東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社説・コラム > 社説一覧 > 記事

ここから本文

【社説】

『法の日』 法相の認識が足りない

2007年10月1日

 きょうの「法の日」は、法律により社会を動かしていく「法の支配」の確立をめざし制定された。そのための重い責任を負っている法相の「署名なし死刑執行」などの思いつき発言は弊害が大きい。

 法相は司法制度の設計や法執行の最高責任者として、重い役割を負っている。それなのに、「法相の署名がなくても死刑執行できる方法を考えてはどうか」という鳩山邦夫法相の発言は軽すぎないか。

 新内閣で再任後の会見でトーンが落ちたとはいえ、「勉強会を開きたい」「つらい」などという言葉を用いて、その認識を述べた。

 刑事訴訟法に「死刑の執行は、法務大臣の命令による」と明記してある。その命令が出ないうちに、死刑囚再審事件で四件の無罪判決が言い渡された歴史がある。

 法執行の最高責任者たる法相が、最終的な判断をする責任を負いたくないというのなら、いったい誰が責任を負うというのか。そのポストの重さを認識しないで、思いつきでものを言っているなら残念だ。

 心から罪を悔いている死刑囚はいる。そして常に死という恐怖と直面している。死刑執行までは生きている人間なのである。まるで機械的な執行システムを導入しようという発想自体が、人権感覚を疑わせる。

 問題発言はまだある。

 司法試験合格者数を政府は二〇一〇年までに、毎年三千人とする方針を打ち出している。それを法相は「ちょっと多すぎる」と疑問をはさんだ。私見とはいえ、司法制度改革審議会で慎重な議論を重ねた経過を十分考えての発言とは思えない。

 弁護士が企業や団体、役所など社会の隅々で活動し、法律に基づく処理をするには、最終的に三千人という数が必要とされたのである。その理解が足りない。

 法科大学院についても「質的低下を招く可能性がある」と言った。ガリ勉型でない、多様な分野からの人材登用で、複雑な社会現象に柔軟に対応できる。それが法科大学院の狙いで、淘汰(とうた)は実績に任せればよい。

 「法の支配」という言葉は、たんに法に従う意味だけでなく、法律という明確な「物差し」で、紛争の未然防止や紛争の解決をすることだ。「物差し」を正しく使える人が多いことは、社会にとって歓迎すべきである。

 裁判員制度は司法制度改革の中核である。裁判員となる市民にも法に対する理解が求められるが、法相こそ評論家風の言説をちらつかせず、自らの職責の自覚と、あるべき司法の姿を勉強すべきだ。

 

この記事を印刷する