璧に理解しないことが求められる。

「わざと理解しない」態度は利用される分野の「潔癖症専門家」からは非難や嘲笑の対象になる。しかしこれは笑う側が悪い。例えば僕はドーキンス博士の理論を共同体の経済学に応用しているが、これは彼の理論が僕の説明したい世界に適用できるから利用しているのだ。ドーキンス博士の批判者がドーキンス博士の理論を応用している僕の理論を攻撃したとしても僕は無視するだろう。生物学の世界でドーキンス博士の理論が間違ってると証明されたとしても僕はその態度を曲げない。ドーキンス博士の理論が地球の生物に当てはまるかどうかなど僕にとってどうでもいいことだからだ。僕は僕の説明したい世界に利用可能な程度にドーキンス博士の理論を理解していればそれでいいのだ*4


なぜなにどうして?

学際的な研究を行うことにより研究者は副産物を手に入れることができる。それは自分の研究成果を部外者に分かりやすく説明する能力だ。

情報の発信をしているだけではコミュニケーション能力はなかなか向上しない。学際的な研究をするために他分野の理論を受信することで、それも自分の持っていない常識で語られた情報を受信することで、どのような説明ならば理解しやすいか、どのようなレベルまで常識を解説してもらえば理解しやすいかを知ることができる。

えてして人は自分が常識だと信じきっていることを改めて検証しない。そしてその常識を誰もが身につけていると思いがちだ。しかし自分にとっての常識は他人にとっての常識ではない。そのことを知っていなければ、自分の研究成果を他人に分かりやすく説明することができない。そして森の奥で倒れた木は音を立てないことと同様に、他人に伝えることのできなかった研究成果は研究がなされなかったことと同じになってしまう。

研究をするということは、他人が知らない知識を作り出す行為だ。だからたとえ同じ分野の専門家同士でもこの能力が欠けていると新しい知識を伝えることが難しくなる。専門家でない者に対してはなおさらだ。このコミュニケーションの向上は本人の研究を向上させる。

何度も例に出して申し訳ないが全知全能の神様ならばコミュニケーション能力など必要ない(全知全能だからこの方面でもエキスパートなのだろうが)。しかし我々は不完全な能力しか持っていないため、自身の研究を完成させるためには他者からの批判という助力を必要とする。もしも本人のコミュニケーション能力が劣っていたらこれが得られず、自分ひとりの力だけで真理へと近づかなければならなくなる。

*1:量子論が出る前の物理学では化学への応用は難しかったし、高分子の研究が進まないと化学生物学へ応用することは難しかった。フロイト心理学を犯罪に関する経済学に応用したらかなりトンデモな世界になるだろう。どんな犯罪でもリビドーや幼児期のトラウマが原因だなんて言われたらどうやっても予防不可能になりそうだ。

*2:正確に言うと経済学者ナッシュとか)が新しい数学を作り出したらしい

*3:例えばニュートン造幣局長官の政策がイギリス金本位制に与えた影響など。また科学オタクだったニュートンが社交的な政治家に変身する過程などは心理学者からしても面白いのではないか。僕の中ではニュートン先生は脱オタの元祖です。

*4前回僕が文句を言った池田氏は彼の世界へ応用するのに必要なレベルで淘汰理論を理解しているとはちょっと思えない。それどころか彼が批判対象にしているミクロ経済学ゲーム理論の理解すら中途半端に見える。経済学者を自称する限りはもう少し頭を使おうよ。

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