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育児ネット
お産(連載)

ひずむ現場から(1)格差の果て「墜落出産」

◆19歳、夫は失業中、生活保護・・・
 陣痛室に1人・・・「生まれてるわ」


「墜落出産」と記された母子手帳。女性は、赤ちゃんをあやしながら「何でこんな目にあったのか」とつぶやいた

 産婦人科の医師不足が進む中で、妊婦たち、家族たち、医師たちの悲鳴が聞こえる。社会に広がる「格差」が、お産の現場を蝕(むしば)み始めている。都会で、地方で――。その〈ひずみ〉を報告する。

(社会部・古岡三枝子、写真部・工藤菜穂)

 惨めで孤独な初産だった。病院の陣痛室。19歳の女性は、一人、壁に手をついて体を支え、立ったままの姿勢で、硬い床の上に、赤ちゃんを産み落とした。

 「何で泣かへんのやろ。死んだんちゃう」。涙がボロボロ出てきた。だが、気持ちを奮い立たせた。「私、お母さんになったんやから」。腰をゆっくりとかがめ、へその緒がついた赤ちゃんを床から、すくい上げた。顔の高さまで持ち上げると、産声を上げた。

 やがて、慌ただしい足音。そして、看護師の声が聞こえた。「生まれてるわ」

 大阪市内の民間病院。女性は、通院中から、疎外感を覚えていた。

 母はアジア系外国人。10代の出産。夫は失業中。生活保護を受け、出産費用が無料になる、助産制度を利用しての出産だった。「だからか」と思ってしまう。「看護師は、ほかの人には丁寧な言葉遣いだったが、私にはそうでなかった」

 入院したのは7月中旬の夕方。分娩(ぶんべん)室の隣にある陣痛室で休んでいたが、深夜、トイレに立ち、破水した。自力でベッドに上がれず、立ったままでナースコールを押した。もう、頭が出かかっていた。だが、様子を見に来た看護師は、よく確認せず、「気のせい」と言い残し、部屋を出ていったという。

 「このままやったら赤ちゃんの頭が圧迫されて、呼吸もできへんかもしれん」

 どうしたらいいのかわからなかったが、3回ほどいきむと、下着に引っかかった。もう一度、ナースコールを押そうと体を少し動かした瞬間だった。赤ちゃんが、頭から床に落ちた。

 「何で、こんなことになったんや」。病院に駆けつけた女性の母親は、看護師らに激しく詰め寄った。

 墜落出産。母子手帳の特記事項にそう記された。

 この女性を知る、別の病院に勤務する助産師は、「病院への搬送が間に合わず、自宅や救急車の中で起きることはたまにあるが、まさか、病院の中でとは……」と憤る。

 当時、医師2人は手術中で、助産師は授乳中、産婦人科の看護師は、手術室や病棟を行き来していた。

 看護師が、確認しなかったのか。「気のせい」と言ったのか。女性と病院側には、見解の相違がある。

 「外科系の看護師が対応したが、まだ、生まれる様子はなかった。ただ、予期せぬ速さで出産が進み、結果的に赤ちゃんが床に落ち、苦痛を与えたことについては謝罪した。3歳になるまでの無料検診を提案している」と病院側は説明する。

 「疎外感」については、「助産制度を使う人への差別は絶対ない」とする。だが、その一方で、来年4月からは、助産制度の取り扱いをやめるのだと言う。

 「昨年から検討してきたこと。事前に妊婦検診を受けず、陣痛が起きてから突然やって来たり、大声を出したり。ルールを守らない人が多くリスクが高い」。事務長は、「助産制度を扱う病院は、減ってきているのですよ」と、話した。

 東京。聖路加国際病院(中央区)。産婦人科医17人、助産師33人という手厚いスタッフ、NICU(新生児集中治療室)や、ホテル並みの個室を備える。安全、快適に出産できる環境が人気で、愛育病院(港区)、山王病院(同)と共に、「御三家」とも称される。

 ここで出産にかかる費用は約90万円。40万円前後とされる平均的な費用の2倍以上だが、分娩件数は増加傾向だ。佐藤孝道・女性総合診療部長は、「少子化で、出産は一生に1度という人も多い。質を求められる方が増えている。私たちは金額に見合った医療を提供できていると思っていますよ」と言う。

 出産時の安全管理に詳しい日本赤十字看護大学の谷津裕子助教授(助産学)は、「本当は、どの病院でも安心、安全な医療を受けられなくてはならない。しかし、今、産婦人科医師が不足する中で、スタッフの技量や質など、病院の『体力』の差が、ケアの差となり、様々な事故につながっている」と指摘する。

 お産の質の格差。ひずみは、助産制度の“締め出し”として、所得格差の底辺に広がり始めている。

 「こんな、つらい思いをしないとお母さんになれへんの」。墜落出産を経験した女性は、赤ちゃんをあやしながら、今も、情けない思いでいっぱいになる。

2006年11月19日  読売新聞)
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