2017年は任天堂にとって記念すべき年だ。1889年に創業した同社は玩具などの娯楽品を製造する老舗企業で、主に花札やトランプで知られていた。任天堂がビデオゲーム業界へ足を踏み入れるのはそのずっと後で、1977年に初めて家庭用ビデオゲーム機「カラーテレビゲーム15」と「カラーテレビゲーム6」を発売した。同年に、後に"任天堂の顔"となるクリエイターの宮本茂氏が入社している。世界から愛されるゲーム会社としての基礎が築かれたのは、今からちょうど40年前だったのだ。任天堂の歴代ハードを下のギャラリーから確認しよう。

1983年にファミリーコンピューターを発売してから、任天堂は90年代後半までゲーム業界の絶対的王者として君臨し、その後も世界が最も注目するゲーム会社の1つであり続けている。任天堂は――特に故岩田聡氏が社長に就任してから――良くも悪くも"期待を裏切る会社"としてのイメージが強くなり、ソニーやマイクロソフトといった競合と一線を画すコンセプトを発案・提供している。その戦略は2006年に発売したWiiで大成功したが、2012年のWii Uは残念ながらこの流れを継続させることができなかった。

そして、Wii Uの発売から4年、任天堂は3月3日に新しいゲーム機Nintendo Switchを発売する。これを記念に、任天堂のゲーム会社としてのこれまでの歩みを、国際色豊かなIGN JAPANスタッフの感想を交えながら振り返ってみたいと思う。本稿ではファミリーコンピュータ以降の任天堂による据え置き型ゲーム機と携帯ゲーム機を取り上げていく。なお、ファミリーコンピュータディスクシステム、ゲームボーイカラー、Newニンテンドー3DSといった既存のゲームプラットフォームの拡張版を省かせることにした。

ファミリーコンピュータ (1983年7月15日発売、売上台数約6191万台)

「ファミコンの前にはすでに家庭用ゲーム機があった」――古参のゲーマーがよく言う言葉だ。確かにファミコンは世界初のコンシューマゲーム機ではないし、私もより古いコンソールを知っている。だが、ファミコンは決定的に、家庭用ゲームをピンチから救って変革を起こした。北米における家庭用ゲームの売上が以前の数十分の一まで落ち込んだという1980年代前半のアタリショックの轍を踏まないように、任天堂はサードパーティのソフトを歓迎し、ファミコンの時代を築き上げ、家庭用ゲームの文化を定着させた。ファミコンは海外でも大ヒットを飛ばし、国境を越えて当時の子供の集合的記憶となった。

私の出身地・香港では日本版のファミコンと欧米版のNESの両方が流行し、筐体の色からそれぞれ「紅白機」と「灰機」という愛称が付いたが、2つを合わせて「任天堂」と呼ばれた。ファミコンは任天堂の業界での地位を確固たるものにし、ゲームの代名詞として世界に「Nintendo」の名を轟かせ、無数のゲーマーを量産し、さらに他の企業にゲーム機業界参入のきっかけを作った。

カセット式の筐体と2つのボタン+十字キーのコントローラーはシンプルなデザインを貫き、時代を超越する美学を感じさせる。CPUやサウンドは今と比べて原始的なものだが、「ドラクエ」や「FF」、「マリオブラザーズ」に「ゼルダ」など、数え切れないほどの名作シリーズがファミコンでその歴史が始まったことを考えると、最高のソフトを実現させる十分な性能があった。今でも紅白機の2Pコントローラーでマイクを面白おかしく遊んだ微笑ましい記憶が鮮明に残っている。 -歐陽宇亮

ゲームボーイ (1989年4月21日発売、売上台数約1億1869万台*GBC含む)

ゲームギアの電池が切れたときは(つまりはいつも)次は姉ちゃんのゲームボーイが目当てとなった。緑色がかったモノクロの画面で延々と「テトリス」や「スーパーマリオランド」に夢中になり、後者は弟が生まれるときにプレイしていた記憶がある。ゲームボーイは「ポケットモンスター」が初めて日の目を見たゲーム機であることも忘れてはいけない。

ゲームを差し込んで簡単操作ですぐにプレイできるという据え置き型ゲーム機のエッセンスを見事にポータブル化したゲームボーイは、セガボーイだった僕でさえも喉から手が出るほど欲しくなった。ちなみに僕以外にも、1億1869万もの人がゲームボーイ(GBポケット、GBライト、GBC含む)を買い、任天堂は携帯ゲーム機市場のリーダーとなり、今に至る。ソニーやマイクロソフトは今でこそハードのバージョンアップを発売しているが、任天堂はこれを20年以上も前から先行してゲームボーイでやっていたのだ。-ダニエル・ロブソン

スーパーファミコン (1990年11月21日発売、売上台数約4910万台)

スーパーファミコンはあらゆる意味でファミリーコンピュータの完璧なアップグレードであったように思える。8bitから16bitになったCPU、2つのボタンから6つのボタン(スタートとセレクトを除く)に一気に増えたコントローラ、4チャンネルから8チャンネルに増えた音源。PCエンジンやメガドライブといった他の16bit機には遅れを取ることになったが、ファミリーコンピュータで蓄積した開発ノウハウ、流通網、ソフトラインナップを武器に王者のごとく君臨したのは否定しようがない。

また当時の日本は「ドラゴンクエスト」シリーズによって一気にRPGが普及。同時に「ファイナルファンタジー」、「ロマンシング・サガ」などエニックスと合併するスクウェアの黄金時代でもあった。RPGブームはその後の日本のゲーム産業に大きく影響を与え、家庭用ゲーム機はソロプレイに偏重するきっかけにもなったが、当時のスーパーファミコンには「マリオカート」や良移植の「ストリートファイターⅡ」といった対戦ゲームの名作も多かったことを忘れてはいけない。-今井晋

VIRTUAL BOY (1995年7月21日発売、売上台数約77万台)

バーチャルボーイが発表された当時、ゲームの世界を大きく揺らめかせた。VRを使ったコンシューマ向けゲーム機といったものは、ほとんど前例がなかったからだ。もちろん、今のPS VRとはまったく異なるレベルのものであり、比較するわけにはいかない。だが、当時のゲーマーに立体視ができるヘッドセット型のゲーム機というコンセプトは様々な意味で衝撃的であっただろう。

赤と黒しか色が表現できないそのマシーンは明らかに魅力に欠く部分はあったが、個人的には楽しかった。学校が終わるとすぐに家に帰って「ワリオランド」、「マリオテニス」、「レッドアラーム」といったゲームをバーチャルボーイの世界に入り込み楽しんだ記憶がある。「ワリオランド」は特にバーチャルな印象は薄く、3DSの3D機能程度のフィーチャーしかなかった。しかし、「レッドアラーム」は当時でもバーチャルリアリティの可能性を感じさせる名作だ。任天堂64の「スターフォックス」のようなシューターは赤と黒の美しいワイヤーフレームで素晴らしい3D空間を表現しており、異世界を探索する楽しさを提供してくれた。今プレイしても楽しめるタイトルだ。-デモントリシャート俊

NINTENDO 64 (1996年6月23日発売、売上台数約3293万台)

ゲーム機の第5世代から、それまでは絶対的王者だった任天堂は苦労するようになった。バーチャルボーイが失敗した後、1996年にニンテンドー64という64ビットCPUを搭載したゲーム機を出した。だが、この時はゲーム業界に新たに参戦したソニーがすでにかなりのマーケットシェアを獲得していた。ほとんどのサードパーティーはPlayStationでゲームソフトを出すようになったが、より大容量のゲームが作れるCD-ROMを採用していてることも大きな理由だった。任天堂はソニーにかなわなかった。

だが、振り返ってみると第5世代を代表するゲームの多くはニンテンドー64のタイトルだった。タイトルは非常に少なかったが、任天堂はファーストパーティとレア社によるゲームだけでニンテンドー64を名機に仕上げた。「スーパーマリオ64」ほど素晴らしい出来のローンチタイトルはめったにお目にかかれないし、初めての本格的な3Dアクションゲームとしては信じられないほどの品質だった。1998年に発売した「ゼルダの伝説 時のオカリナ」は総じてゲーム史上最も高い評価を受けたゲームタイトルであり、その後の3Dアクションアドベンチャーの基礎を作ったと言っても過言ではない。レア社の「バンジョーとカズーイの大冒険」は3Dプラットフォーマーの1つのスタンダードとなり、「007 ゴールデンアイ」は据え置き型ゲーム機でやるFPSの可能性を示した。

僕自身は「ゼルダ」や「マリオ」をやり込んだ記憶はもちろん、「大乱闘スマッシュブラザーズ」や「マリオパーティ」で友達と遊び、泣いたり怒ったり笑ったりした思い出が数多い。-クラベ・エスラ

ゲームボーイアドバンス (2001年3月21日発売、売上台数約8151万台)

残念ながら筆者はゲームボーイアドバイスがローンチした頃の記憶はほとんどない。というのも、筆者が成長するとともにゲームボーイのタイトルは子供向けのものが増え、コンソールやPCといったプラットフォームよりも魅力を感じられなくなったからだ。

ところが友人の結婚式のビンゴ大会でファミコンカラーのゲームボーイアドバンスSPをゲットした私は、このハードの魅力に取り憑かれた。コンパクトながらも高級感がある本体。押しやすい十字キーと必要最小限のボタン。素晴らしいバッテリー維持時間。実家に帰省するときはいつもコイツをポケットに忍ばせ、青春18切符の鈍行の旅路で大好きなファイアーエンブレムシリーズをプレイしたのが懐かしい。ゲームボーイとの互換性もあり、これまた大好きなサガシリーズもプレイし直した。また16bitのドット絵表現はこの時代に爛熟期に到達し、アナログとデジタルを併せ持つ音源はチップチューンとその後のゲーム音楽を並列に楽しむ美学を生んだように思える。

今でも「Owlboy」のようなレトロな雰囲気のインディーゲームが登場するたびに、ゲームボーイアドバイスでプレイできたらどんなに素敵なんだろうと感じるのだ。-今井晋

ゲームキューブ (2001年9月14日発売、売上台数約2174万台)

任天堂にとって、ニンテンドーゲームキューブというゲーム機は自分探しの旅に近いものだったのではないだろうか。ゲーム市場が伸び悩み、一昔前まで最大のライバルだったセガはハード販売から撤退した。代わりにソニーやマイクロソフトといった超大手とやり合わなくてはならない任天堂はかなり追い込まれていた。ただいつものように「マリオ」や「ゼルダ」の新作を出すだけではもう振り向いてもらえないだろう。ゲームキューブのローンチタイトルに両者は不在で、代わりにルイージが主人公となったホラーゲーム「ルイージマンション」が発売された。

後に発売した「スーパーマリオ サンシャイン」や「ゼルダの伝説 風のタクト」はファンが期待した”王道”とはいささか違う内容で、任天堂は明らかに新しい何かを必死にやろうとしていた。これらのゲームはどれも素晴らしい出来だったし、僕も初めて「ゼルダの伝説 風のタクト」をプレイしたときの感動を永遠に忘れることはないと思う。だが、結論から言うと、任天堂はソニーやマイクロソフトの圧倒的な力に押し切られた。

「大乱闘スマッシュブラザーズDX」の販売本数が700万本を突破するなど、任天堂がゲームキューブで大赤字になった事実はなく、むしろビジネスとして収益はあった。だが、ゲーム業界の絶対王者としての姿と照らし合わせると、どうしても寂しい印象は否めない。だがしかし、任天堂はまだ終わってなどいなかった……。-クラベ・エスラ

DS(2004年12月2日発売、売上台数約1億5402万台*全タイプ含む)

様々な革命の詰まった携帯ゲーム機であるニンテンドーDSはゲームボーイアドバンスの非常に優秀な後継者で、全世界で1億5400万台以上の販売本数を記録した。iPhoneが世界を席巻する3年前、DSはタッチスクリーンでのゲームという新しいコンセプトを普及させた。カジュアル層に大ヒットした「Nintendogs」が代表作として挙げられる。

DSからはじまったタッチスクリーンの大革命は今でも続いている。DSの2面スクリーンは遊びの幅を(文字通り)さらに拡張させ、折りたたみ式にすることで便利に持ち運べるようになっている。無線LANでのローカル対戦も可能となり「マリオカートDS」でマルチプレイを楽しんだ人も多いだろう。「Newスーパーマリオブラザーズ」は3000万本を突破した大ヒット作となったが、「さわる メイドインワリオ」や「アナザーコード 2つの記憶」といったDSの特徴をうまく活かした独創的なタイトルも忘れてはいけない。デザインのダサかった初代DSはDSiやDSi XLでスマートでカッコよくなり、デザインのベースは3DSも引き継いでいる。-ダニエル・ロブソン

Wii (2006年12月2日発売、売上台数約1億163万台)

自分のお母さんまで買ったゲーム機はそうそうない。社会現象にまでなったWiiは2006年の年末に発売して、世界を席巻した。そのブームに終わりはあったけれど。任天堂はホリデーシーズンの想像を超える需要に答えるのに苦労した。とにかく、誰もがモーションコントロールを振ってWiiでスポーツがしたくてたまらなかったのだ。

「Wii Sports」の売上本数は史上最多になり、8300万本という驚異の本数が販売された。その翌年はWiiバランスボードという新しい周辺機器を用いるフィットネスゲーム「Wii Fit」がゲーマーにもそうでない人にもいい運動を与えた(僕のかあちゃんもその一人)。

「スーパーマリオカートWii」も大ヒットし、されには「スーパーマリオギャラクシー」の2部作、そして愛される「ゼルダの伝説」シリーズも「トワイライトプリンセス」と「スカイウォードソード」の2作が発売された。だが、サードパーティタイトルの売上は今ひとつで、Wiiの売上げランキングTop 20にはわずか2本のサードパーティタイトルしかない。まあ、「No More Heroes」といった名作を買ってくれるお母さんはどこにもいないから仕方ないだろう。-ダニエル・ロブソン

3DS (2011年2月26日発売、売上台数約6382万台)

DSでカジュアル層を獲得した任天堂は、その後継機に当たる3DSで引き続き幅広いターゲットを目指し続けた。唯一のファーストパーティによるローンチタイトルが「nintendogs + cats」だったことからもそれはわかる。だが、任天堂はスマートフォンの普及を甘く見ていたようだ。カジュアル層はスマートフォンでできるゲーム体験に満足し、ゲーム専用のデバイスを持ち歩かなくなった。

2万5000円と携帯ゲーム機としては高い価格やローンチ後からソフト不足がしばらく続いていたこともあり、ゲーマーからの食いつきも今一つだった。そして、任天堂は異例と言っても良い行動をとることになった。ソフトが発売してから1年もしないうちに、大幅な値下げを行い、新価格が1万5000円になった。早期購入者には「アンバサダー・プログラム」という謝罪を込めたサービスが与えられ、特定のバーチャルコンソールゲームを20タイトル無料で提供された。この時期から徐々にソフトの本数も増え、国内では「とびだせ どうぶつの森」の大ヒットをきっかけに売れ行きがよくなり、海外では「マリオカート7」が同様の影響を与えた。3DSはサードパーティーの支持率も非常に高く、「モンスターハンター」のように既存の人気フランチャイズだけでなく、「妖怪ウォッチ」のように新たに開花したゲームもあり、非常にバランスの良い携帯ゲーム機といえる。

個人的には「ゼルダの伝説 神々のトライフォース2」が据え置き・携帯ゲーム機問わず、2010年代に入ってからの最高傑作という考えだ。ークラベ・エスラ

Wii U (2012年12月8日発売、売上台数約1336万倍)

WiiUは、「ゼノブレイドクロス」の為だけに買ったようなものだが、同じ年に「スプラトゥーン」や「幻想異聞録♯FE」などの傑作も生まれた。
振り返れば「ベヨネッタ 2」や「ワンダフル 101」、リマスターではあるが「ゼルダの伝説」もあり数こそ少ないながらもタイトルの質には恵まれていた。


特に海外のサードパーティータイトルが不足していたので、国産タイトルに偏っていたが、ハリウッド映画のように洋ゲ―にスポットライトが当たる時代のなか、特別なコンソールだったように思う。ー野口広志 

「Nintendo Switchプレゼンテーション2017」に登壇した際に、高橋伸也氏はSwitchがファミコン以来の任天堂ハードのDNAを受け継いでいると発言した。ゲームキューブの本体に付いた取っ手は家の外に持ち出せるというSwitchのコンセプトを体現していたし、Joy-Conも明らかにWiiのモーションコントローラにルーツがある。3月3日に発売されるSwitchが任天堂を明るい未来に導いてくれるかどうかは時のみぞ知る。だが、本機の独自性のあるコンセプトがいかにも任天堂らしい魅力を発していることは疑いようがない。

IGN JAPANの現スタッフがおじいちゃんおばあちゃんになった遠い未来(実をいうとそこまで遠くもないが……)、任天堂がまだまだ世界を魅了する会社であり続けていることを祈って、本稿を締めくくるとしよう。