真珠湾攻撃から75年たった今も、米海軍の戦艦アリゾナは、水深12mの海底で灰色の沈泥に埋もれて眠っている。
アリゾナは、1941年12月7日(日本時間8日)の朝からずっとここにいる。この日、ハワイの米海軍基地は、日本軍の353機の航空機による奇襲攻撃を受け、2403人の死者と1178人の負傷者を出した。米国は第二次世界大戦に参戦し、歴史の流れを永遠に変えることになった。
徐々に錆びてゆくアリゾナの船体には、この攻撃で死亡した1177人の乗組員のうち1000人近くが眠っている。存命の生存者は5人にまで減った。けれどもアリゾナは、悪夢のようなあの1日を忘れないという約束を守るため、永遠にこの場所に存在し続ける。
今週は、集会や献花からコンサートやパレードまで、数々の記念行事が行われる。その中心にあるのは戦艦アリゾナだ。アリゾナは犠牲の象徴であると同時に、科学的調査の舞台でもあり、近年では和解の場としての意味合いも深めている。
生存者の物語
アリゾナの生存者である94歳のドナルド・ストラットン氏は、「地獄のような1日でした」と回想する。
当時19歳の水兵だったストラットン氏は、あの日、奇跡的に命拾いした。日本軍の攻撃機が投下した爆弾がアリゾナに命中したとき、同艦に積み込まれていた68万リットルの航空燃料と500トンの火薬と450kg以上の軍需品に引火した。アリゾナは巨大な火の玉に飲み込まれ、ストラットン氏は、上に立っていた高射砲座ごと吹き飛ばされて、全身の70%近くにやけどを負った。「私はすべての指先を無くしました」
ストラットン氏は軍の病院で1年間静養し、その後、信じられないことだが勇敢にも1944年に再入隊した。「復讐心もありました」と彼は言う。「けれども徐々に、日本人のパイロットたちも私たちと同じように命令に従っていただけなのだということに気がつきました」
ストラットン氏がケン・ガイヤ氏との共著で最近出版した『All Gallant Men(勇者たち)』という本は、アリゾナの生存者による初の回顧録だ。本を出版したアリゾナの生存者は彼だけではない。真珠湾攻撃の当時21歳だったローレン・ブルナー氏は、自身の体験を元にした小説『Second to the Last to Leave U.S.S. Arizona(最後から2番目に戦艦アリゾナから脱出した男)』を共著で出版している。(参考記事:「「ナガサキ」本を米国で出版、著者に聞いた」)
現在96歳のブルナー氏は、「あの日、私は起床して朝食をとったところでした」と言う。「夜には女の子とデートをすることになっていましたが、行けませんでした」
アリゾナが爆撃されたとき、ブルナー氏は、ほかの6人の乗組員と一緒に前マストの見張り小屋の中に閉じ込められてしまった。幸い、近くの修理船の甲板にいた水兵が、燃え上がる船上にいた彼らに気づいてロープを投げてくれたので、どうにか脱出することができた。彼は全身の2/3以上にやけどを負い、脱出の際には黒焦げになった皮膚が体からポロポロとはがれ落ちたという。
2つの病院で静養したブルナー氏は、半年後に再入隊して、アリューシャン諸島、フィリピン、長崎で任務についた。恐ろしい経験をしたにもかかわらず、真珠湾は自分の安息の地だと考えている。今年、戦艦アリゾナのほかの生存者と会うために真珠湾を訪問するという彼は、「私にとっては生まれ故郷に帰るようなものです」と言う。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」)
探査機による科学調査
1980年までは米海軍がアリゾナの沈没地点を調べていたが、それ以降は水中資源センターと共同で調査を行っている。水中資源センターは、米国立公園局の水中考古学者や写真家からなる専門家集団だ。
同センターの副所長で写真家のブレット・シーモア氏は、20年近くここで潜って水中調査を行っている。彼の説明によると、戦艦アリゾナの状態を示す地図は1980年代初頭に初めて作成されたという。それからの20年間、彼らは腐食の状態を調べ、燃料油の分析を行い(アリゾナからは今でも毎日6~9リットルの燃料が漏れ出している)、内部の調査を行って、船の上部構造がどのくらい長持ちするかを見積もった(シーモア氏は、水中の溶存酸素も錆も腐食も非常に少ないため、あと数百年はもつだろうと言う)。
アリゾナの状態に関する情報収集と管理は、科学的調査や写真撮影のほか、ソナー、写真測量、水中レーザーを利用したデジタルマッピングによって行われている。水中資源センターは昨年、現在のアリゾナの姿を3Dプリントした模型を発表し、今年は、ストラットン氏やブルナー氏をはじめとする生存者に同じ模型が贈られることになっている。(参考記事:「CIAが歴史的な「機密地図」の数々を公開」)
戦艦アリゾナの最初の調査は、日本軍による奇襲攻撃のわずか1カ月後に行われた。海軍のダイバーがアリゾナから武器、金庫、記録帳、破損していない軍需品を引き上げた。それ以来、船内で眠る兵士たちに敬意を表して、ダイバーが船内に入ることは許可されていない。
2000年以降、水中資源センターは、アリゾナの生存者から許可を得た上で、遠隔操作式の探査機を船内に送り込んで調査を行っている(探査機は数台あり、ウッズホール海洋学研究所と共同で運用している、沈没船の奥深くまで入っていくことができる特殊なものもある)。こうした探査機からの画像により、デッキに残された鍋、陶器、銀器、コーラの瓶、靴底などの日用品の存在が確認されている。
「戦艦アリゾナの驚くべき点は、それがまだ残っているという事実にあります」とシーモア氏。「近くからアリゾナを見る人は、何かが起きた場所ではなく、そこで起きたことを見ることができるのです」
「私たちは、この象徴的な沈没船を通じて、第二次世界大戦に触れることができます。戦艦アリゾナは、真珠湾攻撃という出来事を体現しているのです。私たちの歴史に、このようなものは多くは存在しません」
12月9日からは、沈没地点の堆積物、土壌、水、溶存酸素に関する新たな研究が始まる。そこから何が明らかになるかはわからないが、シーモア氏と水中資源センターのメンバーは大きな成果を上げられるだろうと期待している。(参考記事:「ハワイ 波と生きる」)
戦争記念館から平和記念館へ
ダニエル・マルティネス氏は、米国立公園局の真珠湾主任歴史学者の1人だ。彼は、1984年にアリゾナ記念館に着任して以来、多くのことが変わったと言う。「1991年には6000人の真珠湾攻撃生存者とその家族が来館しましたが、今年は200人も来館すれば良い方でしょう」
しかし、最大の変化は来館者数ではない。
「米国という国が大きく変化したことで、記念館自体が大きく変化したのです」とマルティネス氏。「記念館を設立した人々が世を去るにつれ、記念館の解釈と意味合いが変わってきました。戦艦アリゾナは、戦争記念館から平和記念館へと徐々に変わってきています」
1960年から61年にかけて建設されたアリゾナ記念館は、米国初の国立の大戦記念館として1962年にオープンした。オープン当初は「日本人が太平洋と真珠湾で起こしたことへの怒りと傷心と憎しみ」が渦巻いていたという。(参考記事:「20世紀の戦争プロパガンダ地図12点、敵はタコ」)
非難から和解への変化は1991年に始まった。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が真珠湾攻撃50周年を記念して行った演説の中に、「私の心にはドイツや日本への憎しみは全くない」という一節を入れたのだ。
「大統領が同胞の退役軍人に、戦争は終わったのだから前を向いて歩いていこうと呼びかけたのです。彼の言葉は怒りの炎を鎮めるもので、私たちの新たな活動方針となりました」
終戦から50周年を迎えた1995年にビル・クリントン大統領が真珠湾を訪れた際の演説も、同じ趣旨のものだった。今年はさらに新しい一歩を踏み出す。日本の安倍晋三首相が、12月26日にオバマ大統領とともに真珠湾を訪問することが決まったのだ(この訪問は、5月に行われた米国の現職の大統領による広島の歴史的訪問への返礼という意味合いもある)。
マルティネス氏は、アリゾナ記念館は融和と経験の共有のための場へと変貌しようとしていると言う。
「あまり知られていませんが、アリゾナ記念館は、戦艦アリゾナと乗組員だけのために建てられたものではないのです」とマルティネス氏。「日本人や、米軍の対空砲火の巻き添えになった49人の民間人を含め、真珠湾攻撃の際に命を落としたすべての人々のための記念館なのです」
大切なのは、日本と米国の70年間の平和を祝う必要があることを覚えておくことだと彼は言う。「私たちが築いてきた関係は、私たちを前に進ませてくれます。1941年に起きたことを忘れようと言っているわけではありません。あの出来事を許すことで、米国の偉大さ、日米両国の偉大さを示すことができるのです」
「私たちは記念行事で日本式の茶会を開きました。茶道は祈りの儀式です。私たちの記念館は癒しの場になったのです。私が着任した当時は予想もしなかったことですが、実際にそうなったのです」