Ars cum natura ad salutem conspirat

《資生堂オイデルミン》1897年発売、資生堂企業資料館蔵

福原信三と美術と資生堂

2007年9月1日(土)-11月4日(日) 1階展示室


開催概要

リッチで、スマートで、モダンで

 福原信三(1883-1948)は、資生堂創業者福原有信の三男として銀座に生まれました。幼少より絵画を好み、小学校時代、石井鼎湖について日本画を学び、その子息石井柏亭とも出会っています。鼎湖没後、日本画習得の機を失いますが、図画の教師であった小林万吾に水彩画、油彩画を学び、中学に入ると写真に興味を抱きました。中学卒業後、信三は父の勧めで薬学を学び、薬剤師の資格を取得し、米国へ4年間留学、この時、修行中の画家・川島理一郎と知り合いました。米国からの帰国の途、1年間ヨーロッパを巡り、日本人画家たちと交流し、美術館、博物館を訪れ、欧米の最も華やかな時代の芸術潮流と先進的な都市文化を目の当たりにして1913年に帰国しました。

 パリ滞在中、信三は写真を自分の芸術表現として選び、資生堂を継いでからも、写真芸術社を起こし、『写真芸術』を発刊し、写真集5冊を出版、1919年に開設した資生堂ギャラリーで積極的に写真の展覧会も行いました。また、当時の日本のアマチュア写真家たちを代表する「日本写真会」の会長も務め、優れた写真家として日本の写真界に欠かせない存在となりました。一方、経営者としては、広告宣伝の重要性を欧米で認識し、1916年に意匠部を新設、さらに前述のとおり陳列場に始まる資生堂ギャラリーを開設、「リッチでスマートでモダン」という資生堂の企業イメージを打ち立て、企業文化の基盤を形成しました。

 福原信三と美術の関わりは、写真家やひとりの美術愛好家という側面だけに留まりません。資生堂ギャラリーの運営および製品のパッケージや印刷物のデザインなどにも、彼と美術との結びつきが強く現れています。

 本展は、大正から昭和へと時代のうねりの中で、生活の中にその時代に相応しい美しさと真の豊かさを求め続けた福原信三に焦点を当てて検証することにより、大正から昭和にかけての、文化人と美術との関係の1つのあり方を紹介し、その精神を引き継いだその後の企業の活動展開も織り交ぜながら、美術と生活そして社会との関わりを考察しようとするものです。



基本情報

会期:2007年9月1日(土)〜11月4日(日)
休館日:毎週月曜日(ただしその日が休日の9月17日・24日・10月8日[月・祝]は開館、その翌日9月18日・25日・10月9日[火]は休館)
開館時間:午前10時〜午後6時(入館は閉館の30分前まで)
会場:世田谷美術館1階 企画展示室
観覧料:一般1,000(800)円、大高生/65歳以上800(640)円、中・小生・障害者500(400)円 
( )内は20名以上の団体料金
主催:世田谷美術館
特別協力:資生堂



展示構成

福原信三《博労》1913年 印画紙 資生堂企業資料館蔵

第1部 福原信三と美術

幼少より絵画を好み、長じて写真家として一家言を成した福原信三と美術のつながりを、彼の写真作品、川島理一郎や野島康三といった彼の周辺に集まった美術家たちとの交友関係、彼が創設した資生堂ギャラリーでの展覧会などで紹介いたします。


川島理一郎《セーヌ河の景(ポンヌフ)》1926年 油彩・カンヴァス 栃木県立美術館蔵

1 写真家 福原信三

写真集『巴里とセイヌ』・『西湖風景』・『松江風景』『布哇風景』、編著『武蔵野風物写真集』に掲載の福原信三の写真と『光と其諧調』および前記写真集により写真家福原信三を紹介いたします。『資生堂月報』そのほか、文献資料、福原信三が愛用した「トロピカル・ソホ レフレックス」(横浜美術館所蔵)も併せて展示いたします。


山本丘人《はつなつ》1932年 絹本着色 個人蔵

2 資生堂ギャラリーの活動と交友関係

資生堂ギャラリーのオープニングを飾った川島理一郎を始めとして、東京に新しく窯を築くにあたって福原信三が支援した当時新進陶芸家であった富本憲吉、前衛的な展覧会として注目された舞台装飾芸術展のロシア人夫妻ラリオーノフとゴンチャローヴァ、このギャラリーでの初個展が画家としての出発点となった山本丘人や須田国太郎らの作品を紹介します。そしてホームグランドとして資生堂ギャラリーで数多く開催された福原信三が会長を務める日本写真会同人作品展覧会等に出品された野島康三や福原路草の写真など福原信三と係わりの深い作家の作品や写真パネル等で当時の資生堂ギャラリーの活動の一端を紹介いたします。


資生堂練白粉(小型ウィンドウバックポスター)デザイン:川島理一郎 1926年 紙・オフセット 資生堂企業資料館蔵

3 資生堂意匠部と福原信三

福原信三は1916年、資生堂化粧品部を開店させ、商品や広報印刷物のデザインを手掛ける意匠部を設立しました。ここでは、福原信三がこだわった資生堂のデザインポリシーを表す、意匠部のデザイナーたちが手掛けたパッケージや商品といったプロダクトデザイン、チェインストアー用の小型ポスターや様々な広報印刷物などを紹介します。資生堂スタイルが当時の都市文化に与えた影響に思いをめぐらせていただければ幸いです。


資生堂モダンカラー粉白粉 1932年 紙製 デザイナー:山名文夫 資生堂企業資料館蔵

第2部 デザインと資生堂スタイル その後

戦争という化粧品会社にとって困難な時代を潜り抜け、福原信三亡き後も継承されていく資生堂スタイルの一端を紹介いたします。


資生堂オイデルミン 1897年発売 資生堂企業資料館蔵

1 広告・デザイン

戦後の昭和史とともに人々の記憶に残る資生堂のポスター等の広告デザインやプロダクト・デザインを、戦前から福原信三の元でデザインを手掛け、戦後へとそのデザイン・ポリシーを伝える役割を担った山名文夫や山本武夫を中心に、デザイナーたちの仕事の一端を紹介いたします。


山名文夫「資生堂香水」新聞広告 イラストレーション原画 1960年 資生堂企業資料館蔵

2 資生堂ギャラリーの活動 コレクションの形成

戦後、1947年5月、当時の画壇を代表する作家たちによる「第1回椿会展」(第一次椿会)で、再開した資生堂ギャラリーの活動を、椿会の作家たちを中心に、資生堂アートハウスのコレクションによりご紹介いたします。このコレクションは、資生堂ギャラリーの展覧会を通じて企業により収集されたものであるというところに特徴があります。資生堂アートハウスのコレクションは、福原信三の企業精神を受け継ぎ、結実させた、ひとつの端的な例といえるでしょう。


資生堂ドルックス化粧品 デザイン:山名文夫 1951年 資生堂企業資料館蔵


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