[표지이야기]편견인가, 꿰뚫어 본 것인가
[表紙の話]偏見なのか、見抜いたものなのか
미군 정치고문 제임스 맥의 보고서 “쿠앙남성 주둔 한국군은 무능·부패·잔혹”
米軍政治顧問ジェームズ・マックの報告書“クアンナム省駐留韓国軍は無能・腐敗・残酷”
(写真/銃をむかえたまま池近所で発見されたフォンニー・フォンニュット村女性ら.この写真を撮った'ボーン'とは“中で身ごもった女性は近い道路で銃をむかえたように頭の前が飛んで行っている”と書いた)
“韓国軍の戦闘力は他軍より強くて,恐ろしい。 韓国軍とは接戦するな。 韓国軍兵士たちは残忍だ。 韓国軍は弱点を探して,奇襲したり,狙撃をして戦闘力を弱化させろ。”
あるベトナム戦参戦した勇士は最近手記でベトナム軍司令部が韓国軍をこのように評価したと明らかにした。 それに沿えば韓国軍は“勇敢で,素晴らしくて,親切で,情け深くて,礼儀正しい”軍隊であった。 このような事実はまた‘100人のベトコンをのがすことがあっても1人の良民を保護しなさい’という駐ベトナム韓国軍司令部の一貫した指揮方針でも立証されるということだ。 またベトナム文化を理解できなかった米軍とは違って,同じアジア人として韓国軍はベトナム人の情緒を正確に貫いていたので対民間支援事業課軍事活動等を通して,彼らの感動を引き出すことができたという。
皮肉が混ざった否定的評価
しかし<ハンギョレ21>が入手した米国立文書記録保管所のベトナム戦関連文書らで米国が評価した韓国軍の姿はこれとは距離が遠い。 米軍は文書で韓国軍に対して“戦闘力が落ちるのはもちろん駐越米軍,南ベトナム軍隊など連合軍に非協調的であったし,ベトナム民間人らを相手に残酷行為をしたし,闇市取り引きなど各種不法行為を日常行った”という結論を下している。
米軍は韓国軍に対して全般的に否定的な評価を下しており,何何部分では皮肉まで混ぜて,非難している。
いったいこういう正反対の評価がどのように可能だろうか。
派越韓国軍に対する米軍側のこのような評価は当時の状況を厳密に客観的に表現したと見られはしない。 またこのような評価には韓国軍に対する人種的偏見が溶けている余地も多い。 特に何より駐越米軍が自分たちの軍事的・政治的失策を韓国軍に上書きするための方便で悪用された可能性もある。
しかし<派越韓国軍戦史> <海兵戦闘史>等韓国側の公式的な歴史記録には全く登場しない,韓国軍に対する米国側の評価という点でこれをありのまま公開するのはベトナム派兵に対する歴史的評価に新しい一頁を相次ぐ意味があるというのが<ハンギョレ21>の判断だ。
韓国軍に対する評価は1968年2月12日から1969年4月15日に達する1年2ヶ月の間ダナン市に派遣された米軍政治顧問ジェームズ・マックが駐越米大使館政治担当参事官ニコラス・ソーンに送る長文の報告書に登場している。 評価対象部隊では当時ベトナム クアンナム省地域で作戦を行った韓国軍海兵第2旅団に合わせている。
米軍は大きく△韓国海兵第2旅団の戦闘力および戦闘態度△駐越米軍と南ベトナム軍隊との協力関係△ベトナム民間人に対する残酷行為△闇市取り引きなど戦闘と関係がない不法行為などを主に扱った。
先に韓国軍の戦闘力に対して米軍は“ベトコンなど敵に対する主要軍事行動を主導的に取ることを敬遠する”と分析した。 1968年3月18一致報告は“韓国軍は定期巡回査察と待ち伏せをするために彼らの司令部を離れることを敬遠してしたし,ベトコンの待ち伏せを非常に恐れたし(ベトコンが)夜に現れる状況に対応することを避けた”と書いた。 同じ月25一致報告では“クアンナム省諮問団が(ベトコンに対する)捜索と破壊活動を要請したがこれを無視した”という言及も登場する。
“韓国軍よりベトコンがもっとましだ”
(写真/米軍政治顧問ジェームズ・マックの報告書は“韓国軍に対するベトナム人の憎悪心が非常に深刻だ”と診断する)
米軍はまた韓国軍が駐越米軍と南ベトナム軍隊との協力も正しくすることができなかったと評価している。 連合軍の間になされなければならない情報無料交換要請でも,南ベトナム政府官僚らで構成された省諮問団の勧誘や要請に対しても無視する態度を見せたということだ。 南ベトナム政府に対する韓国軍の姿勢も問題視している。
“多い韓国軍らが南ベトナム政府が自由で自律的な政府というものを理解できずにいるといういくつかの証拠がある。 大部分の韓国軍は南ベトナム警察と関連した法律を無視する。 韓国軍責任戦術地域で南ベトナム軍警察の交通統制権限と道路遮断機能を奪い取ってしまうことがその一つ例だ。…金然翔(김연상)准将も(連合軍らが参加する)指揮官会議に含ませなければならない。 これは彼に南ベトナムの主権に対する強い認識を持たせることができる。”(1969.7.9)
韓国軍のベトナム民間人に対する残酷行為は最も深刻に,そしてしばしば登場する主題だ。
“去る2ヶ月の間韓国軍偵察隊が村で発生した小さい銃撃戦に対する報復で捕虜を殺害した事件が最小限三度発生した。 最も不名誉である事件は1968年2月12日フォンニー(Phong Nhi)村で起きた。 そちらでは79人(または69人)の女性と子供たちが死にいたった。 ベトナム農民らは韓国軍を非常に恐れた。 多くの人々は韓国軍よりベトコンがより良いと話した。”(1968.3.18)
“韓国軍部隊がディエンバン(Dien Van)県に駐留したし彼らは私たちの地域で作戦を遂行した。 私たちの村に入ってきて,住民たちを家で引き出して銃を撃って,人々を殺して家族らのからだを切るなど野蛮な行為をした。 韓国軍部隊は死体をそのまま置いたり隠してその現場を離れた。”(1969.2)
米軍と南ベトナム軍首脳部らは韓国軍がベトナム民間人を苛酷に扱うのは“ゲリラ戦の政治的な面を理解しなかったことに従ったこと”という分析も出している。 これと共に韓国軍の残酷行為による結果としてベトナム住民を相手にした心理戦でも失敗したと評価している。
“韓国軍に対するベトナム人の憎悪心はあまりにも深刻で,住民たちはベトコンが設置した地雷や彼らが犯したテロまでたびたび韓国軍のせいにしている。 ベトコンの政治的扇動活動によって‘朴正煕傭兵’というもっともらしい名前を得た韓国軍らは,とうてい見込みはないが,万一彼らが偉大な戦士または人道主義者に急変するにしても住民たちが受けた心の傷は絶対消されないだろう。”(1969.4.23)
避難民処理無原則な対応
(写真/ベトナム戦期間中米軍水陸両用車とともに協同作戦を行う韓国海兵ら)
“ベトナム役人たちとベトナム民間人ら間に広まっている反韓感情の深さと強烈さために何回も警告を送った。…実状韓国軍が同盟軍として行動するよりはアジアの占領軍とも一緒に行動する状況が続いたのでベトナム役人たちの警告は効果をみる可能性がなかった。”(1969.4.25)
米軍は韓国軍の勇敢性に対しては肯定的な表現をしているが,その勇敢性やはり残酷行為と関連になって使われている。 例えば“もちろん私たちは韓国軍の勇敢性を高く評価する”ながらも“私たちが何何事件を通じてみたように韓国部隊は共産主義者を殺すために血眼になっていたし罪のない民間人らの死と損傷には無関心だった”という式だ。
避難民処理に対する無原則な対応も批判の種で登場する。 “韓国軍の人口統制方法はむしろ韓国軍責任戦術地域中でベトコンに対する同調者を増加させる要因になった。…韓国軍は作戦が不必要な地域でも避難民を作り出す。 最近ではホイアン(Hoi An)近くのカム ハイ(Cam Hai)とカムアン(Cam An)村で韓国軍がベトナム農夫らを特別な理由なしに移動させた。 単純に彼らの責任戦術地域を増やして農夫らを人口が集中した都市地域で密集させるためにだったが,これは非常に深刻な問題だ。 再定着のために使われる領土が減るためだ。”(1968.3.18)
闇市に物を売ったり,物を公然と盗むなどの‘モラルハザード’は報告書で何度も言及される常連メニューだ。
“韓国軍の闇市運営はディエンバン地区,ヴィンスアン(Vinh Xuan)とライナイ(Lai Nghi)村で真っ最中進行中であることが明白だ。 私たちはこの村らで韓国軍らがソーダ水,Cレーション,米を大規模に売っているという報告書を絶えず受けている。 1969年3月13日朝私たちは韓国ジープがライナイの村に現れたという事実を伝え聞いた後,村を訪問した時,ベトナム住民たちが村に駐車されている韓国軍ジープでビールとソーダ水箱をもってくるのを目撃した。 ジープを調査しながら,私たちは後席が全部ビールとソーダ水ボックスで満たされているのを発見した。”(1969.3.14)
“韓国海兵第2旅団所属兵士らが捕獲した米を村の人々に売ったという報告書を受けた。 米の価格がとても高くて,村の人々が買わないようにしよう韓国軍らは南ベトナム軍と民兵隊を相手にこの米を売ろうとした。 彼らも拒否するや韓国軍らは民兵隊らが基地に帰るできないようにした。 同じ日韓国軍らは駐越米軍司令部基地に訪ねてきて,管轄バンカー近所に手榴弾を投下することだと威嚇したし,以後装填した拳銃を取り出して,手榴弾を撃つとして,脅迫した。 この事件とかかわった韓国軍らは大部分は酒に酔った状態であった。”(1969.3.16)
闇市での活躍
(写真/灰になったフォンニー・フォンニュット住民.この状況は<ハンギョレ21>が取材した生存者らの証言と一致する)
闇市運営と関連してみて(1969.1.30)は“韓国軍が最も成功的に勝ち取った成果は事実上(闇市等を通した)経済的なこと”だったと皮肉っている。
これと関連して,韓国軍らがベトコンらを相手に捕獲した米を処理する過程を詳しく記録した大きな課題もある。 文書によれば1969年1月韓国海兵第2旅団はベトコンが隠して置いた225トンの米隠匿処を発見して,米を部隊で後送した。 クアンナム省省長は韓国軍に捕獲した米一部を避難民に食べさせるのに使えるように要請した。 韓国軍はどこに米が必要なのかを旅団に報告するべきで,韓国軍が住民たちに直接米を配布すると明らかにした。 その後第2旅団は避難民らに食べさせる目的で300砲台の米を住民たちに送った。 しかし韓国軍は空の砲台300ヶが返還される時まで配布を中断したし,代わりにこの米を闇市でベトナム政府の公式価格よりとても低い価格で売ったということだ。
物を盗んだり奪う韓国軍を描写した大きな課題も多い。 “1969年3月18日韓国軍部隊境界線中に侵入した豚をベトナム農夫が連れていこうとして,韓国軍はその豚を戻すことを要求した。” “1969年3月17日スェンクアン(Xuyen Quang)村にあった韓国軍らがビールを飲んではお金を支払うのを拒否した。 彼らはまたその店で仕事をする少女からお金を盗んだという。” “韓国兵士たちがラジオ・ビール・牛肉・チーズ・鶏肉などを盗んだ”という表現も出てくる。
米軍は韓国軍の問題点を解決するための方案でだいぶ過激な提案をしている。 すなわち,韓国軍を後方に送ろうという主張だ。 “政治的・軍事的状況が許諾するならば韓国海兵第2旅団は平正地域でない地域で再配置されるべきで,少なくとも同等な規模の他の旅団で交替させられなければならない”(68.7.27)とか“ベトコンが100%掌握していて誰でも手当たり次第殺すことができる所を韓国軍の責任戦術地域でしよう.”(1969.4.23)は主張まで出てきている。
米軍は結論的に“上級司令部が韓国軍の過去形態を考慮して,この地域の平正作戦に他の連合軍軍隊を大々的に投じるのを即刻関心事項としない限り状況が改善されないだろう”と見通した。
蔡命新(채명신)総司令官の反論
(写真/お母さんとともに醜い姿で死んだ子供(最頂上).米軍らが死骸を収拾している(下). 作戦に参加した将校らはこちらが米軍姉妹部落だったと回顧した)
しかし当時派越韓国軍総司令官だった蔡命新(74・予備役中将)氏は<ハンギョレ21>取材陣と会った席で米軍側のこういう評価を正面から反論した。 蔡氏は“ベトナム戦の性格規定から韓国軍に独自の作戦権行事を許すのかどうかなど大小の問題を置いて駐越米軍と駐ベトナム韓国軍の間には深刻な意見対立があった”としながら“(このために)米軍が批判的であることはもしかしたら当然のこと”だったと話した。 彼はまた“米軍がアジア文化圏を理解できないばかりかゲリラ戦の本質に対する理解が不足したせいで後ほどには韓国軍が採択した戦術概念などを全面的に受け入れたりもしていた”と付け加えた。
戦闘力問題に対して彼は“海兵隊の場合積極的な戦闘体制を整えることができなかったということは話にならない”として“むしろ参戦初期性急に攻撃に重点を置いたあげくベトコンらの待ち伏せや奇襲攻撃に多数が死亡した事件などを虚偽報告する事例も発見されて,3人以上の敵軍を追撃する時は司令官の許可を受けろとの無理な指示を与えなければならないほどであった”と反論した。
彼はしかし韓国軍が闇市取り引きなどを行ったなどの米軍側指摘に対しては“戦場で一般的に現れるモラルハザード現象”としながらソ韓国軍にもこのような不法行為があったという点を認めた。
キム・チャンソク(김창석)記者kimcs@hani.co.kr
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