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企画特集

開設記念特集 記者は見た世紀の事件

第17回 連続企業爆破事件 1974年(昭和49年)8月30日 (1/4ページ)

福井惇(当時警視庁キャップ)

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 9・11米中枢同時テロ、巨大ビルが崩壊する映像を目にする度、私は33年前、東京・丸の内で、白昼起きた三菱重工爆破事件の大惨事を想い出す。

 昭和49年(74年)8月30日、午後零時40分、「ド、ドーン」と突き上げられるような衝撃、旧警視庁の5階建てビルが大きく揺れた。

 同庁3階にある記者クラブ産経ボックスは、常時10人の記者が詰めているが、夕刊締め切り直前の時間帯でそれぞれ担当部に出払い私独りだった。「重工あたりで爆発がありホトケさんがゴロゴロの通報があり、鑑識に便乗して現場に行きます」と捜一担当のM。その直後、「爆弾テロらしいと、馬小屋が大騒ぎしています」と公安、警備担当のH。馬小屋というのは、かつて警視庁の地下に騎馬隊の馬小屋があり後改修して公安部のデカの大部屋になったのが由来らしい。

 予告電話、爆弾の規模が大きいことから過激派による爆弾テロの公算大と原稿を叩き込み、私も現場に走った。気温30度、湿度76%の日比谷通りを横切り、仲町通りに入って驚いた。

三菱重工爆破事件の現場。爆破で大破した車=1974年、東京・丸の内三菱重工爆破事件の現場。爆破で大破した車=1974年、東京・丸の内クリックで拡大

 東京駅方向から強い火薬の臭い。首と腕から血を流し、白いワンピースを真っ赤にして、これも足から血を流しハンカチで結わえた若いOL2人が肩を寄せ合いよろけるように歩いてくるのに出会った。

 三菱重工本社の方向に目をやると、ガラスを砕いて敷き詰めたような道路にうずくまり動けない人、折り重なって起きあがれない人。重工玄関前にはボンネットがひん曲がった乗用車数台が、歩道に乗り上げ傾いている。あちこちに毛布が被せて あるのは遺体だろう。顔見知りのデカが道路に4体、中に3体と教えてくれた(病院搬送後死亡1人)。事件発生約1時間経過してるのにこの惨状。爆発物はダイナマイト500本分と推定、重工を中心に200メートル4方のビルの窓ガラスは1階から10階まで全て破壊、ガラス片が集中豪雨のように降り被害を大きくした。

 死者8人、重軽傷376人。

 これより3年前、昭和46年は日本全国で手作り爆弾事件が多発した。第2の爆弾闘争の幕開けであった。

 9月末、「東アジア反日武装戦線 狼」が犯行声明、10月に入り、三井物産、大成建設、鹿島建設、間組と翌年にかけて「狼」「大地の牙」「さそり」が11件の爆弾事件を起こし、捜査本部が新たに8つ設けられた。

 デカも記者も休みが吹っ飛んでしまった。当時の産経警視庁の記者は特ダネが生き甲斐という連中ばかり。爆弾容器、時限装置など「もの」の捜査は殆ど産経の特ダネ、犯人が書いた「腹腹時計」をいち早く手に入れ、アナキストグループを秘かに追い、捜査本部とは別個に「裏本部」のあることまでも突き止めていた。

 5月の連休明け裏本部のデカの動きが急になり、逮捕は秒読みに入った。5月18日、最後のツメと言うより産経が報道に踏み切るので警視庁に通告する意味もあって、夜遅く私は土田警視総監にお目にかかり、「犯人逮捕の原稿出しました」と過去形で伝えた。

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