権力の館を歩く

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音羽・鳩山邸 波乱の政治人生、友の舞台で=御厨貴

 改憲再軍備と日ソ国交回復に生きた鳩山一郎。軽武装・経済重視、講和独立の吉田茂と好対照なその歩みは、戦後保守政治のもう一つの潮流を形作ってきた。御厨貴・東大教授「権力の館を歩く」第二弾は、東京都文京区音羽の鳩山会館。坊ちゃん育ちの一方で大衆を意識し続けたあるじの姿を映すように、洋館の窓からは明るい冬の日差しがそそいでいた。

 ◇人々を呼びこむ日だまりの丘

 鳩山一郎は首相になりたかった。無邪気なまでにそう思いこんでいた。陽気で前むきで開放的な鳩山を見こんで、中学校時代以来の友人で建築家の岡田信一郎が、一九二四年、鳩山から何の注文も受けずに、鳩山のために文京区音羽の高台に三階建の鉄筋コンクリート造の洋館を建てた。無論設計料などとらなかった。

 そもそも鳩山家と音羽の地は、一郎の父和夫が一八九一年に買い求め木造の家を建てたことから関係が始まる(注1)。帝国議会が創設された翌年のことだ。父和夫以来、一郎にとっても衆議院議員は近しく好ましい職業だった。「末は博士か大臣か」の大志を抱く鳩山一郎に対して、岡田は音羽の高台の館をもって報いた。

 かつて木造時代、上の階からは東京湾が見渡せたという。見晴らしの良い高台に建てられた洋館は、まず以(もっ)て人を見おろし人を遠ざけ、権威を笠(かさ)に着る、そんな権力の館ではなかった。坂を上がると一面に広がる空間が迫り、そこに高い塀はめぐらされていない。乗り越えようと思えば造作もない白い柵(さく)があるだけだ。芝生を植えた庭のむこうに、今は大木が繁っているが、昭和の初めはおそらく空と芝の水平線が「こんにちは」と挨拶(あいさつ)を交わしたに相違ない。

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 南に面したサンルームの窓をあけ放ち、そのむこうの二つある応接間と食堂の仕切り戸をあけ放つと、一階は大部屋と化し庭と合体する。何と開放的で人を呼びこむ館であろうか。ほら日だまりの丘をめざして、多くの人が坂を登ってやってくる。後年鳩山が首相になった時、政治家はおろかマスコミ関係者や地元住民にこの権力の館は開放された。夫を支えた賢夫人鳩山薫(注2)の日記にこうある。

 「十二月九日 対社会党との交渉に手間どりて夜八時首班指名選挙、テレビの前にて。下の客間のラジオにも大勢集りて見る。鳩山、二百五十票。緒方、百九十一票。忽(たちま)ち祝賀の客殺到、提灯(ちょうちん)行列も来る。大変なさわぎになる。」次いで十日は「九時より三木、岸、松村の三氏参集。閣僚選考。」さらに「官邸と音羽とに直通電話引かれる。」とあって生々しい。十一日になると「祝賀客、鮮魚、ビール、酒など色々積上る。」そして「六時より文京区内各町の有志の提灯行列五千人程の予定が約一万に近く護国寺より続く。」と何とも豪勢な按配(あんばい)だ。

 ようやく悲願の首相の座を射止めた喜びに鳩山邸の内外は沸きかえっているのだ。岡田が鳩山のために拵(こしら)えて三十年。骨格は関東大震災にも耐え、東京大空襲にもあわずにすんだ運のよい館のはずだが、実はここに至るまでの鳩山の政治的軌跡は、決して平坦(へいたん)ではなく苦難の道のりであった。鳩山が政治家として注目を浴びたのは、犬養、斎藤内閣の文相の頃(ころ)までで、帝人事件(注3)による文相辞任以来戦前は逼塞(ひっそく)を余儀なくされた。鳩山はしばしば音羽の洋館を抜け出し、軽井沢の山荘に引きこもりとなる。ただ一九四二年の翼賛選挙の時も非推薦で当選し、少数派として衆議院に籍を持ち続けた。そしていつ来るかわからぬ反転攻勢の時を待つ。

 鳩山がじっと我慢の子でいられたことの裏に、東京を離れた軽井沢での生活体験があった。彼は軽井沢でまさに晴耕雨読の生活をする。原書を読み、日記に感想を記す。もちろん情報交換はする。しかし鳩山は戦争の時代になればなるほど、春から秋深くなるまで、一年のかなり長期間、軽井沢に滞在している。そこで今風にいえばガーデニング、庭園づくりを本格的に始める。すなわち政治の手入れができぬもどかしさを、自分の土地の手入れに精を出す。今年はこれを植える、来年はあれが咲くだろう、という田園生活に没頭しながら、自らの政治の栄養素を蓄えていくのだ。

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 その間、音羽の洋館はさびしい留守宅となった。やがて近衛文麿、吉田茂、芦田均といった政治家との軽井沢における交流のあと、再び鳩山は政治の手入れに乗り出す好機をつかむ。かくて一九四五年八月の敗戦と共に、鳩山は音羽の洋館に戻り、日本自由党を結成する。音羽の洋館は再度権力の館となるべく、千客万来の有様である。

 だが、二度目の時めきの期間も、長くはなかった。わずか八ケ月のこと。一九四六年五月、組閣直前に公職追放の憂目を見たからだ。追放された鳩山は、またまた軽井沢で本格的農業に取組み、自ら言うごとく「晴耕雨耕」の生活に戻る。自然を造り、政治をながめ、やがて機を見て再び立つと。

 一九五〇年頃から、音羽の館は少しずつにぎわいを取り戻す。追放解除の風が吹き始めたからだ。「例会」と称する鳩山を支援する人々の会が年末にめずらしく音羽で開かれている。鳩山が音羽に常駐するようになると、朝から晩までひっきりなしに人がやってくる。そんな中、追放解除直前に、洋館の奥に新築した和風の家屋で会議中、トイレに立った鳩山は倒れた。「耳の後ろのところから頭の内にかけて内出血するのが自分で分るのだ。ジーッと血が流れている。こりやア参つたな、と思った」と鳩山の回顧は妙にリアルである(注4)。

 軽い脳溢血(いっけつ)で倒れた鳩山は、体のリハビリと政治のリハビリに励むことになる。また等々力のバラ園から音羽の庭のためにバラを購入したりもしている。その庭をそして坂を下りて通りをステッキをもって歩き、庶民と挨拶を交わすのが鳩山の日課となる。病を得たおかげで音羽の館と周辺住民との距離感覚は一層縮まった。

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 何回もの挫折の末、音羽の主は権力の頂点に、音羽の館は権力の館となった。鳩山内閣の二年間も政治は永田町の首相官邸と音羽の館との間で紡がれた。音羽には全国遺家族代表、引揚げ者団体、官公労などがにぎにぎしくやって来た。首相としてすごす内に、鳩山は夜になると家族や周囲の人々と共に讃美歌を合唱して休むようになる。

 イギリス様式をとり入れた音羽の館は、ハトやミミズクやシカの装飾物によって守られ、一階から二階に上る階段の踊り場に外にむかってはめられたハトをモチーフとするステンドグラスは、あたかも教会のそれを髣髴(ほうふつ)とさせる。

 日ソ交渉から戻った一九五六年十一月、館に戻る道すがら、「一時帰宅の途中また手をふり通す。江戸川橋よりまた大変。アーチを建て花火が上る。庭までつゞく万国旗、提燈、庭も家内も一ぱいの人」と夫人の薫は記した。鳩山邸周辺が「音羽銀座」と称されたのも宜(むべ)なるかな。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史・建築と政治)=毎月1回掲載します

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(注1)鳩山会館 音羽の土地を購入した和夫は、衆院議長、弁護士、早大校長(当時)などを歴任した。館は一郎没後、長男で元外相の威一郎を経て、現在、威一郎の妻安子氏の所有に。95年に建設当時の図面を元に大規模な修復工事が行われ、一族の功績を紹介する展示施設と、有料で貸し出す広間を備えた会館として利用されている。

(注2)鳩山薫 一郎の妻。長年、共立女子学園園長を務めた教育者としても知られる。夫妻の日記は『鳩山一郎・薫日記』(上下巻、中央公論新社)として近年出版された。1938年から59年の一郎死去までを収める。

(注3)帝人事件 1934年に起きた帝国人絹会社の株式売買をめぐる疑獄事件。一郎は関連を追及され、辞任。のち斎藤実内閣は総辞職した。

(注4)鳩山の回顧 『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)より引用。

毎日新聞 2007年2月21日 東京夕刊

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