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教科書検定は「検閲」ではないのか? 

検定意見によって「脱原発」が消えた

安住 るり(2007-10-24 13:05)
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【編集部注】 以下記事は、編集部による編集を経ておりません(読みやすくするため改行のみ施しました)。掲載前の記者とのメールのやりとりは、記事末につけております。


 教科書検定で、出版社が提出した見本教科書の内容に、文部科学省の調査官が「検定意見」を付した結果、記述が変えられた実例を挙げましょう。

 2年前の春の検定で、ある会社の中学社会の見本教科書の「発電のためのエネルギー」という項目の記述は、以下のようでした。

 【日本の電力は、水力発電8.7%、火力発電61.2%、原子力発電29.7%でまかなわれています(2001年)。今後は、増加傾向にある電力消費に対応するために、原子力発電(原発)の割合を高めていくことが計画されています。原発は、大量のエネルギーを供給でき、原料となるウランを繰り返し利用できるという利点がある一方で、人体に有害な放射能を大量に発生させるため、その安全性が問題となります。また、放射性廃棄物の最終処分場をどうするかという問題も残されています。
 ヨーロッパでは、風力発電に力を入れる国が増えています。また、国民投票で原発の全廃を決めた国もあり、「脱原発」の動きが大きくなっています。】

 さあ、あなたなら、この記述に、どんな「意見」を付けますか?

 エネルギー問題は、専門家の間でも、さまざまな考えの相違があり、「誰からも文句の付かない記述」というのは不可能でしょう。この上記の記述は、まあ「バランスのとれた記述」として、許容範囲ではないでしょうか。

 ところが、ここに「検定意見」が付されました。

 いわく【自然エネルギーが抱える課題に比べ、実用化の動きを特別に強調しすぎている。】

 さて、この「意見」を受けて、あなたが編集者なら、どうしますか?【ヨーロッパでは、~~】以下の2行が「調査官」のお気に召さなかったらしい。この「ご意見」を無視すると、検定を通りません。どのように書き直したら、関所を通してもらえるのだろうか、悩みます。

 結果、以下のようになりました。

 【日本の電力は、水力発電8.7%、火力発電61.2%、原子力発電29.7%でまかなわれています(2001年)。今後は、増加傾向にある電力消費に対応するために、原子力発電の割合を高めることが計画されています。原子力発電は、大量のエネルギーを供給でき、原料となるウランを繰り返し利用できる利点があります。しかし、人体に有害な放射能を大量に発生させるため、事故が起きた時の被害は大きく、放射性廃棄物の処理・処分などの問題もあることから、こうした課題の解決がめざされています。
 いっぽう代替エネルギーには、出力が不安定であったり、開発や実用化に費用がかかるといった課題があります。】

 どうですか?よくよく読み比べてください。壮絶(?)なせめぎ合いが展開されていますよ。教科書のスペースは限られています。わずかな文字数で、バランスよくわかりやすく解説するために、編集部としては、練りに練って仕上げた原稿です。

 書き直してパスするために、「調査官」からのイチャモンの「裏」を読まなければなりません。

 同じ教科書の30ページほど後に、『地球とともに生きるために』─「自然エネルギーの開発と利用」という項目があります。
その記述はこうです。

 【先進国の一員である日本は、地球規模の環境問題をほかの国々と協力して解決する責任があります。しかし、そのために人々の生活水準を大きく引き下げることは、容易ではありません。
 上の事例のように(筆者注:町のすべての電力消費を風力発電でまかなうことを目指して、田んぼの中に十数機の風車を立てているある地方の写真と解説)日本でも風力発電機をよく目にするようになりました。風力発電は、風の力を利用した、二酸化炭素をほとんど排出しない発電方法です。
 原子力発電も二酸化炭素の排出量が少ない発電方法で、総発電量のなかで、すでに大きな割合をしめています。しかし、事故や放射能への不安から、根強い反対運動があります。
 そのため、風力発電はじめ、太陽光、太陽熱、波力、地熱などの〈自然エネルギー〉を利用した発電方法の技術開発と改良が進められています。今後は利用に対する補助金制度など、普及をうながすしくみを充実させることが求められています。】

 さあ、どうでしょうか。この記述に、あなたなら何か文句を付けますか?

 「調査官」は、こう書きました。いわく「エネルギー問題の扱いが、いわゆる自然エネルギーの記述や利点に偏っており、現状に照らし、全体として調和がとれていない」

 なるほど、この2箇所の「検定意見」を合わせてみると、調査官の「示唆」するところが浮かび上がってきますね。「自然エネルギー」がお好きじゃないらしい。もっと裏読みすれば、「CO2削減は、原子力発電の増強で」という、原子力業界と経済産業省方面が描く構図に合わせろ、ということです。

 これを無視したら、関所を通れません。会社は、以下のように書き直しました。

 はじめの1、2節は同じで【上の事例のように】以下が、【図2のように、日本はおもに火力、原子力、水力によって発電しています。火力発電は効率のよい発電方法ですが、二酸化炭素を多く排出するという課題があります。】となって、風力発電に関する解説は、丸々消えてしまいました。

 また、最後のところの【補助金制度などで(自然エネルギーの)普及を促す】というところが消え、かわりに【その普及が期待されています。しかし、発電の効率が悪いなど、課題も残されています。】と、自然エネルギーのマイナス面を強調する記述に変わりました。

 結局、【脱原発】という言葉が消え、【風力発電についての記述】が大幅に減りました。

 調査官の「意見」は、そのようにせよ、と明確には言いません。あくまでも「ほのめかす」のです。そこは、きわめて日本的(?)な、阿吽(あうん)の呼吸です。腹芸(はらげい)の世界です。政治と同じですね。

 これらの意見を書いた調査官の名前は決して明かされません。「影」のようなものです。しかし、「影」の声を無視すると、教科書としてのお墨付きはもらえないのです。出版社にすれば、死活問題です。だから教科書会社は、「影」の声に怯えて、「自発的に」記述を変えた、ということになります。

 ああ、なんだか、「集団自決」のはなしを思い出します。日本軍は決して「自決せよと命令はしていない」と。

 たまに、勇気ある編集部と執筆者が「検定意見」に対して「異義申し立て」をします。その「権利」は認められていますから。

 しかし、無駄なあがきです。ほぼ例外なく、役所側は、いろんな屁理屈を並べて、「異議」は却下されるのです。

 これが「検閲」でなくて何でしょうか?

 日本国憲法の第三章、「国民の権利と義務」の第21条に、こう書いてあります。

 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
 「検閲は、これをしてはならない。」

 

【編集部追記】 編集部として上記投稿について記者に改善をお願いしましたが、受け入れていただけませんでした。以下はそのメールのやりとりです。 (記事末尾への追記について記者のご了解を得ました

〔編集部から記者へのメール1〕

記事についてですが、このままでは載せたくないと私は思っています。そこで、差し出がましいのですが、いくつか順不同での感想を申し上げます。

◇全体について。
検定がついた箇所というのは、もともと非常にむずかしい、議論の分かれる部分をテーマとして扱っています(当然です。だから検定の対象になってしまうわけです)。したがって、どっちが正しいか、正しくないかを議論しても、検定制度の是非とは離れていってしまう可能性が大きいです。たとえば、今回安住さんがご指摘になった原発に関する検定意見は、私は、しごくまっとうだと感じました。だからといって、検定「制度」に賛成かというと、それはまた別の話です。繰り返しですが、個別の検定意見について賛否を問うことと、検定制度の是非は全く別モノです。

◇記事の個別の部分について。
統計の数字から見ると、風力や地熱、太陽光などを利用した自然エネルギー(代替エネルギー)の需要全体に占める割合は0.3%です。この代替エネルギーを増やしていくことの重要性を指摘することは教科書として真っ当だと思いますが、それが即、約3割を占める原発の役割を減じる、「脱原発」という表現になっていいのかどうか。「脱化石燃料」の意味もあるわけです。私は、教科書会社のオリジナルの表記では、ある政治的方向性を強調し過ぎであって、改変された表記の方がベターだと感じました。

調査官が自然エネルギー好きか嫌いかはあまり関係ないと思います。たとえ自然エネルギー好きであっても、それが即、原発代替になるかどうかが世界的なミリオンダラー・クエスチョンなのであって、そういう結論の出ていない議論について、ひとつの側の意見を中学の教科書に記載するのはどうなのか。それは問題だと思う人たちは、「だから、検定制度はあった方がいい」と感じると思います。

◇結論部分について。
たしかに、「検定」と「検閲」の違いについては興味のあるところです。今まで教科書検定制度が憲法との関連で議論された歴史はあるのでしょうか。あるのでしたら、そこでどのような議論がなされたのか、記事内で紹介して欲しいと思います。ないのでしたら、なぜないのか。そこには、理屈があるのでしょうから、それを踏まえたうえで、それでも「私の指摘する、この新しい観点からすれば、やはり憲法上問題はあるのではないか」と指摘することが重要になります。

以前にも、生意気にも指摘させていただきましたが、記者は専門家ではありません。平野なり、安住さんなりが、ふと疑問に思うことぐらい、過去から現在に至る世の中の賢人の方たちはもうとっくに疑問を感じていて、何らかの動きを見せていて当然だ、ぐらいに想定する必要があります。ここでもそうです。「教科書検定は検閲じゃないのか、憲法違反じゃないのか」という安住さんのご意見と同じ意見を持たれた方は、大勢いたはずです。その人たちのこれまでのご議論がどうだったのか、それを踏まえたうえで、安住さんの結論をご指摘にならないと、新しい付加価値部分(=ニュース)が生じないと思います。

長々、失礼いたしましたが、ご検討いただければ幸甚です。

平野拝

 

〔検定官平野さんへ〕

平野さん、記者の意見を「記者個人の意見として」掲載することが、できないのでしょうか。【編集者の意見に合わないと、掲載されない】のでしょうか?

あなたの立場は、検定官と同じですね。自分が納得できないものは出したくない、という。

「検定の実例」を、提示して、記者の考えは考えとして提示して、それを読んださまざまな読者が、さまざまなコメントを書き込む。それが、双方向の市民メディア機能なのではないでしょうか?

たとえば、「死刑」の問題も、そうですね。亀井さんの意見は、平野さんが同意できるから掲載したのですか?同意しようがしまいが、一つの問題提起として、掲載しているのではありませんか?

過去に掲載された記事は、すべて、編集者が内容に納得したから掲載されたのですか?

編集者の中にも、さまざまな考えがあるはずですね。誰かが統一的に【検閲】しているのですか?

オーマイニュースとは、そういうメディアなのですか?

 

〔編集部から記者へのメール2〕

安住さま
 
おつかれさまでございます。昨今は「編集=検閲」と見られる方が多いので、ご批判は甘んじて受け入れましょう。

ニュースメディアとして記事品質を一定以上に管理したい編集部としては、なんでもかんでも載せたくはないと考えております。
 
とくに、前回(平野注。10月16日付「教科書検定制度への沖縄の怒り」掲載前のやりとり)と同じ繰り返しになりますが、何かを批判するときこそ、普段以上に十二分に、かつ慎重に、取材したうえで、言葉を抑制的に使いたいと常々考えております。記者個人の思いつきのみで「憲法違反だ」と声高に言わせてしまうサイトだと思われたくありません。
 
当サイトとしては、記者が意見を発することを決して排除しておりませんが、記者自身の意見の公表の場というよりは、読者の意見形成に資する情報・ファクト提供の場にしたいと常々考えております。安住さんが「憲法違反だ」と叫ぶのではなく、読者に「これは確かに憲法違反かもしれないね」と思わせるような、ファクトを提供して欲しいとお願いしております。
 
安住さんの当記事を弊サイトでは掲載するにあたって、いくつかのオプションを考えたいと思います。
 
1.編集部の手を全く経ないで、ニュースのタネに掲載する。
2.正式記事の場所に置きますが、文頭に、編集部注として、この記事は、安住さんが「編集部の手直しは検閲だ」と言って、編集を拒否されたことを明記する。かつ、記事末尾に、私から安住さんに出した注文のメールも、合わせて掲載する。これは、編集部として、記事品質向上に努力しているという姿勢を、読者と市民記者の方に周知するためです。
 
これでいかがでしょうか。ご検討ください。
 
平野日出木拝
(オーマイニュース編集)

 

〔平野さん、言葉遣いは正確に。〕

>安住さんが「編集部の手直しは検閲だ」と言って、編集を拒否された

これは不正確です。私は「編集の一切を拒否した」ことはないし、そうも要求していません。

「記者のスタンスに編集者が同意できない場合に、内容の手直しを要求する」のは、編集者による「検閲」のようなものではないのか?と疑問を呈しているのです。

「検定官平野さんへ」というメールで私が書いた疑問を、そのまま載せてくれますか?

オーマイニュースとは、どんな機能を持ったメディアなのか、という本質的な問題提起なのです。

**********

あなたは、私のこの記事を、【教科書会社の元の文が「正しい」か、検定意見後の修正文が「正しい」か、自分としては、修正後のほうが妥当だと思う】、とおっしゃっていますね。

そういう問題ではないのです。★「どっちが正しいか、妥当か」ということではないのです。

そもそも「国家権力」が、誰かが出版しようとしているものに「注文をつける」、そのこと自体が問題だ、と言っているのです。それが、憲法が禁じている「検閲」というものではないか?と疑問を呈しているのです。

「家永裁判」と、基本的に同じ問題提起です。最高裁は、結論を出しましたが、法理論的には、複雑です。おおいに議論すべきことです。

憲法で禁じている「出版の自由への侵害」である「検閲」が、なぜ、「教科書には適法」なのか????????という、根本的な問題なのです。

★その議論を、あなたは、自分の主観で、封じようとしているのですよ。分かっていますか?

あなたは「国家権力」ではないから、「編集者の権利?と義務?」として、記者のスタンスに注文をつけたとしても、それは正確には「検閲」ではありません。

だから、安住が「編集は検閲だ」と言った、などと書いてもらっては困ります。

編集者が、執筆者のスタンスに注文をつけるのが「当然の権利」だと思っているところが、その「無意識」が、その「傲慢さ」が、「教科書検定官と同じだ」と、私は言うのです。

元木さんの「編集長就任挨拶」の記事に、私の意見は書き込みました。多くの市民記者が同様の意見でした。しかし、元木さんは、完全に無視しました。その不遜さで、多くの常連記者が【やる気】をなくしました。

商業週刊誌、と、市民メディアは、まったく別の機能をもつものだ、ということを、ぜんぜん理解していませんね。

市民メディアには、いつどんな原稿が来るか、予想はつきません。「週刊金曜日」のような記事や、「正論」のような記事が、まぜこぜで飛び込んできても、おおように受け止めて、誤字や、事実として間違っているところや、日本語としてどうしてもおかしいところなど【だけ】を手直しして、当人に提示した上で、掲載し、その内容についての【判断】【評価】は、さまざまな読者が下す。そして、双方向のやり取りが始まる。そのための【掲示板】でしょう。

これこそが、既存メディアに無い最大の特徴ではありませんか。

未熟な論理は叩かれるでしょう。それで、本人も学ぶし、読者も学ぶ。良い記事が出れば、それをお手本として、がんばろうと奮起する。

OMNのなかに【お手本】のような記事が少なくても、世間には、お手本になるものがいくらでもあります。OMNは、修行の【道場】のようなものではありませんか?

この【道場】には、一定の「スタイル」があってはならないのです。最小限の「ルール」が、規定に書かれていますね。それに触れない限り、「フリースタイル」で、書いて、読んで、記者たち自ら、互いに学びあっていくのです。

編集部は、それを見守って、「反則」行為だけに注意すればいいのです。「価値観の多様さ」は、守られなければなりません。

編集者が、「そのスタイルは、自分の好みではない」とか、「それでは脇が甘すぎるから叩かれる」とか言うのは、いらぬお世話ではないでしょうか。

OMN編集部は、掲載記事の未熟さを「編集部の恥」と考えるとしたら、それは間違いです。シロートが書くのですから、未熟なものがあっても当然です。既存の商業メディアとは、まったく違うのです。

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