人間には、「インプット」と「アウトプット」がある。
「インプット」というのは、なにかを読んだり、いろいろな経験をしてなにかをわかったり感じたりすることだ。「アウトプット」というのは、文章を書いたり、写真を撮ったりする、要するに「表現」のことだ。もちろん、しゃべることもそのうちだし、赤ん坊が親を求めて泣くのも「表現」だ。
どうも、人間ってのは、この「インプット」と「アウトプット」のバランスがとれていないと、精神的な均衡が保てない生き物なのではないか、と思う。人とかかわる、ということは、要するにこの「インプット」と「アウトプット」の繰り返しなんだな。つまり、この均衡が保てない、ということは、社会生活に支障が出る、というこことだ。生きていくことが辛くなったりするのは、このためだ。
でも、人間社会での「表現」の多くは、文章を書くにしろしゃべるにしろ、「訓練」が必要だ。「感じる」ことは誰でもできる。「理解すること、納得するこ と」は、少々の訓練をつめばなんとかできる。でも、「表現」は、なにかと訓練する必要がある。特に文章を書く、なんてのは、その筆頭だ。だから、文章を書 いて人に自分の意見を言う、なんてことは、けっこう訓練が必要なことなんだな。
ということは、オーマイニュースで木舟記者が「新人が増えず、顔ぶれが常連ばかりになっている」と言っているのは、頷ける。それだけ「書ける人」「書く意欲を保てる人」が、この 日本の中にはそんなに多くない、ということだ。
「訓練」をする場を提供することから、市民記者を育てる必要がある。だから、いろいろなイベントをオーマイニュースもやっている。でも「書く人」は増えない。本当は「表現する訓練」はかなり小さいときから行わなければならないのに、日本の教育は「自分を表現する」学習があまり重要視されてこなかった、という理由が大きいのじゃないかな?とぼくは思う。
日本の初等、中等教育は、それこそ物言わずもくもくと働く工場労働者を作るためのものだったのだから、それは当然かも知れない。
まずは「市民」そのものが育つことが、やっぱり必要なんだろう。
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