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ニューヨークで最も有名な日本人ジャズピアニスト・海野雅威が語る「世界で、ジャズマンとして生きるということ」

Tadataka Unno
海野雅威
1980年、東京生まれ。東京芸術大学で作曲を学ぶ。鈴木良雄、伊藤君子、大坂昌彦らと活動し、若い世代の旗手的存在であったが、2008年ニューヨークに移住。現在ジミー・コブ、クリフトン・アンダーソン、ウィナード・ハーパーらのバンドでレギュラーピアニストとして活動している。2013年8月、「ヴィレッジ・ヴァンガード」でジミー・コブ・トリオのピアニストとして日本人で初出演。最新作に吉田豊とのデュオ作『DANRO』がある。2017年には、ルディ・ヴァン・ゲルダー最後の録音となったジミー・コブ・トリオのアルバムの発表が予定されている。ウェブサイトはhttp://www.tadatakaunno.com

PHOTO: COURTESY OF TADATAKA UNNO

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マイルス・デイヴィスの名盤『サムシン・エルス』のピアニスト、ハンク・ジョーンズの最後の愛弟子は日本人だった。海野雅威(うんの・ただたか)は、2008年からニューヨークに移住し、現在は自己のバンドだけでなく、マイルス・バンドのドラマーだったジミー・コブ・トリオのピアニストとしても活躍している。マイルスの遺伝子を受け継ぐ男といっていい海野にインタビューした。

ジミー・コブとの初共演での衝撃

──2008年にニューヨーク(NY)に移住されました。順調だった日本での活動にいったんピリオドを打ち、渡米された理由は何だったのでしょう。

渡米前の数年はかなり忙しかったんです。ジャズシーンを担う先輩たちのバンドに所属しながら、自分でもリーダーをやっていて、学ぶことはとても多かったのですが、目の前の演奏に追われる生活でした。ちょうど10年演奏活動しているなかで、次第に「自分が本当にやりたいことって何だろう」って、考えるようになっていたんです。

そんな中で、2006年に2回、レコーディングでNYを訪れたのが大きなきっかけになりました。

1回目は、日本を代表するベーシスト、鈴木良雄さん(通称、チンさん)とセシル・モンローとのトリオでCDを作りました(『For you』)。チンさんは、アート・ブレイキーのバンドに所属してNYで活躍した素晴らしいベーシストですが、僕はチンさんにとても可愛がってもらって、「雅威も行ってきたらいいじゃないか」と励ましをいただいた。これが一つ、大きな後押しになりました。

海野雅威トリオ。ジョナサン・バーバー(ds)、エシエット・エシエット(b)PHOTO: COURTESY OF TADATAKA UNNO

海野雅威トリオ。ジョナサン・バーバー(ds)、エシエット・エシエット(b)
PHOTO: COURTESY OF TADATAKA UNNO


2回目は、名プロデューサー・伊藤八十八(やそはち)さんのアルバムでNYに行きました。これは過酷でしたね。チンさんとのレコーディングは、これまでに何度も一緒にやっていたのでリラックスしてできたのですが、伊藤さんプロデュースのアルバム(『マイ・ロマンス』)はドラムがジミー・コブ、ベースがジョージ・ムラーツという、初対面のジャズレジェンドとの共演。

僕は日本のレギュラートリオでの録音を望んでおり、伊藤さんに当初反対したんです。すると、「こんな機会は2度とないかもしれないから」と言われて。ジミーは当時79歳。たしかにとても貴重な機会であり、また渡米すれば結局は日本のメンバーとはできなくなってしまうので、ここは思い直して、お2人に胸を借りる気持ちで極度の緊張と時差ボケの中、気合を入れてレコーディングに臨みました。

でも、本来、気合を入れてレコーディングをするって、ちょっと違うんです。直後に、もっと自然に、楽しんでやりたかったなと思いました。そのためには、誰かにお膳立てしてもらうのではなく、尊敬するミュージシャン本人からオファーを受けるようなミュージシャンにならなければいけない。つまり、彼らと心がつながる関係になりたいと強く思ったんですね。この経験も渡米する大きなきっかけになりました。

ジミー・コブとの初共演となった『マイ・ロマンス』

ジミー・コブとの初共演となった『マイ・ロマンス』


──NYに拠点を移すにあたり、どのような準備をされましたか? 当初、仕事のあてなどはあったのでしょうか?

ビザを取るために必要な推薦状を、伊藤さんの紹介で、ハンク・ジョーンズが書いてくれたんです。そして、2008年の6月にアーティストビザを取り晴れて渡米しました。

が、知り合いもほとんどいないですし、仕事はゼロ。貯金は少しあったものの、いつまでもつかわからない。我ながらよく決心したなと思います。そんな状況で、「行きましょうよ」と背中を押してくれた妻には心から感謝しています。NYで暮らしはじめて1ヵ月半くらいは、一度もピアノを弾かなかったですね。

──ピアノを弾かなかった1ヵ月半は、NYで何をされていたんですか?

いろんな人のライブに行っていました。それまで日本では過密スケジュールだったので、長期休暇のようでもありとても楽しかった。

でも、次第にムズムズしてくるんですね。練習しなくて大丈夫かなぁと。そんなある頃、数少ない知人を通じて初めてピザレストランでの演奏の機会を得ました。NYではレストラン・ギグっていって、レストランで演奏する仕事がけっこうあるんですね。その時のギャラは20ドルとピザ。とうてい生活できない額ですが、そのピザの味は格別おいしかったですね。

そうやって新天地NYでゼロからスタートし直し、少しずついろんな人と繋がっていったわけですが、渡米後、特に一番すべきことで、もしやらなければ後悔すると思ったのは、推薦状を書いてくれたハンク・ジョーンズに会うことだったんです。

「ピアノが喜んでいた」ハンク・ジョーンズ

──世界的な名ジャズピアニスト、ハンク・ジョーンズは、どのような人物でしたか。

本当に偉大な存在だと肌で感じました。NYじゅうのミュージシャン、特に大ベテランたちがこぞってハンクのライブを聴きにきていました。そんなピアノの神様ですが、日本から来た若造の僕を温かく受け入れてくれたんです。

僕はほぼ毎日遊びに行って、一緒にピアノを弾きました。ハンクはとにかくジョークが好きで、優しくて、周囲をリラックスさせる優しい目をした紳士でした。

ある時、ハンクが、「タダ、セッションをしよう」と言ってくれました。弾きはじめると全然止まらなくなって……途中でさすがにそろそろ休憩しましょうと言ったのですが、いやいやまだまだと、乗りに乗って6時間以上も一緒に連弾してしまう、そういう人でした。

渡米直後の2008年、ハンク・ジョーンズの自宅で6時間におよんだセッション

渡米直後の2008年、ハンク・ジョーンズの自宅で6時間におよんだセッション
PHOTO: COURTESY OF TADATAKA UNNO


──ハンク・ジョーンズのピアノの「音」を、海野さんはどう聴きましたか? 他のピアニストと何が違っていたのでしょうか。

ハンクのタッチは、“ピアノが喜んでいた”としか表現しえないんです。僕は、ハンクのことを「天国からやって来た音楽の使徒」だと本気で思っていますが、どう弾けばピアノが喜ぶかを熟知している師匠でした。

音量について言えば、たとえばケニー・バロンやシダー・ウォルトンの音ってハンクに比べて大きいんです。対してハンクは、「小さいけれど美しく遠くへ飛ぶ音」でした。

ピアノの鍵盤って、一番下まで押せばもちろん音が鳴りますが、そこまで押さなくても鳴るんですね。だから、音を鳴らせる以上のプッシュは余計なんだとハンクは言っていました。たしか、何グラムの強さ以上は必要ないといった科学的なことも……。正確な数値は忘れてしまったのですが。

それからハンクには、「ハンク・ジョーンズ節」があるようでいて、あまりに自然で気がつきにくいんです。たとえばハービー・ハンコックだったら、ハービー節が厳然とありますよね。それはそれで好きなのですが、ハンクはすぐには特徴がわかりにくい。すべてあるがままというか、コントロールしないというか、その時に心から感じる音を正直に紡いでいたからだと思います。これが俺だ! という余計な主張がいっさいない、自然で味わい深い豊かな演奏でした。

実はハンクって、家ではジャズを聴かなかったんですよ。ドビュッシーとかショパンとか、クラシックしか聴かなかった。「どうしてですかって」聞いたら、「ジャズはいつも携わっているからね。家で聴くのはクラシックが好き」って。

結局、ハンクは、自分がやりたいことを一途にやっていただけなんだろうと思います。ジャズに聴こえるように弾こうなんて思ってなかった。ハンクを聴いた人が、あれは「ジャズ」だと後からジャンル分けしたのだろうと感じました。彼は決してスタイルで演奏しない人だったし、形あるものを目指さない人でした。

──ハンク・ジョーンズから学ばれたことはたくさんあると思いますが、特に印象に残っている言葉やエピソードがあれば教えてください。

91歳でハンクが亡くなった日、僕はたまたま病室にいたんです。彼の最期の言葉が忘れられないですね。「家に帰って練習したい」と言い、僕の手を握りながら旅立ちました。

そういう師匠ですから、僕も生半可な気持ちでは音楽に向き合えません。神様のような人でさえそれほど謙虚な姿勢でやっていたわけですから、ジャズ、そして音楽への思いはいっそう真摯になりました。

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