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印象に残ったプロ野球選手を中心に『引き際の美学』について

ブログと日々雑感

『引き際の美学』とは

 

Baseballs

 

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『引き際の美学』(著・川北義則、778円、朝日新聞出版)は、
『男の品格』や『みっともない老い方』で知られる川北義則氏の一冊である。

プロ野球選手中心ですが、長嶋茂雄氏や松井秀樹氏はあまりにも有名でありますので、

述べておりません。

 

 

王貞治氏(当時巨人、現ソフトバンク球団会長)の場合

 

初めて国民栄誉賞を受賞し、文化功労者としても顕彰された。
巨人のV9に長嶋 茂雄氏(読売ジャイアンツ終身名誉監督)と共に多大な貢献をした。
のちに長嶋 茂雄氏も松井 秀喜氏と一緒に国民栄誉賞を受賞している。

 

現役通算22年で安打2786、打率0.301、ホームラン868本、打点2170

監督としては通算19年で2507試合、1315勝1118敗74引き分け、Aクラス15回、Bクラス4回


現役最終年は打率.236ながら、30本塁打放っています。
30本塁打を記録しても80年に現役引退。
通算900号を目前にしての引退は長嶋茂雄監督辞任により、
藤田元司監督の就任で助監督就任を要請された。
迷った末の決断だろう。

 

三浦大輔氏(横浜DeNAベイスターズ)の場合

 

「先発ができなくなったら辞めるつもりではいる。」と常々口にしていた三浦大輔氏は
2016年9月16日の対阪神戦(甲子園)に、先発投手としてシーズン2度目の
一軍公式戦登板を果たした。
しかし、1回裏に福留孝介の本塁打で2点を失った末に、4回1/3で降板。
打線の援護にも恵まれず、シーズン2敗目を喫した。

 

この試合後にゼネラルマネジャーの高田繁へ現役引退を申し入れたことから、球団側も引退を了承。
チームが19日に史上初のクライマックスシリーズ進出を決めたことを受けて、翌20日にこのシーズン限りで引退することを表明した。
引退を決断した理由は「自分では勝てなくなったから」とのことで、引退後の進路については、「現役(生活)からは卒業するが、野球からは卒業しないので、ずっと野球に関わっていたい」と述べている。

 

江川 卓氏(読売ジャイアンツ)の場合

 

高校、大学と「怪物江川と騒がれ、高校卒業時には阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、入団を拒否する。
大4年生時の1977年秋のドラフト会議(11月22日開催)では、法大の大先輩・根本陸夫新監督率いるクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。
大学から社会人野球チームに入団すると最低2年間は、プロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで、翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したため、大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学。

 

1978年度ドラフト会議(11月22日開催)の2日前に急遽帰国。
ドラフト会議前日の11月21日、ライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失したとの解釈で巨人と電撃契約した(通称「空白の一日事件」)。
巨人がドラフト会議をボイコットする等こじれにこじれた結果。
一旦阪神に入団の上小林繁氏との交換トレードで巨人に入団。

 

1984年はナゴヤ球場でオールスターゲーム第3戦で中日・中尾とバッテリー組み8者連続奪三振を記録。

このとき5人目の打者として対戦した落合は、
「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している。
しかし、9人目に迎えた打者・大石大二郎(近鉄)への3球目にカーブを投げて
バットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、
1971年第1戦の江夏豊(阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった


1987年13勝をあげながらも、9月20日の対広島戦で、4番・小早川毅彦に2打席連続で本塁打を打たれる。
3失点(小早川の2本の本塁打によるもの)で完投しながら敗戦投手となった。
これをきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した。
任意引退ではなく自由契約になったが、これは球団側の意趣返しともいわれた。

 

のちに「一桁勝利で終わるようではプロ野球を続けちゃダメだ」と考えるようになり、1987年は13勝したものの来年はたぶん一桁になると思ったことも引退を決めた原因であると述べている。

 

山本昌氏(中日ドラゴンズ)の場合


50歳まで現役を続行、ストレートの最速平均は138-139km/h前後(30歳代前半までは132-133km/h前後)で、同い年の星野伸之・小宮山悟と共に「球の遅い一流投手」という稀有な存在である。
最多勝は3度受賞し通算219勝。

入団当時、野球解説者だった星野仙一氏は
「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、
ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。
球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、
山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、
とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。

 

 

ベロビーチ・ドジャースに野球交換留学し、生涯を通じての恩師であるドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。
生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導された。

通算29年で219勝165敗セーブ5で、最多勝3回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回。

 

2015年9月25日に、自身の公式サイト上で現役引退を発表。
(ナゴヤドームでのレギュラーシーズン最終戦であった)前日(24日)の阪神戦を観戦した際に、若返りを推進しているチームの現状を目の当たりにしたことを理由に挙た。

2015年9月30日に、名古屋市内での記者会見で、引退を正式に発表。
50歳1ヶ月26日で迎えた10月7日の対広島戦(マツダスタジアム)でNPB史上初の50歳出場・登板を果たしたことによって、現役生活を締めくくった。
この試合では、「打者1人」という条件で先発。先頭打者・丸佳浩に対して、3球続けてスクリューボールを投げた末に、二塁へのゴロに打ち取った。

 

 

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黒田 博樹(広島東洋カープ)の場合

父は元プロ野球選手の黒田一博。
日本人投手で史上初めてNPB/MLB通算先発勝利(先発投手勝利)数のみで200勝を達成した投手である。
また、日米40球団勝利を記録した唯一人の日本人選手でもある。

 

1996年、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。背番号15。(背番号15は引退後、広島球団3人目の永久欠番となった。)
2007年長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。
翌年FA権を行使し、ロサンゼルス・ドジャースに移籍。
2009年は野茂英雄、松坂大輔に次いで日本人史上3人目の開幕投手として
4月6日のパドレス戦に先発し、5回2/3を4安打1失点の投球で白星を挙げる。
MLB7年で79勝79敗。

 

2015年から広島復帰。
春季キャンプは2月17日からの沖縄二次キャンプから合流した。
合流前日(2月16日)に広島市内で行われた復帰記者会見では、「年齢的な部分を考えても残りの野球人生は長くないと思っていますし、いつ最後の登板になっても良いという気持ちでやっています。
1球1球にどれだけの気持ちを込めて投げられるかと考えた時に、カープのユニフォームを着て投げて最後の1球になった方が、後悔が無いと思い復帰を決断しました」と語った。

 

2016年10月18日に今シーズンで現役を引退することを表明。
広島市内のホテルで記者会見を行った。
当日日本シリーズへの練習をする前に、マツダスタジアムの右翼付近に集まった選手に対し引退の旨を表明した。


引退表明までの成績は日米通算203勝184敗。
2016年10月25日の日本シリーズ第3戦(札幌ドーム)が最終登板となり、5回2/3を投げ85球4被安打1奪三振1失点。
最後の打者は大谷翔平だった。

オフの11月4日には引退記者会見が開かれ、球団は背番号「15」を永久欠番にすると発表した。

 

番外編1 栃木山 守也 

 

番外編として現役時代の活躍はまったく知りませんが栃木山守也。

春日野部屋の創設者で伝説の名力士です。

ちなみに私は栃錦以来の春日野部屋ファンです。

 

1917年5月場所で大関に、1918年5月場所の横綱昇進を挟んで1919年1月場所まで5連覇を達成する。
この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。
通算成績:197勝26敗7分5預24休 勝率.883
通算幕内成績:166勝23敗7分4預24休 勝率.878
横綱成績:115勝8敗6分3預22休 勝率.935
大関成績:19勝1預 勝率.1000
現役在位:30場所
幕内在位:22場所
横綱在位:15場所
大関在位:2場所
三役在位:2場所(小結1場所、関脇1場所)


1924年1月場所から1925年1月場所まで3場所連続優勝の後、次の5月場所直前に突然の引退を表明する。
「力が衰えてから辞めるのは本意ではない。今が華だと思うから」とだけ語った。
1959年10月3日に死去。67歳没。没後は政府より相撲界初となる勲四等瑞宝章を追贈された。

 

 番外編2 本田技研工業(ホンダ)の創業者、本田宗一郎の場合

 

技術者としての引退

技術者としての引退は他の役員の「このままでは会社が倒産する」と進言されても「俺が作った会社だから俺が潰すのも勝手」と反論するなど、頑固な技術者の一面をのぞかせ、開発に関わる技術者との関係は悪化していた。
若手技術者らから不満を直訴された役員が、最終的に「あなたは社長なのか、それとも一技術者なのか」と迫り、技術者としての本田に引導を渡した。

 

経営者としての引退

 

経営者としての引退は、マスキー法施行に対応する低公害エンジンを開発中の若手技術者が、本田が低公害エンジン開発について「ビッグ3と並ぶ千載一遇のチャンスだ」

と発言したことに対し、「自分たちは会社のためにやっているのではない。
社会のためにやっているのだ」と反発され、専務からその旨を聞かされ、「いつの間にか私の発想は企業本位に立ったものになってしまっている」
「自分の時代は終わった」と感じたためだという。


番外編3 小泉純一郎氏の場合

首相経験者が次回の衆議院議員選挙に立候補しないでの引退はかなり珍しい例である。
この事を麻生内閣が成立した翌日の2008年(平成20年)9月25日に、地元支持者の会合において、明らかにした。
これによって麻生内閣誕生のニュースが霞んでしまった。

 

ただし、国会の外での政治活動は継続すると表明している。
現職時代は推進派であった原発問題では反対派に変身。


政界引退後の総選挙においては、かつての選挙区である神奈川11区から次男で私設秘書の小泉進次郎氏が後継(世襲候補)として立候補し、当選した。 
この件に関しては当時かなりマスコミ等に叩かれたが、今となっては「小泉進次郎人気」ですっかり忘れ去られている。


番外編4 前東京都知事舛添要一氏の場合

舛添要一氏に引導を渡したのは最終的には都議会だろうが、実体は世論をバックにしたマスコミの力に負うところが大きい。
毎週金曜日の定例記者会見は民放がこぞって中継した。
けっこうキワドイ質問にも舛添氏が詭弁とも思える回答で返しているさまは滑稽でもあった。
いつしか私もかかさず視るようになりCM中はリモコンで各局の切り替えに忙しかった。
各番組が舛添氏の公私混同疑惑を繰り返し、何度も伝えたのは視聴率が取れたからだと思われる。

参議院議員選挙も霞んでしまう有様だ。


最後には「ここまで耐えてきたのは、リオ五輪で東京を笑いものにしたくないから」と
涙ながらの発言で去って行った。
東京都といえども一地方議会がこれほどまでに注目された事はあっただろうか?
その流れが現在の「小池ブーム」にも引き継がれている。

 

番外編5 山口 百恵の場合

 

オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。
同番組への出演応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て
自分も森昌子さんのようになりたいと思ったこと。


1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。
その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。


「これからは、みなさんの目には触れないところで、1人1人孤独と戦いながら生きていきたいんです。普通の女の子に戻りたい!!」

 

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