加藤尚武「臨床と予防 ― 放射線障害の認識論」に見る
「御用学者」の論理と心理
實川 幹朗
日本生命倫理学会第25回年次大会の25周年記念シンポジウム「低線量被曝と生命倫理」における、加藤尚武の発言を考察する。
福島第一原発の事故をめぐり、人びとの命と健康が脅かされている。このとき加藤尚武氏は、哲学的な手法で話題をすり替え、問い掛けを無みし、事柄のもみ消しを図った。その語りの技を解剖する。あちこちで行なわれた、これからも続くであろう権威者・専門家の誤魔化しへの免疫をもたらすべく、ここに公開する。 日本生命倫理学会第25回年次大会(<大会テーマ>死生学と生命倫理)の大会企画/25周年記念シンポジウム「低線量被曝と生命倫理」における、加藤尚武の発言を考察する。平成25年12月1日(日)10:40-12:10に東京大学本郷キャンパス法文1号館25教室にて行なわれ、平土間の参加者は私の目視・概算で百五十人ほど。すれ違いか褒めあいに終わりがちなこの手の企画だが、この度の加藤は、島薗の言挙げを見当違いと切り捨て、議論が衝突した。そこまではよい。だが、稔りある成り行きではなかった。
島薗の言い立てには、怒りと告発が含まれていた。それが、はぐらかされたのである。もちろん、怒りが常に正しいとは限らない。見当違いなら、そう言って宥めるのが筋である。だが加藤の語りは、話題をすり替えて問い掛けを無みし、人びとの命に係わる事柄のもみ消しを図ったと、私には映る。もしそうなら、哲学の濫用と言えよう。あるいは「ソフィストの復活」か。このことを以下で考えてみる。
登壇者は次の通り:
オーガナイザー:堀江 宗正(東京大学)
放射線の健康影響問題の生命倫理的な次元とその討議:島薗 進(上智大学)
臨床と予防――放射線障害の認識論:加藤 尚武(京都大学) 島薗の言い立てと加藤の受け止め シンポジウムではまず島薗が、東京電力福島第一原子力発電所の事故後に放射線の情報が隠されたり、必要な測定が行なわれず、さらには妨害されたことを述べた。原子力政策が反対派、慎重派を排除して進められてきた歴史を背景に、この事故での情報操作を生命倫理の問題と捉えたのである。
例えば、弘前大の床次教授らが2011年4月に南相馬市からの避難者と浪江町津島地区の住民計62人の甲状腺中の放射性ヨウ素を測定したが、県から止められ数測定が不十分となったこと。放射線医学総合研究所が「事故初期のヨウ素等短半減期核種による内部被ばく線量評価調査」報告書を、情報開示請求を受けるまで公表しなかったこと。周囲の放射線量の高い中での不十分な内部被曝測定を健康管理の基準に用いたこと、などが採り上げられた。
情報操作の拠り所は、被曝の実態と危険性の情報を与えれば住民の不安が高まり混乱を招くとともに、ストレスが健康を損なうとの立場であった。この典型を示すのが山下俊一(長崎大学理事兼副学長・福島県立医科大学副学長・日本甲状腺学会理事長・福島県放射線健康リスク管理アドバイザー)である。島薗は、充分な情報あってこそ落ち着いて危険に対処でき、情報の差し控えはかえって不安を強めると述べた。また、科学者が科学の名において情報を隠すのは科学者の倫理として、また公共の討議のあり方としても不適切だと批判した。
これに対し加藤は、医療における<臨床>と<予防>を対に構え、島薗の告発はこの二つを混同する的外れだと述べた。島薗の言挙げ全般が哲学用語の「カテゴリーミステイク」を、つまりものごとを捉える枠組みの混同を含み、混乱を助長する「暴露記事」の如きものだと述べたのである。
加藤のカテゴリー・ミステイク論
まず、加藤の講演の趣きをまとめておく。彼ははじめに、害を受けているがさしあたり治療の必要はない患者、とくに強い抑鬱状態に陥った患者に向かって「心配しなくてよい」と言うのは、不安を鎮めるための適切な発言だと述べた。これが<安心>を与える<臨床>の原理だという。ただし、あまりに実情から離れた情報を伝え、または大きな危険を隠すなら、患者の安全から見て許されない。
福島第一原発の事故では、放射能を浴びた福島の住民に<安心>を説いてよい理由があった。癌を誘発する放射線被曝量には閾値があるとの学説、すなわち「閾値モデル」である。一定量以下の被曝は癌を誘発しないとの説には合理性がある。生体の自己保存力を考慮すれば、物理的な変化は生体の被害に直線的には連動しない。近ごろでは、この向きが科学全体の趨勢でもある。
これに対し、放射線被曝に安全な量はないとの「閾値無しモデル」がある。「国際X線およびラジウム防護委員会(ICRP)」が1949年に勧告し、多くの他の国際機関も追認した。事故への東京電力、政府の対応を批判する人びとはこれを用いる。しかし、これを<臨床>の基準とするには問題がある。低線量被曝による影響の実態が分からないため、公衆衛生上の安全に配慮した暫定基準だからである。すなわち<予防>医学の目安なので、<臨床>でこの基準を用いなくとも非難はできない。「閾値無しモデル」を支持する人びとは、<臨床>と<予防>の区別なく、どこでもこれを当てはめようとする。これがカテゴリー・ミステイク(category misitake)である。
「閾値無しモデル」は、原因となる物理的要因が増大すれば結果も比例するとの仮定から作られている。生体の働きは化学反応に他ならず、化学反応は物理現象に還元できるとの「物理学主義」が、二十世紀の半ば過ぎまでは力を持っていた。「閾値無しモデル」はこの流れを汲み、複雑系としての生体の要因を考慮できていない。
現在も主流を占める分子生物学は、物理学主義の許で育った。しかしながら、その記念碑的成果たるDNAの構造解明よりこの方、生物学の趨勢は物理学主義から離れたのである。単純な物理化学的条件と生物の複雑さとの間には、他方に還元不可能な隔たりがある。ことに生体の自己保存力・復元力は、物理化学からは説明がつかない。だから「閾値モデル」には科学的な優位性がある。ましてや生身の人間を扱う<臨床>なら、生物の複雑性を考慮したモデルを用いるべきである。国際機関からも承認されている。
<臨床>の原理にはもう一つ、統計における単一事例問題が絡んでいる。公害の訴訟などで、疫学からの因果推定は裁判でも認定された。このとき統計が不可欠だが、論理上は無限回の試行を前提に成り立っている。だからパース(C.S.Pierce)などは、単一事例の意味付けに統計は用いられないとした。学問的に決着が付いていない問題なのである。しかし、実地では統計を用いて進めざるを得ない。ただし、裁判所が疫学から企業の責任を認定しても、これですべてが処理できるのではない。補償については、被害者の個別の事情を考慮することになる。根拠があやふやでも進めねばならないのが、生きた人を扱う行政である。
このように<臨床>では、複雑性と個別性が基礎的な科学からの隔たりを産み出している。生物学にしても、医学の一部を還元できるに過ぎず、基礎科学から来た<予防>のための「閾値無しモデル」を<臨床>に当てはめても意味はない。医療行為では個別の事例に即した直接的所見と、これに基づく「
臨床直観主義」がどうしても必要である。
危険を知れば自己決定ができ、その責任をとらねばならない。これがミルの自由論の基いで、生命倫理学もここから始まった。しかし、見えない病原体の説が確立されたのは、ミルの自由論の直後であった。放射能こそ見えない原因の最たるものである。見えない危険についての安全性の情報は、専門家の意見を頼る他にない。ところが、専門家同士の話し合いでも、カテゴリー・ミステイクによる擦れ違いで結論の出ない場合が多い。臨床的な基準と予防医学上の基準の取り違いは、このよい例となっている。こうした誤解の排除で、民主主義は成熟できるのである。
カテゴリー・ミステイクが起こるからには、専門家の意見も直ちには信頼できない。情報を公開してみんなで議論すればこれが正せると、考える人もいる。古典的民主主義の条件の一つに、それが数えられてきた。詩人のミルトンは言論の自由を、どんなに間違えてもたくさんの人びとが自由に意見を言い合えば、やがて正しい結論に至ると謳い上げた。ところが、最新の情報倫理学によれば、情報の自然淘汰で正しい結論の出る保証は無い。たくさんの情報が出れば、かえって因果関係や責任の所在は分かりにくくなる。車の欠陥立証やチャレンジャー号事故など実例も示すところで、つまり「言論の市場主義」は成り立たないのである。
私たちはそのなかで民主主義を成熟させ、安全な診療基準を作ってゆかねばならない。生命の科学と自然科学一般との間には、非常に深い裂け目がある。<予防>のための「閾値無しモデル」は基礎医学のものだから、<臨床>に適さない。同じように、医療行為の
外側に倫理を置いても
機能しないのである。医療そのものの
中に倫理性がなくてはならない。生命倫理学は、
医療行為そのものの倫理性へと発展してゆかねばならない。
カテゴリー・フォージェリーの仕掛け
加藤の語りには目眩し、すり替えとして働く仕組みが数多く入っている。標題に挙げられ、全体の基いをなす<臨床>と<予防>の対が、すでに巧みな工夫である。矛盾が含まれるから、この対に結びつければ、望む結論はいくらでも手に入る。
<臨床>の対語には、ふつう「基礎」が配される。医学の研究は基礎医学と臨床医学とに大別される。誰でも知っているこの対を、加藤は外した。もちろん、新たな眺めを拓くなら、常識に捉われてはいられない。だが、対として成り立たないものを強いて対に構えてよいのか。まして、混同すれば考えや話し合いを徒労にするほどの強い、排他的な対立として語っては、筋道の破れである。新たな発見に導くさわやかな常識破りとは異なる、悪性の非常識に他ならない。
なぜなら<臨床>と<予防>は、事実として、排他的に対立していないからである。互いに独立であり、それゆえにむしろ相互乗り入れで働く。<臨床>が、特定の患者個人の現病・現在症の診断・治療を含むのは言うまでもない。だが、その患者に<予防>の処置を施し、<予防>の心得を説くのもまた、<臨床>なのである。公衆衛生のため多数の人びとに措置を講ずる<予防>は、広範囲に渡る<臨床>に他ならない。すなわち、<臨床的な予防>ないし<予防の臨床>がある。片や<予防>には基礎医学があり、<臨床>に留まらず、疫学を含む様ざまな知見を用いる。どうすれば治療がうまく行くかの研究があり、それは<臨床治療>のための基礎医学となっている。
<臨床>には<予防>の役割もあり、<予防>は<臨床>でも行なう - 当たり前ではないか。<臨床>は<予防>の一部を含み、<予防>の一部には臨床もある。混同してならないのは
<予防>と診断・治療であり、
<臨床>と基礎である。
健康で診断名が付かず治療が不要でも、予防には心がけたい - どちらも<臨床>の話である。胃の摘出が癌の治療に有効でも、予防のためにしてはならない - <臨床>における
治療と予防の区別である。運動は高血圧の予防に望ましいが、結核で治療中の人には薦められない - <予防>における
基礎と<臨床>である。実験室でiPS細胞から臓器が作れても、すぐ患者に移植はできない - だから、治療において基礎と<臨床>は区別すべし。ただし、いずれの区別にも排他性はない。<予防>のために診断と治療の知識は不可欠だし、基礎医学の成果を活かさずして適切な<臨床>はできない。
まったく当たり前のことを、わざわざ書かねばならない。あまりに大胆な露出は、かえって目に付かない。……ポーの「盗まれた手紙」の細工で、ラカンのセミネールの道具立て、などと書けば私も少しは賢く見えるのだろうか?
考えの枠組みを秘かに入れ替えあるいは言葉の意味を歪め、扱う事柄をぼかし、この闇に乗じて都合のよい立場を忍び込ませる手管、これを「カテゴリー・フォージェリー(category forgery=枠組みこじつけ)」と呼んでおく。望む結論をいくらでも引き出せる魔法の仕掛けである。
人が病み、死ぬかもしれず、日本の広範囲が居住不能となり近隣諸国にも、いや地球全体に災いを広げるかもしれない現場が、いまある。放射線被害の生々しさを前にすれば、抽象的、形式的な細工はいとも軽い、小さな事柄かに映ろう。だが、大事な手紙はありふれた状差しに、薄汚く身をやつし、さりげなく置かれていた。この手筈で、放射能よりなお目立たず、かつ劣らず有害な論らいの足掛かりが作られたのである。
カテゴリー・フォージェリーの始まり
福島第一原発周辺の住民はすでに放射能を浴びていたので、不安を鎮めるために「ムンテラ」を行なうことは、<臨床>としてなら適切だと加藤は述べた。ただ、山下俊一らの発言はこれを<予防>の場面で行ない、<予防>のための発言との誤解を招いた。この点に限って不用意だと、加藤は述べたのである。
山下は事故直後の現地に入り、「放射線健康リスクアドバイザー」などの肩書きを用い、長崎出身の放射線医療の専門家として、講演で地元の住民に向かって「いま出ている放射線はまったく健康に影響を及ぼさない」「外でどんどん遊んでいい」「内部被曝は外部被曝に比べて十分の一の危険しかない」などと言い立てた。加藤によればこれは、誤って<予防>の場面に持ち込まれた<臨床>の発言となる。つまり、場を弁えなかったのが誤りで、<臨床>での発言なら構わないとされた。
だが、そう考えてよいのだろうか。 - ここに、障害発生はほぼ避けられないほどの線量を浴びた人がいたとする。「大丈夫、くよくよせず乗りきりましょう」が<臨床>として適当な場合は、たしかにあろう。しかしこのとき、まだ障害が発生していなければ、これは<予防>でもある。つまり、<予防の臨床>としての発言となる。「千ミリシーベルトを浴びても心配は要らない」がどう見ても不適切なのは、基礎医学の見地からである。
<予防>だからではないのである。そして<予防の臨床>なら、「これ以上の被曝せぬよう、細心の注意を払いましょう」と付け加えるべきであろう。
山下発言の場合はどうか。すでに放射線を体外から浴び、体内に核種を取り込んだとは言え、住民たちにまだ現在症は表われていない。これからの対処が問われており、確かに加藤の言うとおり、<予防>の場面である。しかしこれは、予防の基礎医学ではない。山下が住民に行なったのは、大勢に向けての予防の<臨床>なのである。<予防>と<臨床>は排他的に対立しない。ところが加藤は、山下の講演が<予防>の場面で行なわれたことを以て、<臨床>を排除してしまった。これにより山下発言の不適切が、あたかも
場面の取り違いだけにあるかの如き印象を作り出した。内容そのものに問題はなく「臨床ですればよかったのに」との含みである。
しかしながら、山下発言は<臨床>としても不適切なのである。すでに相当量の放射線を浴びている人びとに向かい、殊に子供に「外でどんどん遊んでいい」では、放射線障害の危険がさらに増す。すなわち、
予防のための<臨床>として不適切なのである。カテゴリー・フォージェリーにより、この点がはぐらかされたのである。
またしても、分かり切ったことを書かされている。あまりに巧みかつ大胆に、すり替えの業が進んだからである。けれども、目を眩まされてはいられない。おかしいことはおかしいと、はっきり言うべき時が今である。
カテゴリー・マンガリングで助太刀
カテゴリー・フォージェリーがいかに巧みであれ、曝しておいては気付かれる恐れがあろう。なにしろ場所は学会、学問の集いである。だがここでもう一つの、物量豊かな援軍が到着した。「カテゴリー・マンガリング(category mongering=枠組み売り付け)」と名付くべき方略である。すなわち、なるほど正しいのだが、論らいの筋と係わりの薄い事柄を延々と述べ立てる。見当違いの正しさを、もともとの問い掛けと己れの言い立ての傷への煙幕とするのである。
加藤は「閾値モデル」がいかに優れているか、科学史と科学基礎論を用いて述べた。「閾値無しモデル」は、物理的な要因の増大を生物学的な結果に直結させたもので、二十世紀半ば過ぎまで力を持っていた物理学主義に基づき、新しい科学の流れには沿わないという。繰り返し口にしたうちから、日本語としていちばん整った、講演後半の言挙げを書き取ってみよう。
【閾無しモデルというのは、原因物質、原因的な要素の単調な増大というのをもとにしたモデルであって、それに抵抗する内的な力が相対的に強くなる場合、つまり線量が低くなった場合ですね、その場合には内在的自己維持力が外部の力に対して抵抗力を持ちますから、撹乱的な要素が出てくるわけです。ですから科学の発展としては、どちらかと言うと、閾値無しモデルから閾有りモデルへ、あるいは閾の事実上の存在をどのように説明するかというところへ発展し、進歩してゆくというふうに考えられますので、むしろ臨床的な医師のほうは、そちらに注目しているのではないかと言っていいと思います。】
「閾値モデル」を仮説に立てる理由付けとして、たしかに優れた語りではある。だが、この類いをここでいくら述べ立てても、全く意味はない。仮説としての説得力は、正しさを何ら保証しないからである。例えば、生命活動の独自性は独特の物質の実在を伺わすに充分だが、これまで裏付けは取れず、否定が定説となっている。ここで為すべきは、もっともらしさの売り込みではない。確かなデータに基づく誤魔化しのない験証のみが、いずれのモデルを採るべきかを告げる。加藤の講演にはこれが無く、もっともらしさに時間を割いたうえ、「国際機関」が認めたからとの
権威による論証が最後を締めた。
生命倫理の学会に「数理系の分析」は馴染まないし、加藤にとっても専門外だと言われようか - そうかもしれない。だがそれなら、モデルの優劣については口を閉ざすべきである。仮説のもっともらしさも権威かつぎも、この脈絡では同じくらい詰まらない。しかし加藤の講演ではこの二つ揃えの力で、カテゴリー・フォージェリーされた<臨床>と<予防>の対と「閾値モデル」とが売り込まれた。他に注意を惹き付けてタネを隠す陽動作戦を、手品の業界用語で「ミスディレクション」と呼ぶ。行なわれたマンガリングの流れは、これに通ずる。
仮説の売り込みにも目眩しが
私はこの文章で、これまでどちらのモデルにも肩入れしていないし、これからするつもりもない - 私の力量では決められないことゆえに。いずれのモデルにせよ、すり替えや目眩しによる押し付けを避けるのだけが狙いである。
この立場を外れぬ範囲で付け加えると、仮説のもっともらしさについても目眩しが働いていた。加藤の言うのとは異なり、生体の自己保存の働きが体外での物理化学実験とのたやすい接続を拒むことは、すでに十九世紀に気付かれていた。クロード・ベルナールは1870年頃に「内部環境」説を、実験研究の阻害要因として唱えた。これが二十世紀に入りキャノンの「ホメオスタシス」に受け継がれ、生体の特質と見做されたのである。いや、生体にとって閾値は、科学に教えられるまでもない。塩も水も、人体には必須の物質だが大量に摂れば有害で、致死的ですらある。すなわち、有害性に閾値が認められるのである。レントゲンもマリー・キュリーもそう考え、放射線に無防備であった。
放射線障害では「閾値無しモデル」が定説と初めて聞いたとき、私はたいへん驚いた。いま述べた意味で「非常識なモデル」だからである。放射線障害とはかくも特殊かと、噛みしめたのをよく憶えている。ICRPの見解は、生体の特性を考慮してなお理由があったはずである。加藤自からも「動物実験と様ざまな長崎の治療経験などに基づくデータによって裏付けられていて」とはじめには語っていた。
ところがこれを、<予防>医学の目安なので<臨床>で用いなくとも非難できないとの、カテゴリー・フォージェリーで却けたのである。しかも続けて「閾値モデル」が、ミスディレクションを用いたカテゴリー・マンガリングで押し立てられた。巧妙ではあるが、それ以上に奇妙さの際立つ動きである。
とは言え、加藤のここで挙げた例は、むしろ筋道の乱れを顕わにした。水の分子間引力と沸点を引き合いに、閾値による不連続が自然界でありふれている様を説いたからである。他の箇所では「閾値モデル」を、二十世紀後半からの複雑系や自己組織化に絡む新しい流れと説きながら、ここでは古くからの常識に添うとしている。なるほど分子間引力こそ十九世紀の熱力学だが、水が急に氷や水蒸気に変わることは、超古代から知られていたに決まっている。「閾値モデル」が科学の新傾向では必ずしもなく、生命科学にさえ限られないからには、加藤の筋立てはまたしても矛盾を抱え込むのである。ただ、「閾値モデル」の絵解きとしてはまことに分かりやすい。
矛盾を冒してでも「閾値モデル」の優位を説きたいのかと疑われる。加藤は、「閾値有り説」が低線量での放射線医学の「理論的核心」だとさえ述べた。自から験証できない理論を、なぜここまでして担がねばならないのか。
ミスディレクションの隠すもの
はじめに、<予防>を<臨床>から排除するカテゴリー・フォージェリーが仕組まれていた。次にもう一つ、<臨床>を個人に限り、大勢を排除する不整合もあった。しかし事実は変わらない。山下が福島の被災地で行なった講演は、現実の被災者を前にした紛れもない<臨床>であった。かつ被災者は単一でなく、多数である。大勢を相手にした<予防の臨床>であった。単一事例の、診断と治療を主とした臨床を引き合いに出しても、山下の講演から<臨床>性を奪うことはできない。もちろん、島薗の採り上げた<予防>のための情報集めと伝達とを、不要にすべき含みは何も無い。
ところが加藤はここで、統計における単一事例問題に係わる哲学的な疑問を述べ立てた。大勢の被災者のための予防を目指した<臨床>とも、そのための情報集めと伝達にも、何ら係わりのない話である。にもかかわらず加藤は延々と、単一事例問題と個人相手の臨床について語った。話は裁判における疫学認定の統計使用と被害者への個別の補償基準にも及んだが、いずれも島薗の問い掛けとは係わりがない。それなのに、「閾値モデル」の仮説としての優位と合わせて、講演の半分近くの時間が費やされた。ミスディレクションとして申し分のない効果が、ここからは得られる。
加藤はこれに続け、生体の複雑さと個別事例の特殊性とから、<臨床>における直観の必要を説いた。物理、化学とは異なる生物学、医学の特性、および統計上の有意と個別の治療との違いが述べ立てられた - そう、これらはまったく正しい。しかしながら、この正しさで「閾値無しモデル」は否定できないし、これを用いた<
臨床における予防>の不要も、もちろん情報収集と<予防>における情報伝達の不要も、導かれはしないのである。それなのに加藤はここから「閾値モデル」こそ<臨床>に適合すると語り、「閾値無しモデル」は<予防>のためだとして、<臨床>から排除してしまった。
これがカテゴリー・ミステイクを正すことだという。「どうも島薗さんの話だと、閾値説を持ち出そうとする人は全部、政府に迎合する政治主義者だというような」と、島薗が義憤のあまり論理を誤った如くに語り、自からは政治と無関係で客観・中立だと仄めかす。拠り所もなく、あるいは権威に訴えて「閾値モデル」を推すことには、偏りがないのだろうか。
加藤の話の流れこそむしろ、異なる「カテゴリー」を出し抜けに重ね、筋道を外している。あたかも、かくの如き推論 - 郵便ポストは赤く、電信柱は高い=まことに正しい:ゆえに、地球温暖化説も正しい。もともと繋がりのないものを並らべて「ゆえに」と言われれば、面食らう。これと異なり、誤りだが筋道の繋がった推論、例えば「カラスは黒く、墨は黒い、ゆえにカラスは墨だ」なら、むしろ矛盾は見付けやすい。繋がりがないと、どう誤っているかの述べ立ては、存外に難しいのである。郵便ポストと温暖化くらいなら騙されないが、込み入ってくれば煙に巻かれる。
これがカテゴリー・マンガリングの働きとなる。この煙で隠されたのは<予防の臨床>における不適切であり、また、これに無理やり結びつけられた情報収集・伝達の必要性、およびそれへの行政からの妨害という、まさに政治的な問題なのであった。
驚くべき結び1 - 専門家の独り占めへ そして話は、終いの五分ほどで、驚くべき有り様に結ばれた。ここに限って、島薗の問いは避けられていない。真正面からとは言い難いが、加藤は情報の収集と公開への問い掛けに向き合い、はっきり<否>と答えたのである。
まず、自己決定に限界が区切られた。なるほど危険が知られていれば、自己決定に委ねるべきだ。ミルの自由論もこれを説き、「古典的民主主義」の礎となった。だが、危険が「見えない」場合なら、自己決定は相応しくないという。では、どうするのか - 専門家に任せるしかない:これが加藤の答えである。危険が「見えない」場合には、素人は決定権を手放し、代わりに専門家が決定する。ただし専門家は、領域が違うとカテゴリーミステイクに陥りやすいので、加藤の如き知恵者が端からこれを正してやるのだ。
ここでの彼のカテゴリーミステイク論が成り立たないとは、繰り返すまい。だがなるほど、そうした誤りの出る場合もあろう。加藤はこれさえ正せば、あとは専門家に<任せて安心>というのである。専門家信仰の驚くべき告白が為された。しかもこれこそ、「民主主義の成熟」なのだ。司会の堀江は講演を受け、「テクノファシズム」と名付けた専門家の独走を、加藤が旧著で戒めていると述べた。この紹介がもし正しければ、立場に大きな移り変わりがある。
この専門家信仰を立てるにあたり加藤は、病原体としての細菌に始まる「見えない」危険を持ち出した。放射能こそ、その最たるものという。たしかに、分かりやすげな説明ではあった。ところが挙げられた実例は、1940年代のフォード車の欠陥問題と、スペースシャトルの爆発事故であった。これらに原子力の技術も細菌も、用いられてはいない。二つの例が加藤の、また一般的に言っても、専門家信仰の縄張りは「見えない」領域に限られないと、知られたのである。
考えてみればもっともで、目に
見えるからとて、素人に手が出せるのでは
ない。ジェット機の操縦席に座れば、操縦桿も計器の情報も、すべて目に入る。では、飛べるのか?いきなり畑を一反与えられ、まともに作物が作れるのか?目さえ見えれば、サンスクリットが読めるのか? - そんなはずはないのである。見えようと見えまいと、それなりの知識や業の求められるところ、その道の専門家がいる。
放射能は「見えない」から専門家にとの語り、それ自からが目眩しであった。放射線は測定できる。針の振れや、音や、数値に表われてくる。手で持っても大根の重さはよく分からないから、秤に掛ける。これと同じことである。放射能の測定器は、素人には作れない。台所の秤よりずっと高度な技術だからだろうか。だが台所の秤でも、素人には無理である。素人の悲しさなのか - いや、放射線医療の専門家にも、放射線の精密な測定器制作は無理であろう。
どこであろうと、様ざまな専門家の知識と技術が入り組み、また別の専門を支えている。それが、近代の分業社会である。このとき、誰も余所の専門に口を出せないのか - そんなはずはない。放射線医療の専門家は、測定器が不正確と思えば批判できる。自分で包丁を打てない料理人でも、切れが悪いと批判できるのに同じである。法律解釈は難しいので、難関の試験を通った専門家がいる。だが、素人でも裁判批判はすべきである。だからこそ、最高裁の判事に国民審査が課されている。素人の裁判員の判断が判決を左右する。見えない電波に乗ってくるテレビ番組を、下らないだの偏っているだの批判するのは、みな素人の戯言に過ぎないのか?
またしても、分かり切ったことを私は書いている。それは、加藤の講演がこの常識を外したからである。
測定できる放射能でも専門家に任せるべきなら、私たちのほとんどあらゆる活動は、専門家任せにせねばならない。なぜなら、今の世の「真理」の建て前たる科学の条件には「公共性」が、これまた建て前上にせよ、含まれるからである。科学のデータは誰の目にも明らかで、結論も説明すれば誰でも納得できると言われている。じっさいには無理なのだが、真面目な科学者ならこれに近づける努力を続けてきた。加藤の構えは、これに真っ向から対決する。
ここで考えたいのは、科学が事実として「公共的」か否かではない。事実が及ばなくとも、科学は「公共性」を旗印に掲げている。そして多くの科学者がそう信じ、「公共性」からの批判に耐えられる業績を目指しつつ、日々の研究を行なっているのである。加藤がもし、ここにおいてさえ専門家の独り占めを言い立てるなら、「臨床的直観」を恃む医療現場や、「高度な政治判断」が看板の行政はなおさら、素人の国民から隔てられて当たり前となろう。
驚くべき結び2 - 生命倫理の「医療化」へ 常識破りの意気込みはよい。だが、「見えない」放射能という支えは、すでに折れている。そのためかどうか、加藤講演にはここで、また別の拠り所が現われた。だがこれも、同じくらい当てにならない。「情報倫理学」によれば、「たくさん情報が出れば出るほど、責任や因果関係はわかりにくくなってきているわけです」というのである。そして、素人を含めた大勢の自由な論議を「詩人」の説と突き放し、「言論の市場主義」との皮肉な名付けを行なった。<素人に情報を出しても混乱するだけ>と言うに等しく、特定秘密保護法の秘密指定において、専門知識を持つ官僚以外を排除するのと同じ構えである。
これによって素人たる島薗の、情報の収集と開示をめぐる批判が封じられた。論証も実証も、いずれも試みられてさえいない。ただ「最新の情報倫理学」を黄門様の印籠の如くにかざし、桜吹雪を愛でる暇さえ与えぬ一刀両断であった。時間はたっぷりあったはずである。しかしその時間は「閾値モデル」のもっともらしさと、単一事例問題という本筋に係わりのない話題に費やされ、あまつさえカテゴリーマンガリングの手伝いに駆り出された。
加藤もさすがに、情報の収集と開示が要らぬとまでは言わない。ただそれは、やはり専門家の手に拠らねばならないのだ。後の質疑で彼は、「生物統計学の専門家で、現場でじっさいに、いろいろな症例などの統計を取る人の数が、そうとう日本は少ないのではないか」と述べた。専門家による情報の収集なら、ひとまず必要とされている。開示については語られないが、「言論の市場主義」に委ねないなら、これまた専門家による取捨選択を待つ他はあるまい。異なる分野の専門家同士でカテゴリーミステイクが起これば、加藤の如きその道の専門家の出番であろう。このとき仕事は、カテゴリーフォージェリーで都合の悪い事柄を隠すこととなるのか。
「医療という行為の外側に倫理があるのではなくて、医療という行為そのものの中に倫理性がなければならない。(中略) それが臨床医学の、基礎医学に還元することができない、還元不可能性という条件のもとでの、生命倫理学の新しい課題になるのではないかと思う」 - こう言って、加藤は講演を閉じた。ここだけを取り出せば、様ざまに解釈できる。しかし、ここまでの専門家信仰の流れを受けるかぎり、この言葉は、「臨床医療の専門家の<臨床>における判断こそが、この領域での倫理性の基準をなす」と読み替えてよかろう。
加藤は「生命の科学と自然科学一般とのあいだの裂け目は非常に深い」と述べた。「還元不可能性」とは、これを言い換えたものである。専門家は「見えない」世界にまで入り込めるが、分野が異なればカテゴリーミステイクを犯す。互いに深い裂け目を隔てて話し合うから、不毛な論議に陥るのだ。同じ専門の仲間内なら、カテゴリーミステイクも起こらない。餅は餅屋に、臨床医学は倫理まで含めて臨床の専門家に - すなわち、生命倫理にまで「医療化」を推し広げる宣言となっている。
質疑に見える心積もり 加藤の講演のあと、35分ほどの討論・質疑の時間があった。その成り行きを大まかに追ってみる。もしかすると打ち合わせが足りず、島薗の意図が充分に伝わらなかったのかもしれない - そんな善意の疑問もあり得よう。だが、この討論と質疑を見れば加藤の構えと導く先は、さらに明らかとなる。
まず島薗が、「閾値無しモデル」はICRPだけでなく他の信頼できる国際機関にも支持され、動物実験があり、発病のメカニズム論をも組み込み、チェルノブイリ事故の疫学データにも合致すると反論した。加えて、原子力政策は推進側が担ってきたので、そこから偏った説が産み出されたことを歴史的、社会的に検証すべきだと語った。また、個人を対象とした臨床と公衆衛生との違いは<臨床>と<予防>の対とは異ならないか、と質した。
応えるに加藤は、まず「閾値モデル」のもっともらしさを繰り返した。続いて、臨床での裁量とはいえあまり偏った情報では法的責任を問われると、脊椎穿刺をめぐってのインフォームドコンセントの最初の裁判例を挙げた。そして、放射線の害についてはデータが少ないので、臨床でなら「閾値モデル」を使って構わないと述べた。要するに島薗の反論と問い掛けには答えず、自説を繰り返したうえ、臨床医の法的責任へと話が外れたのである。
島薗は諦めず、法律論はともかく
社会政策、公共的な意思決定についての政治的、道義的な責任はと問い掛けた。すると加藤は、山下俊一との個人的な交流に言い及んだ。長崎大学によく生命倫理の集中講義に行ったので、懇親会で雑談する機会があった。「まあ、よくこんな不用意な発言をする」と驚いたという。福島でも不用意な発言があったに違いない。だが、それは枠組みを間違えたに過ぎない。臨床医としての発言なので、予防の場面で言っては誤解されますよと、誰かが注意すべきだった - こう述べたのである。
これこそ、驚くべき発言である。先の講演での話の繰り返しだが、ふたたび島薗の問い掛けを外し、公共政策の話を個人の勘違いに向け変えた。加藤の言う<臨床>と<予防>の対が成り立たないとは、もはやここで繰り返すまい。だが、仮にこれが成り立つとしても、政策決定の問題と、個別の場面での個人の勘違いとでは、あまりに違いすぎる。
なるほど、ここでの島薗の言い回しは必ずしも明確でなかった。誤解があったのかもしれない - 島薗もそう考えたのか、個人の問題ではなく原子力政策を進めてきた専門家集団、マスコミ、政府、役所、福島県などの動きをどう改善すべきかと、改めて問うた。そして、狭い専門家の仲間内に留まらず、科学の民主的かつ公共的な討議のシステムをどう整えるかの問題だろう、と言い換えた。
もはや誤解はあり得ない。しかし加藤はこれにまず、専門家どうしの討議がカテゴリーミステイクで混乱しがちだと繰り返した。次いで、長く続く委員会は役人に好都合で権益獲得型の論点整理に寄与すると、専門家たちが官僚に利用される様を批判した。アメリカの大統領委員会なら二週間くらいで、さすがというほど整理した文書を、きちんとした英語で出してくるという。わが国の専門家たちと官僚機構を批判しているが、総論のみで改善策は出なかった。しかも、焦点のはずの原子力政策や放射線医療には言及がなく、出し抜けに生殖補助医療の委員会に話が振られた。これもミスディレクションとして働いている。ただ、分野の異なる専門家同士の対話、論議に期待しないとの立場は、はっきり語られた。
島薗は諦めずに、「原子力ムラの御用学者問題」を明言して追求した。「特殊な閉鎖的サークル」が作られて、充分な討議ができずに誤った対策を取り、その誤った対策を正当化する議論が行なわれている。科学者集団にも役所にも大きな問題があり、マスコミもこれに追従する仕組みをどう考えるのか、と食い下がったのである。
加藤の答えは、またしても驚くべきものであった。「生物統計学の専門家で、現場でじっさいに、いろいろな症例などの統計を取る人の数が、そうとう日本は少ないのではないか」と述べたのが、この時であった。島薗の情報操作への問い掛けは、福島の事故直後の情報収集の歪みと妨害に重きを置いていた。この話題に紙一重まで近付いたとき、加藤はやおら踵を返し、無関係の話題を滔々と語りだした。脳性麻痺の医療過誤補償制度に話が振られたのである。家族の負担は言語に絶するものだが、裁判は長引く。そこで医師の過失の有無に拘わらず即座に補償金の出る保険制度を作ろうとした。だが、脳性麻痺の原因を調べたデータはなく、結果として保険金が余った、などの話であった。なるほど興味深いが、低線量被曝に係わる専門家集団と政策の話は、ふたたび立ち消えた。これまたミスディレクションである。
島薗はもはや諦めたか、原子力の話題を外した。「科学の働く場」「社会的布置」との言葉を用い、水俣病など他の公害問題にも絡む社会制度の問題として「力の行使の中に科学がはまってゆく傾向」をどう考えるかと尋ねた。
すると加藤の答えは、婉曲ながら的を外さなかった。「哲学的には非常に多くの疑問や難点が指摘されていながらも、現場ではどんどん実用性が開拓されていて、そのことを無視して生物統計はもう考えることができないほどの事態になってきている」と、まず述べた。水俣病の例では個々の分子の由来の証明を求められたが、特定の工場に結びつけるのは無理であった。そこで裁判所が、公害の因果関係には、統計を用いた疫学の適用を認めるに至った。ところが個別の補償になると、行政的な判断が範囲を削ってゆく。たしかに、同じ症状が別の原因で起こる場合はある。そこで「役人の勝手なメカニズム論に委ねられ」、裁判所の科学上の判断とは異質なものになるという。ここから、「公共政策における科学的な因果性と責任の問題について、そうとうしっかりとした見直しをしてゆく必要があって」と語ったのである。
加藤の日本語に、乱れはほとんどない。しかし、ここでの課題に係わる含みを汲み取るのは難しい。それでも試みればこうなろう - 公害にまつわる公共政策では、様ざまな科学のうちから、司法は疫学を選んだ。それを以て科学的な因果性と考えるのがよい。すなわち公害問題での科学性の判定は、もはや科学の専門家にでなく法律家に委ねられており、それでよいのだ。抽象論の哲学は無用だし、物質の基礎科学も因果性の確定に無力であった。現場で実用化された疫学的な方法に拠らざるを得ない。ただ個別の補償になると、広範囲の因果性では足りない。このため今は「役人の勝手なメカニズム論」がまかり通る。現場での個々の課題を担うべき新たな、「メカニズム論」とは別の基準の設定が求められる。 - このように述べたと考えられる。
この答えでは、現場での「科学的な因果性と責任の問題」にどんな基準を用いるべきかまでは、述べられていない。しかし、それに当てはまるのが加藤の言うところの<臨床>しかないことは、これまでの流れを振り返れば明らかであろう。
平土間からの跡付け
質疑の流れは期せずして、はじめの<臨床>と<予防>に戻った。じっさいには成り立たない排他的対立に絡めて、ここに出てきた様ざまな事柄が二分される。加藤は質疑において、官僚の裁量に委ねるべきでないと述べた。官僚が「勝手なメカニズム論」を使うからだという。ここでは官僚に結びつけられるが、「メカニズム論」はもともと、基礎の物質科学から来たとされる「閾値無しモデル」の特性として語られたのであった。またこれが、加藤の言うところの<予防>の原理ともされていたのである。すなわち、「メカニズム論」を結び目に、<予防>と「閾値無しモデル」と官僚とが一纏めに括られ、捨てられたことになる。
残るは<臨床>だけである。<予防>と「閾値無しモデル」には、非<臨床>である他分野の専門家も絡められている。彼らと話せば「カテゴリーミステイク」に足を取られるから、時間の無駄なのだ。倫理についても余所から言われる筋合いがなく、「還元不可能」な<臨床>医学の直観ないし「医療という行為そのもの」の中に置くとの講演の結びは、ごく当たり前に導ける。
こうした受け止めは、私だけのものではない。対論相手の島薗を含む、会場のほとんどの人が共にしていたであろう。私はただ、時間をかけ、それらを跡付けたに過ぎない。島薗は質疑において、ここで私の採り上げたほぼすべての論点に触れた。また、最後の五分ほどの平土間からの二つの質問は、いずれも<臨床>と<予防>の排他的区別の危うさを問うていた。
はじめの質問は、東京大学の鬼頭氏からであった。彼は加藤も採り上げた山下発言を指し、その不適切は<予防>と<臨床>の違いでなく、患者への個別の配慮か大勢への伝達かの区別に負うとした。大勢に伝えれば、個別の事情への配慮はできない。別のある医師が飯舘村で、猪肉やキノコを「少しなら食べてよい」と言ったところ、猟師の祖父が孫に猪を食べさせ、内部被曝の高まった実例を挙げた。この家族の「少し」は、余所での「たくさん」であった。
こうした発言は、たしかに加藤の言うとおり、<予防>としても不適切であろう。だが、それだけではない。誰に話しているか、言うことがどんな効果を招くかの判断の誤り、あるいはその状況における発言の不適切である。すなわち<臨床>での誤りに他ならない。ところが加藤はこれに対し、<予防>と<臨床>の区別なく発言する人がいるので問題が起こる、と繰り返した。「いわゆる閾値無しモデルを主張する人びとは、ほとんど予防の基準が臨床上の基準としても有効であるはずだ、という思い込みで発言していて、個人に対してだろうと大衆に対してだろうと両方に対してそういう発言が為されていると思います」と語ったのである。被曝の危険を警告する人びとこそむしろ内部被曝を助長するとも取れる見解で、どうにも筋違いである。質問者も驚き、「え、閾値有り派?」と聞き返した。加藤は「いや、
無し派が、予防基準に過ぎないものを臨床基準とまで踏み込んで理解している」と、改めて返した。
最後の質問は、慶応大学の加藤氏から出た。臨床医でもある彼が、やはり<予防>と<臨床>の区別に、こんどは真っ向から異を唱えた。臨床場面においても、情報提供に嘘があってはならない。正確な情報を伝えたうえでその後のケアを考えるのが<臨床>で、<予防>でも<臨床>でも情報提供に差を設けてはならないと述べたのである。しかしこの問いは、はぐらかされた。「誠実ないいお医者さんだと思います」と、少し笑いを誘ってシンポジウムは終わったのである。
まとめ 質疑の最後は長丁場の疲れで、集中力が切れたのかもしれない。原稿なしのその場での発言だから、少しくらい筋道が乱れても、責めるべきではなかろう。だが、気を抜いたがゆえにむしろ、「閾値モデル」を押し通したい加藤の意図が素直に表われたのではないか。そう考えれば、講演でのカテゴリーフォージェリーとカテゴリーマンガリングから引き続く、揺るぎない構えが見えてくる。
<臨床>と<予防>とは、もともと切り離せないのであった。これを無理に排他的な対立に置く。すると、どちらかに結び付ければ、もう他方を考えなくてよい。じっさいには他方の成分が入っていてもである。山下俊一が「外でどんどん遊んでいい」などと言った場面では、<予防>の必要があった。これは放射線を受けた人びとへの<臨床>でかつ<予防>が目的の、放射線障害の<予防の臨床>であった。だが、<予防>が掲げられると<臨床>は隠れ、山下の誤りは、<臨床という場を弁えない不用意>にすり替わった。
さらに、基礎医学を含む物質科学の役割が<予防>の場面に限られ、<臨床>での働きは外れてしまった。ここで「患者を安心させるために手心を加えてよいか」と問われればどうか - <臨床>なのだから、「非常に深い隔たりのある」基礎医学の知見は告げず、あるいは歪めてよいことになる。なるほど、「あまりに極端な場合」には歯止めが働くという。ただし理由は、法律的に賠償責任を問われるからなのだ。基礎医学はけっして<予防>を専らにするのではない。誤った前提を盾に、 <臨床>における歯止めから排除するのは不当である。
基礎医学からの事実を告げないのは「心配するっていうこと自体があまりよい影響を持たないってことを伝えるという意味もある」と、加藤は講演の頭で語った。なるほど、たしかにそういう場合はあるに違いない。しかし、だからといって基礎医学の知見の、<臨床>場面で果たす役割が否定できるはずはない。<臨床>においても、慶応大学の加藤氏の指摘のとおり、基礎医学の情報をきちんと伝えるべき場合は、やはりある。放射性ヨウ素ほかの、排出された核種の危険がまさしくそうであり、その拡散と被曝の実情調査が必須の情報として求められていた。島薗のこの問い掛けを、<予防>のモデルだからとか、基礎医学だからとはぐらかしてよい理由は、どこにもない。
加藤尚武がこのような狭い<臨床>にこだわるのは何のためか。推し量るしかないが、彼の語りによって利を得る者を考えれば、手掛かりとなろう。まず、「原子力ムラ」とその御用学者たちの過ちが隠される。表立っての弁護はまったくなかったが、それでもこれは分かりやすい。なるほど、山下発言は不用意とされた。だが、健康を蝕む誤りが「場を弁えない不用意」にすり替わった。<(予防の)臨床>での誤りが隠れ、罪は軽くなった。それが、次の受益者を指し示す。すなわち<臨床>が、臨床医の手許に無傷で残ったのである。基礎医学を<予防>に限り、<臨床>の歯止めに使えないとしたのも、法律論を隠れ蓑に用いつつ、臨床医の裁量を下支える動きである。
不始末をしでかした「原子力ムラ」を庇い、後始末は臨床医に独り占めさせる - 彼の講演はこの向きに動いていた。本筋に係わりの無い単一事例問題を長々と講じたもう一つの意味も、そこから見えてくる。単一事例こそ、臨床医の独壇場だからである。基礎医学も予防医学も振り捨てた<臨床>の「聖域」を押し立て、目の前の患者にひたすら対峙すればよい。「臨床直観主義」を縛るものは、もう何も無いはずだ - 倫理さえその内にある。
けれども、「聖域」に立て篭もるなど、ほんとうにできるのか。どこかから水漏れし、あるいは電波が飛んで、掛け声倒れとならないか。
なるほど「聖域」を作るまでなら、制度として中立と言える。そこを仕切る人次第だからである。イタイイタイ病を告発した萩野昇医師の如きなら、住民の健康を守るため働いてくれよう。だが、山下俊一教授に似た人ならどうか。島薗の言う「特殊な閉鎖的サークル」が人事を握れば、萩野二世に仕事の場はあるまい。加藤が「閾値モデル」の優れを、証明できないのに延々と説いたことは、ここに効いてくる。このモデルは「原子力ムラ」の吐き出した放射能の害を軽く見せるから、隣に住む放射線医療の臨床医による「安心」の仕事を助ける。「閾値モデル」を担ぐ人びとこそ「聖域」に住むに値すると、加藤は語ったのである。
山下の仲間たちが<臨床>の「聖域」に籠もり、「閾値モデル」をかざして単独の被災者と向き合い、個別に「安心」させてゆくこと - 被爆医療の進むべき道はこれだと、加藤尚武は考えているらしい。そうだとすれば、彼にとってなら、本筋を外れた二つの話題こそがむしろ核心だったことになる。すなわち、この度の講演と質疑とは、無駄も誤りもない一続きの、纏まりのよい語りなのであった。ただし、彼の抱く目的においてであり、論理の筋道においてではない。
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学術の誤用は、ときに恐るべき災いを招く。核兵器がそれだとは、分かりやすいところであろう。では、原発はどうか。核兵器と同列なのか - そこまではまだ分からない。しかし、今や危険で高値だと知れたこの試みを、安全で経済的だと言い広めてきた人びとがいる。「安全神話」が作られたのであった。その言葉の力が、近ごろの多くの苦しみを後押ししたのは間違いない。
言葉に、物理的な力はない。だが人を動かし、人は物を動かす。「事実」でも「神話」でも、働きは同じである。私は日本生命倫理学会の会員ではない。たまたま関心を抱いて参加した大会で、加藤尚武氏のこの講演を含む公開シンポジウムに出会った。私はその言葉に動かされた。そして、この言葉の人びとに及ぼす力を恐れた。
歴史を顧みれば権力者、権威者の言葉が世の中を間違った向きに導いた例を知るのに、苦労は要らない。加藤氏はわが国有数の哲学者と目され、わが国でもっとも権威ある哲学系学会の会長も務めた。有名大学の教授、大学の学長、政府の委員会の委員なども歴任した。司会の堀江氏は講演を、「哲学的な深い話」と評していた。この人物の発言は「哲学者の見解」として、中身の適否を問われずに流布する恐れがある。それは「安全神話」が形作られた仕組みと、少なくとも重きをなす一部において、共通するであろう。
医薬の世界からは論文データの捏造が、一般紙やテレビにまで伝えられている。事件の証拠を捏造し、隠蔽する警察官や検事もいる。人の命、人生を左右する恐ろしさが分かりやすい。では、哲学での論理のこじつけはどうか。口先の屁理屈、インクの染みと嘲れば済むであろうか?そういう場合もあろう - だがその言葉の権威が、偽りの筋道を「神話」にまで仕立て上げるなら、屁理屈では済まない。捏造と同じだと、私は思う。その仕組みの端切れなりとも、いま明らかにしておきたいと願い、この文章を記した。
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PDFファイルは以下のところに;
http://firestorage.jp/download/871881f9d29d7eeffe31142934f4adb779af6d5d
*なお本稿は、このシンポジウムを企画、主催した日本生命倫理学会に機関誌への掲載を求めたが、編集委員長丸山英二氏より、掲載できないとの返答を平成26年1月16日付にて得た。
講演の録音は、次のところから;
http://firestorage.jp/download/138941363d0213a4457c6c4d482797378cf6d138
http://www.youtube.com/watch?v=_wRL79IXKk4
質疑の録音は;
http://firestorage.jp/download/f50fef2e77f3d273103cd4ee742d1fbf609547fd
http://www.youtube.com/watch?v=CyV6KONrxRk