内田樹氏の「フェミ批判」を批判する

---バックラッシュ状況の中で考える

2006410日ブログ 

 

バックラッシュがすすんでいるのは、新自由主義のもとでの格差拡大による不満の増大とか、戦争のできるナショナリスティックな強権社会にしたいと思うものが意識的に仕掛けているという面もあるが、フェミニズムの主張がようやく少し社会を実際に変革し始めようとしたということにもよる。

そうしたフェミニズム的な変革に反発する裾野は広い。戦後の教育や政治やメディアが、考えない、自立しない、発言しない、運動をしない人間を多く育ててきたからだ。

そうした「変革への抵抗勢力」を育てていくという、保守的な意見・感覚と言うものがある。それを、今回はある学者の文章をネタに書いておきたい。

 

内田樹氏のHPに私がフェミニストを嫌いなわけ1999年記載)という小文がある。(彼の著作にも類似の文章がある。内田樹「アンチ・フェミニズム宣言」『ためらいの倫理学』角川文庫、2003[元の単行本2001]

バックラッシュ状況とつながっている、彼の論理・スタンスがよくわかるので、今回はこれを取り上げたい。

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内田氏は、「正義のひと」は、自分を根拠なく正しいと決めつけ、何もかもわかっていると思っており、相手の意見を聞かず、他人の批判を受け入れず、すぐに怒り、相手が無知・邪悪であると決めつける人だと批判し、だから「正義のひと」が嫌いだという。

 

確かにそんな人は困りものだ。私も嫌いだ。だが「正義の人」だけに限定するところに、まず彼のごまかしがある。別に「正義の人」だけでなく、自分の主義主張が正しいと思って、相手の意見を聞かず、大きな声や論理で「相手に勝つ」のがいいと思っている人は多い。そういう人は困りものである。そんな人はたくさんいる。右翼でも左翼でも会社経営者でも政治家でもテレビキャスターでも官僚でも、先生でも、隣のオヤジでもたくさんいる。私からみれば内田氏も以下に述べるようにそういう人のひとりのように思うが、彼は、自分はそうではないと思っているらしい。まあ、ここでは、そうした相手の意見を聞かない声の大きい人を批判しているという意味で広義の「正義の人」を理解しておこう。

 

 

まず彼は、そうした「正義のひと」の例として6070年代の「マルクス主義者」たちをあげる(あとでもう一つの例としてフェミニストをあげる)。

ここで、ああ、そういう人なのねとわかってくる。左翼とか人権とかが嫌いなのである。右翼とか戦争支持者とかナショナリストとか政治家とかキャスターを例にもってくるのでなく、マルクス主義者とフェミニストである。

そういうものを「正論を言うやつ」と嫌うのは、よくある意見である。自分は何もせず、批判するだけ。実はそれだけのことを彼は繰り返しえらそうに述べている。執拗に。昔の怨念があるらしい。

 

6070年代の「マルクス主義者」たちには、問題も多くあったと私も思う。でも私も当時に生きていたらたぶん、その一翼にいたであろうとも思う。私が今〈スピリチュアル・シングル主義〉などというのは、自分の、論理的・対抗的・効率主義的な力の姿勢のようなものを反省するからだ。だから、その基準から言って、今の時代に60-70年代の運動スタイルはそぐわないしダメだと思う。

 

でも当時の運動の中には、すばらしいものがあったということはわかる。それは私が学生のときに触れた先輩たちや先生たちや著作や記録の中にすばらしいものもあったという経験があるからだ。一生懸命世界や社会のことを考えていた人はたくさんいた。それは主に私が見た80年代でも90年代でも、それ以降でも同じである。

マジメな運動をする人の中には、もと「新左翼」の人も「共産党」「社会党」の人もいた。運動スタイルもその系譜を継ぐものもあった。それを全否定するべきとは思えない。問題もあったが、いいところもあった。

 

ところが、まさにその時代に生きていた内田氏は「当時、世の中には不正が蔓延していたらしく、若者たちの多くはひどく怒っていた。」というような言い方をする。まさにこれだけで、ああ、この人はダメだなと私は思う。それは私の嗅覚・直感だ。(内田氏は、私のこのような反応こそ「正義の人」のスタイルだというだろう。)このあたりの感覚がわからない人には、何をいってんだと思う人もいるだろう。

 

でも、今の時代に何かしら社会運動をしている人の多くは、内田氏のこうした文章に、胡散臭いものをすぐにかぎつけると思う。私は、感じる。不正が蔓延していたらしくというように、皮肉っぽく、まるで不正はあまりないのに、大げさに仮想の敵に怒っていたかのように嘲笑的に書いている。

 

私からすれば、60年代も90年代も、今も、「社会に不正が蔓延している」のは、イヤというほど見てきた現実だ。内部告発していける社会か ? 不正を批判していけるか。

長崎平和推進協会が、061月に被爆者証言活動に対して政治的発言自粛を要請したことは日本の今の状況を象徴している。「国民の間で意見が分かれる政治的問題についての意見は慎んでいただきたい」と述べて、具体的には、「天皇の戦争責任、憲法改正、イラクへの自衛隊派遣、有事法制、原子力発電、歴史教育・靖国神社、環境・人権など他領域の問題」などで被爆者が自分の意見を言うことを抑制した。まともな意見を封殺するような思想のレベル。「これが日本だ。私の国だ。」

 

日本軍性奴隷、いわゆる「慰安婦」問題を見ても、日本に不正は厳然とある。女性国際戦犯法廷と旧日本軍の「慰安婦」問題(天皇の戦争責任も絡む)を扱おうとしたNHKのETV2001「戦争をどう裁くか」(とくに第2夜「問われる戦時性暴力」)は放送直前に大幅改ざんされた。「中立・公平」という名でである。今でも裁判で嘘を言い続ける人が、のさばっている。その番組をNHKは世間に見せないように隠す。

パートなど非正規雇用労働者は多くは200万円以下の低収入である。

 

こうしたことを内田氏は感じていないのだろう。見ていないのだろう。怒りに震えていないのだろう。「力が弱いがゆえに悔しい思いをしている人」が見えていないのだろう。自分は、大学の先生で高収入でもある。日本いいじゃん、というわけだ。

論文や講義や本で少し右翼やサヨクや政治やメディアを困ったものだと批判していれば、自分はえらいと思っている。

だから「不正が蔓延していたらしく」などと書く。つまらない人だ。そういう人が、大学の先生になって、書くという権力を持って、むかし自分が批判された恨みをサヨクとフェミに晴らしている。中立を気取って。何も生み出さず書斎で。

問題は、そうした姿勢自体が、事実上、今の体制を擁護し、バックラッシュの動きと軌を一にしているという点だ。

 

内田氏の次の様な軽薄な文体も、もう困りものというしかない。何か、「軽く」「ダメさ」を演出して、「正義的な硬いもの」と対比させようという姿勢がみえみえで、今の日本の時代の空気をまさに体現していると思う。というか時代遅れの80年代的なスタイルを今でも続けている。スピリチュアルであるようなところとまったく対極なのだ。

 

内田 「そのころの私はポップで軽快な大学生であったので、勉強なんかまるでしないで、バイトで稼いでは、女の子に貢ぐという(いまの私から信じられないほど)退廃的な生活をしていた。(内田注:いまでも「勉強なんかまるでしない」のだけは変わらないが、本業で稼いで、お稽古に惜しみなく使い、学生たちにたかられるという、より建設的なパターンに移行している。)」

 

文体も思想も自由じゃないか、そういうものをダメというから「マルクス主義者、サヨク、フェミはダメなんだ」という声が来るのはすぐにわかるが、ここはあえて、読者であるあなたに問いたい。この文章に、内田氏のテレを感じてかわいいと思うのですかと。何か少しでもいいものを感じるのですかと。

 

「女の子に貢ぐ」?「退廃的」?「お稽古」?「学生にたかられる」? このような言葉の底の浅さには「退廃的」などというすばらしい言葉はそぐわない。まさに何の現実も知らないお坊ちゃんが歳をとって軽いフリをしている痛々しさを感じるだけだ。もっとも私がダサいと感じる文体だ。センス悪かったし、楽しくなく、もてなかったことをひきずっているんだろうな。だから、この歳で「ポップ」とかいえてて若いやつに触れてる自分の今の生活が気に入っているんだろうな。てな感じが透けてくる。あーー。

 さて、あなたは私と内田氏のどっちの感性に親和性を持つか。あるいはどちらでもない感想を持つか。

 

このあとも内田氏は、マルクス主義(者)を軽い文体でこきおろしていく。(ここは飛ばす。)

次に、彼は、「その次に私をこずき回してくれたのが『フェミニスト』たちであった。」といって、フェミニスト批判を始める。

先ず彼は次のようにいう。

 

内田「私はきれいな女性が好きである。(あまりきれいでなくても好きである。)(内田注:これは昔の話ですから間違えないように。いまはいかなる女性を前にしても私の心は金剛石のごとくに不動です。)女性にご飯を作ってもらったり、お酌をしてもらったりするのにやぶさかではない。女性のために重い荷物は持つし、席は譲るし、ドアがあれば開けることにしている。」

 

あーあ。ほんとに脱力である。この世にバカは多いから、彼がはじめてではないが、彼がフェミニストを批判するからその心性を明らかにしようとして引用しているのだが、もうホントにこれなんである。少しでも面白いか。少しでも共感できるか。まったくおもしろくない売れない芸人の漫才を聞かされる辛さ。村上春樹の文体を素人がまねたがるような時期が一時あったように、80年代的というか、低レベルの素人のギャグっぽいつもりの文体を読まされる身になってほしい(先生って、こういう人多いのよね)。

フェミニストならずとも、多くの女性や一部男性も、こりゃダメだと思うんじゃないだろうか。しかも、今の時代に、フェミニストを批判する文章の中で、あえて、これで、「かき混ぜて」いるつもり。「つもり」君である。「金剛石」ねえ。イタい。

 

でも一部の人には、違和感なく受け入れられるということはわかる。だから私は、スピリチュアルという私の価値観を示す概念を入れた。わかる人にしかわからない概念だが、内田氏には、スピリチュアルな感覚が全然ないから、こうした「恥ずかしい自分」が恥ずかしいと見えないのだ。

 

そのあと内田氏は、「正義のフェミニスト」のもたらす災厄についての話を続ける。

 

彼は、「正義のフェミニスト」は、自分は正しいと信じ切り、信念をもって怒っている愚かな人だと批判していく。つまり、批判する相手を、まず愚かな人と描いて批判するのである。問題は、フェミは内田氏の言うような人なのかということである。

 

 ここが、結局、今の時代のバックラッシュに親和性を持つか、批判性を持つかの分かれ道となる。どんな運動にも極論や単純な意見を言う人はいる。しかし、私は、環境運動でも人権運動でも平和運動でも市民運動でも、未熟なものがあろうと、その全体性を見る。基本的にいいことをやっていると思う。いろんな人がいて、今の社会の問題を批判していくことは民主主義社会では大事だとおもう。

 

だが内田氏のスタンスは、フェミニストを「正義のひと」とえがいて、揶揄し、馬鹿にし、批判するものである。彼の文章の一部には、男女平等運動の成果の大事さにも触れている。だが彼はそのことを軽くみて、それと切断して、多くのフェミニストがだめだという前提で馬鹿にしていく。彼は何のために、そんなことをしているのか。そのことが誰を利し、今の社会でどういう政治的な意味を持つか、それを見ようともしない。著作でもいろいろなことをネタに、あれこれ批判して、自分のスタンスを言う。だが、基本的に無為の人である。そして自覚的に反フェミニズムをいう。無自覚に、実は政治的にバックラッシュの一翼を担っている。

 

そして次の様なこともわかったように言う。

 

内田「飯を作ったり、炊事洗濯をしたり、子供のおしめを替えたりすることが『奴隷労働』であり、会社で上役にごまをすったり、取引先に怒鳴られたり、金策に奔走したり、OLに『くそじじい』などと言わることが『特権的活動』であるという前提は、にわかには肯んじ難い。」

 

そんなこといってねーよ。フェミのアンペイドワークの議論、搾取とか抑圧とかを言う議論はそんな粗雑なものではない。だが、彼は自分が少しかじったことをこのようにまとめてわかったように批判する。愚かだ。わからないなら黙っていればいいのだが、彼は、自分がわかっていると思っているから発言できると思っている。フェミニズムがまるで、多くの男性がマジメに苦労して働いていることをバカにしているかのように描く。ヒトラーの宣伝と同じじゃないか。彼は自分が「正義の人」になっていることに気づいていない。バックラッシュと同じだということに気づいていない。

 

男性に伍して仕事をばりばりしたいのに、かなえられない、という女性にとっては腹立たしいことであろう。」などと、他人事のように言う。そのような姿勢そのものの、抑圧的なニュアンスを微塵も感じずに、次々ひどいことを言っていく。

 

内田 「しかし、社会的な不平等があるということと『被抑圧者である女性にはこの間違った世の中の仕組みがよく見えており、特権享受者である男性には、世の中の仕組みが分からないようになっている』ということは論理的にはつながらない。」

 

だれも、そんなこといってねーよ。話を勝手にずらすな、というのが私のコメントである。以下、ことごとくこのように、勝手にフェミニストを愚かな主張に矮小化して、バカにしていくだけである。

 

内田「私の頼りない記憶によれば、この論法の原型はジェルジ・ルカーチの古典的名著『歴史と階級意識』に遡る。」

 

こんなことをいってインテリぶるのである。あほらしーー。インテリって、いやーな感じだ。思い起こせば、昔の学生運動には問題も限界もたくさんあったようだが、大学の先生に「あなたはなぜその学問をやっているのか」という重要な問いを突きつけていた。内田氏は、今でもこうした問いに直面するのが嫌いなのだろう。だから昔の学生運動も嫌いだったし、今の時代のフェミニズムも嫌いなのだ。一貫している。

 

内田「あるルールでゲームをしているときに、だれかが負けでばかりいて、だれかが勝ってばかりいたら、ルールの構造に不平等があると推論するのは間違っていない。しかし、そこから、負けているものにはルールがよく理解できるが、勝ってばかりいるものはルールが全然理解できていないと推論することは正しくない。」

 

フェミニズムは、そんなこといってねーよ、話を勝手にずらすな、と、またここでも言わざるを得ない。この程度のことを述べて悦に入るのが大学の先生のダメなところである。お前は、じゃあ、今の社会の仕組み、構造、ルールがどうだと思っているのか。そしてそれをどう変革していこうとしているのか。同一価値労働同一賃金の運動がある。それにどうコミットする気があるのか。人はすべての運動には関われないが、せめて運動の足をひっぱるような人にはなりたくないと私は思うが、内田氏はフェミの足を引っ張るという自分の欲求を追い求めて、発言を続ける。

 

内田「ルカーチの『プロレタリア』がそうであったように、フェミニストもまた『フェミニストの色眼鏡』で世界を見ている。黒い眼鏡をかけて見れば、世界は黒く見え、緑の眼鏡をかければ緑に見える。どちらが『正しく見ているか』ということは権利上どちらにも言うことはできない。みんな自分の都合のいいように世の中を眺め、出来事を解釈しているのである。どのような解釈にも「真理」を僭称する権利はない。

 

ほーら、これが彼の思想である。生き方である。スタンスである。フェミニズムは「男が悪いという偏った色眼鏡をかけて世間をゆがんでみている」といっている。まさにバックラッシュ派と同じ言い分である。

「何が正しいかはいえない」という。抽象的に一般論でごまかしている。このようなことは、文脈次第で正しかったり間違っていたりするが、ここは、抽象論を一挙にフェミニズム全面否定に使っている。むちゃくちゃだ。

 

「何が正しいかはいえない」といって、憲法9条を改悪しても、戦争が始まっても、イラクに派兵しても、共謀罪法が成立しても、かれは、中立を気取るのだろう。だって、それなりいろいろ意見はありますから。そして事実上、時代の流れに身を任せ、政府に反対せず、反対運動する人を「正義の人」といって嘲笑する。結局、第3者的無責任な客観主義的立場のひとなのだ。ただそれだけ。えらそうにそれを小理屈で言い立てたい人だ。

 

そういう人だから、「大峰山」の「女人禁制」を批判する運動にもかみついた。何も実態を知らないのに、運動に参加した人をバカにした文章を書いた。サイト荒らしを支持し、バックラッシュ的な動きを促進した。(これについては、後日別稿で書きたい。)

 

次に、内田氏は、フェミを田嶋陽子氏で代表させるというプロパガンダ的な手法でフェミニズムたたきを続ける。

 

内田「『たけしのTVタックル』というトーク番組で、田嶋陽子という名だたるフェミニスト学者がよく怒鳴り散らしている。私の知る限り、彼女を説得し、その主張を撤回させることに成功した対談者は一人もいない。(内田注:先週のこの番組で嵐山光三郎が田嶋陽子を批判したら、田嶋さんは怒ってスタジオから出ていってしまった。あいかわらず楽しませてくれる人だ)自分が間違っているかもしれないという可能性を吟味する能力のない知性は不毛な知性である。」

 

ここにも、田嶋氏をダシにして、フェミニストをバカにする気配が満ち満ちている。スピリチュアルな感覚のある読者なら、嫌悪感を感じるものだ。でも『たけしのTVタックル』や田原総一朗の「サンデーモーニング」等が良い番組だと思えるような感性の人には、この内田氏の文も嫌悪感なく読めるだろう。

「自分が間違っているかもしれないという可能性を吟味する能力のない知性は不毛な知性である。」という言葉はだれに対しても言える。私に対してもいえるし、内田氏に対してもいえる。だからといって、何もいえない、何も正しいものはないというなど、社会科学の低レベルの理解に過ぎない。

 

いうまでもないが、田嶋さんはフェミの代表でもないし、あの番組はひどいし、田嶋さんの主張のうち一部を笑うために編集して利用している。嵐山光三郎氏の、相手の言い分を聞かずに女性や野党をバカにするような姿勢こそ、「権威主義的男性的なスタイル」であって、フェミの批判するものである。内田氏のいう「正義の人」のダメなところは、嵐山光三郎氏やその他、自民党議員・タレントなどにも見られるが、そういうことは指摘せず、田嶋氏だけを「怒鳴り散らしている」とバカにする。これを偏った姿勢という。

内田氏のいう「正義の人」のダメなところは、こうした内田氏のスタイルにこそでている。でも彼はそれに気づかない。自分が間違っているかもしれないという可能性を吟味する能力がないまま、フェミを批判する。(ほら、なんにでも使えるよ)

 

内田氏は口先で「これから先、男女差別の撤廃のためにおおくの男たちは努力を惜しまないであろう。」などというが、自分は何もしないどころか、差別撤廃運動の足を引っ張っているのに、よくいうよ、とコメントしておこう。

 

内田「けれどもその努力を、男たちを怒鳴りつけたり、馬鹿よばわりすることによって引き出すことはできないということは知っておいたほうがよい。」

 

またまたそんなこといってないのに、そんなふうにして、上からえらそうにいって、フェミニストをバカにしないでよ。無意識のうちにどうしてもえらそうになる人をフェミは問題にしてきたのよ。

こんなのばっかり。センセーなんだね。何も知らない学生相手にそんなことを言ってるの?

 

そして最後に、

 

内田「私は予言する。性差別は確実に解消の方向に向かってゆくであろう。だが、フェミニズムは、その『必勝不敗の論法』とその『正義』ゆえに、マルクス主義と同じく必ず滅びるであろう。」

 

 

あらら、予言までしてくれるよ。何か格調高く、みたいなこと、少し狙ってる? なんなの? これって歴史的文書なの?

何をエネルギーにして彼は生きているのだろう。学者をしているのだろう。これを書いているのだろう。彼の理屈なら、何も言わずに黙って書斎で本を読んで、世界をわかったつもりになっていればいいのに。

さまざまな現場で運動・苦闘しているものたちとは本当に遠い人だ。ダサくてもマジメに差別をなくしたいと思っているフェミをバカにするように高みから話す人が、何のために語りたいのだろう。自分を振りかえってほしい。本を出す権力も、学生に語る権力も、メディアで発言する権力も持たない/もてない人がたくさんいる。対して、内田氏は、エリートだ。私は、そんなエリート・インテリがえらそうに言うなと、思う。

 

というような、次第である。彼の主張で、フェミの思想の何か深いところに触れたものは一つもない。何も勉強せず、尊敬心も持たず、終始バカにして、悦に入っている。フェミニズムというなら、例えば、私のシングル単位論(伊田のジェンダー論)を知ってから発言してほしいと、私なら思う。だって私もフェミですから。

 

私のこのようなコメントに対しても、「だからフェミニストは・・・正義の人は・・・」というワンパターンで批判するであろうことはわかっている。

 

あとは、現実の変革運動にどういうスタンスを取るかということと感性の違い(スピリチュアル感覚の差異)である。私はそれだけを言いたい。

何もしない人が、社会の中のひどい人権抑圧を放置し、みもせず、社会改革運動する人をバカにするようなことが、今日本ではとても広く見受けられる。その典型が、内田先生である。

 

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