3歩先の経済学 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-05-12 科学の漸近線 その1

[]科学の漸近線 その1

前回に引き続いて科学的な態度に関しての話です。最初はここでのコメントに対する反論を書いていたのですが、あまりにも長くなりすぎたのでこちらに書きます。

今回は一応まともなことを書いているつもりなのですが、少々前衛的なので多分いろんな人に怒られるでしょう。そして批判されてもうまく反論できる自信はありません。なんと言うか、僕は科学哲学を体系づけたいと思ってないからです。この文章は僕はこんなスタンスで科学を研究していますという態度表明でしかありません。あまり叱らないでやってください。


論理は金科玉条ではない

「科学において理系文系という切り分けが存在する」という主張をする人が特に「理系」の人に多いが、こんなものは都市伝説に過ぎない。理系文系もすべて科学の範疇に入り、トンデモですら「簡単に論破できる理論」や「悪魔の証明を要求する理論」ではあるけど論理で語る以上は(かなり広義の)科学の範疇に入る。

「科学はその理論を論理的に証明できるべきだ」という主張は理想だ。我々はその理想に近づくために科学的思考方法を整備し、さまざまな実験手段、検証方法を考案してきた。しかし現時点で人類は全知全能ではないために、人類が開発した技術ではいまだ論理的に証明できていない理論は多数存在する。

「科学はその理論を論理的に証明できるべきだ」という命題が真ならば「論理的に証明できない理論は科学ではない」が真になってしまう(対偶による証明)。しかし実際は「その理論を現時点で論理的に証明できていない科学も存在する」ため「『現時点で論理的に証明されること』は科学の必要条件ではない」となる。

理論の対象が複雑なものであればあるほど証明は困難になる。加減乗除などは非常に単純なものだから証明は簡単だが、他方、人間の行動原理はほとんど不可能なほど証明は困難だ。人間の場合、両親から受け継いだ遺伝情報や、肉体的な発生・成長時のカオスの影響、所属する文化の価値観、多くの人との関わり合いの中から生み出された個人的経験など複雑な要因がその人の行動原理に影響を与える。その中の一つ要因の影響を調べたいときでも、その他の要因が影響を与えない情況を作り出すことがほぼ不可能なために結果的に一つだけの要因の影響を判定することは不可能となっている。

この複雑性による証明の困難は理系の世界でも発生する。物理学の世界ではカオスの影響を完全に排除することはほぼ不可能だろう。観測機器の精度が上がればこのカオスを一桁、二桁と小さくしていくことはできるだろうが、ゼロにできる実験環境は想像上のものでしかありえない。化学の世界ではさらに複雑になるし、生物学ではもはやいわゆる文系の世界と大きく変わらなくなってしまう。しかし物理学社会科学も現時点では世界を証明できないという点において質的には同じだ。

また人間自身の知的能力の限界も証明を困難にしている。数学カオスの影響を受けない理論上の世界を構築可能だが、まだまだ証明が成功していない定理が多数存在し、いまだ想像すらされていない理論も多く存在するはずだ。

この現実的に証明できないことを逆手にとって堂々と与太理論を主張する人が社会科学の分野に多いことは事実だ。しかし自然科学にもそういった輩はいるし、与太理論を流布することで利益を上げる人間がいる限り根絶はきっと不可能だ。

またどれだけ科学に対して誠実であっても、自分の主張する理論が与太理論であるリスクを完全に回避することは不可能だ。もちろん僕も与太理論を発信してしまうリスクをできるだけ減らす努力をしていますがそのリスクは覚悟している。いや、ひとつだけ与太理論を主張せずにすむ方法はある。いますぐ遺言も残さず自殺してしまうことだ。生きる限り人間は与太理論を口にするリスクを負わなければならない。まだ自殺ができていない人間が、人間や科学の無謬を主張したり、運悪く間違ったことを口走ってしまった人を非難するなどおこがましい限りだ。

しかし我々はこの無力さを放置してきたわけではない。このリスクをできるだけ小さいものにするために我々は科学的思考などの技術を磨いてきた。だがこの方法では絶対に完璧な真実に到達することはできない。批判する側も反論する側も不完全な知識と知能でそれを行わなければならないからだ。たとえ偶然に完璧な真実に到達したとしても我々はその真実が完璧であることを確信することはできない。理系的な表現で言うと「観測機器の精度以上の観測結果の精度は得られない*1」ということだ。

これは冒頭の「科学はその理論を論理的に証明できるべきだ」という理想と矛盾する方法論だ。まるで民主主義で正義を判定するような不完全な方法だ。完璧な真実に到達する可能性を最初から放棄した方法だ。それでも全知全能の神様でない我々人類には考えうる限りで最良の方法だ。逆に全知全能の神様と人類が交信できるならばこのような科学的思考方法など不要なコストをかけるだけの「議論のための議論」に過ぎなくなるだろう。


複雑と混沌の森で

社会科学がこのような不完全で理想を否定する方法論に頼らなければならない理由の一つは前述の複雑性の問題だ。人間という観測機器を使う以上、観測対象の人間の複雑性を解明することは非常に困難だ。そして社会科学の多くが人間単体よりも複雑な人間社会を対象にしているために、この観測機器の精度の低さは絶望的なほどだ。

ただしたとえ究極的には不完全であってもこの観測機器の精度は科学の力によって向上させることは可能だ。そのはずが現時点での科学の進歩に比べて社会科学の観測精度は明らかに低い。物理学化学生物学で達成されている観測精度は社会科学に対して相当に高く、対象の複雑性だけでは説明できないほど社会科学の完璧度は劣っている。きっとこの部分が「理系」の人々には「社会科学系の学者は手を抜いている」と感じられ、我慢がならないのではないかと思う。

この不満は確かに的を射ている。我々社会科学者は本来可能であるはずの観測精度を意図的に達成させていない。意図の一つは「観測精度を上げるには金銭的なコストや、能力的なコストが高くつくから、低いコストですむような観測精度しか求めていない」だ。誰かがコストを負担してくれたり、投入された労力に見合う報酬がもらえるのならば観測制度の桁を高める努力もしよう。現実にはその観測制度の向上による社会的な利益が見合わう程度にしかコストは投入されるわけもない(このあたりは後日に説明できたらいいな)。だがこれは量的な差に過ぎない。自然科学の分野においても予算と期待利益の問題から、物理的には実現可能な観測精度が達成されないことは普通に存在するからだ。

意図のもう一つはもっと本質的なものだ。そしてここには明らかに文系理系の質的な差が存在する。あえて言おう。「理系文系という切り分けが存在する」という都市伝説は「科学において」という文言を除外する限りにおいて真実であると。

この切り分けの原因を科学的に見極めなければならない。「文系理系では研究者の能力や態度が質的に違う」などとの与太理論を信じている限りは世界の真実にたどりつけるわけがないからだ。

この切り分けの原因は、今の社会では絶対に乗り越えられない道徳と言う壁だ。社会科学者は道徳を遵守する限り、完璧な論理でもっての真理には絶対に到達することはできない。そのために社会科学者たちは「民主主義で正義を論じる」ような漸近的な方法論でしか真理を求めることができない。自然科学のように「もしかしたら論理的に真理にたどりつけるかもしれない」などといった理想を持つことを最初からあきらめなければならないのだ。「社会的に」理系文系の切り分けが存在するのだ。


誠実な錬金術師

社会科学の観測対象である人間には人権がある。

これが社会科学者に課せられた拘束具だ。我々はこの観測対象を破壊検査することができない。観測終了後に観測前の状態に復帰させることができない。同一品質の観測対象を大量製造することもできない。観測対象である個々人の人権は科学よりも最大多数の最大幸福よりも大事なことなのだ。

実験心理学やら実験経済学などの実験環境は、自然科学での実験環境に比べるとお話にならないくらい原始的だ。質的にてんでばらばらの実験対象に軽いストレスしかかけることができず、外的な行動結果だけしか観測することができない。中世錬金術師と同レベルだ。

そんな悪条件にもかかわらず、現代の社会科学者は錬金術師たちよりもはるかに高いレベルの研究を実現している。彼らの研究成果は物価を安定させ、自殺者を減らし*2世界大戦を食い止めている。これらは自然科学がどれだけ発展しようと実現できなかったことだ*3。理想の世界はまだまだ遠いが、それでも着実に理想に近づいていることを否定してはいけない。

*1:本来、分子レベルの解像度の電子顕微鏡でも干渉の解析などを使って原子の観測ができるなど、分析手法の向上により機械的な観測機器以上の精度を得ることは可能だ。ここではそういったソフトウェアの部分も観測機器の精度だと考えている。

*2自殺者が明らかに減っているソースの分かりやすいものをまだ発見できていない。日本では2000年前後の第三次自殺ブームを除くと人口当たりの自殺率は減少傾向だ。グラフ:自殺 日本 男子 15歳階級死亡率(対10万)によると45−59歳の階級では増加しているが、そのほかの階級ではほぼ減少傾向にある。現代、病気や生活苦を理由に自殺している人が、昔は自殺する前にこれらの理由で自然死していたこと(特に病死)を考えると、統計上は変化なしでも実質は減っていると見るべきだろう。もちろん医学や救急システムの発展で(自殺に比べて)自殺未遂が増えていることも理由の一つだが、自殺未遂者に再度の挑戦をさせないことは社会科学の勝利だ。

*3社会科学の発展が阻害されていた共産諸国での壮大な実験結果を見れば明らかなことだ。この国々では一応自然科学は発展していたのだが、物価は乱高下し、自殺者は増え、戦争を繰り返した。しかしこの事実を証明できるだけの観測が行えたことは非常に不幸な出来事だった。

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