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- 2016年12月09日12:00 / カテゴリ:海外の反応
- 外国人「自国が生み出した軍隊の陣形を挙げていく」海外の反応ツイート
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:25:53 No.41721222
(タイ)
君達の国が生み出した軍隊の陣形(military formations)って何?
boards.4chan.org/int/thread/41721222
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:26:18 No.41721232
(アメリカ合衆国)
砂漠の嵐
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:36:56 No.41731377
(イギリス)
↑これは実際はドイツの第二次世界大戦ドクトリンとソ連の冷戦ドクトリンに基いてる。
砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm) - 1991年1月17日から1991年4月11日にかけてのエアランド・バトル。
湾岸戦争
エアランド・バトル(英: AirLand Battle)とは、アメリカ陸軍が1982年から1990年代後期に渡り編み出した欧州での戦闘教義(warfighting doctrine, ウォーファイティング・ドクトリン)を基礎とする概念的枠組みの総体である。エアランド・バトルは積極的機動防衛を担う地上戦力と、敵軍の前線へ補給を行う後方部隊への攻撃を担う航空戦力とを緊密に連携させることに重点を置く。
エアランド・バトル
空地直協作戦はすでに第2次世界大戦においても用いられ、それが最も華々しく喧伝されたのはドイツ軍のポーランド進攻においてであった。「電撃戦」Blitz Kriegと汎称される戦術の一部を成すもので、目的地点をまず水平爆撃機もしくは急降下爆撃機(最も著名なものとしてスツーカJu87)が砲兵隊と協力して急襲し、それに同調して戦車と歩兵部隊が目標に突入することを基本とするこの戦術は、スツーカ急降下爆撃機の機体に取り付けられたサイレンの音と、500キロ爆弾によって、目標地点に在るポーランド軍に多大な恐怖を与えた。
このように空地直協作戦は地上作戦において有効性を発揮することができることが実証され、エアランドバトルもある意味ではその系譜を引くものであろうけれども、第2次世界大戦の時代と1990年では半世紀を経ており、戦争をめぐる様相は大きく異なっている。
エアランドバトルは「電撃戦」が実証した航空兵力の役割、即ち航空兵力は地上部隊の機動性に決定的な影響を与えるという事実を電子兵器と組み合わせ、かつ、たんなる教範の域を超えた一つの思想を持つ戦術教義(ドクトリン)へと発展させたものである。
エアランドバトルの起源
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:28:23 No.41721271
(カナダ)
ない。自分が知る限りネイティブが戦闘する時はお互いの事を殴りあっていただけ。
まあ第一次世界大戦時のカナダは戦術面でかなり独創的だったけど
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:47:56 No.41721598
(カナダ)
↑学校で俺達が「rolling barrage(移動弾幕射撃)」を生み出したって習ったのは覚えてる。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)13:03:10 No.41721889
(カナダ)
↑それ生み出したのは俺達じゃない。ただカナダ人(あと大英帝国の兵士一般)はこの運用方法がかなり優れていた。
まあカナダの公立学校で教わったってのは別に驚くような事でもないな。
学校じゃ世界におけるカナダの役割というものをあまりに大袈裟に言い過ぎてる。この国の連中の大半がカナダ人が月を歩いたことがあると信じていないことに驚くレベルで。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:45:40 No.41723496
(オーストラリア)
↑ドイツ人の将校は柔術を習わされていたし、フランス人はサバットをよく使ってた。
ただカナダ人にもこれに似たような事をしていたかどうかは知らない。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:42:06 No.41737533
(オーストラリア)
↑>>「フランス人はサバットをよく使ってた。」
ああ、スポーツとしてのサバットではなくて戦闘用のサバットね。
だからリングでは使えないような卑怯な手段もかなりあったし、フランスパン(french stick)やダガー/ナイフの使用も。
特定の地点を狙うのではなく、敵のあらゆる行動を妨害、無力化することを目的とし、戦線に対して横一列に並んだ砲撃を加える射撃である。この弾幕射撃を戦闘部隊の前進と速度を合わせて前方に狙いを変えていけば、前進弾幕を行うことができる。前進弾幕を的確に行えば前進する部隊は敵の反撃を受けることなく前進することが可能である。
弾幕射撃
サバット(Savate=フランス語で“靴”の意味)、またはサファーデ(英語読みはソバット)とは、カラリパヤットの「鳥(フラミンゴ)の型」を起源とし、古代ギリシアのキックボクシングから発展。その後、弾腿の脚術を元にして生まれた格闘技。
ブルボン朝時代にミッシェル・カスーによって体系化され、弟子のシャルルモン・ルクールによってフランスにおいて紳士の護身術として広まった。その後、フランス革命時には革命家たちにも広まった。南フランスでも、足技主体の武術「ショソン」があった。
サバット
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:33:41 No.41721350
(アメリカ合衆国)
スナイパー。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:39:03 No.41721447
(チリ)
↑米国陸軍の歩兵部隊も「陣形」に入るのか?
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:49:15 No.41721634
(ロシア)
↑は?
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:31:34 No.41726728
(フランス)
↑狙撃兵連隊が生み出されたのは南北戦争でだったと思う。
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)01:46:56 No.41742477
(アメリカ合衆国)
↑生み出されたのは独立戦争で。
ライフルにスコープをつけてネイティブのように木に隠れて。戦場の重要人物を排除するのに全力を出してた。
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)01:49:54 No.41742594
(フランス)
↑それなら既にフランスとインディアンの戦争で存在してた。
これは「ラスト・オブ・モヒカン」で見た。
1757年、独立前夜のアメリカ東部。植民地戦争が激化する中、コーラは、仏軍側に付くインディアンでマグア率いるヒューロン族に襲われる。しかし間一髪のところでモヒカン族の酋長チンガチェックと2人の息子、ウンカスとホークアイが救い出し、コーラの父で英軍を率いるマンロー大佐の待つ砦に送り届ける。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:35:17 No.41721378
(チェコ共和国)
ウォーワゴン。これは本質的にはAPC
ウォーワゴン (War wagon) とは、戦争に使われた重厚な馬車である。内部乗員は馬車で大砲や矢から身を守りながら、細いスリットから槍、弓、弩、銃等で攻撃を行った。また、キャンプを囲い機動的な要塞としても運用された。
時代や地域によって、Wagon Fort、ヴァーゲンブルク(Wagenburg)、洞屋?などとも呼ばれる。ウォーワゴンの運用で最も知られるフス戦争では、ボゾバ ハラドバ (チェコ語: vozova hradba) と呼ばれている。
古代には戦車(チャリオット)として戦闘用の馬車は存在したが、チャリオットは馬に牽引されて戦場を駆け回る機動戦力として運用されたのに対し、ウォーワゴンは戦闘時は馬を外す、移動可能なトーチカである点で区別される。
ウォーワゴン
装甲兵員輸送車(そうこうへいいんゆそうしゃ、Armoured Personnel Carrier, APC)は、車内に人員を乗せて走行する軍用車両。歩兵を載せることが多いため装甲兵員輸送車と訳されるが、文民を乗せることもあることや原語のPersonnelから、装甲人員輸送車と訳されることもある。類似する歩兵戦闘車(IFV)が積極的な戦闘参加を想定している事に対し、装甲兵員輸送車(APC)はあくまで輸送が主任務である。
装甲兵員輸送車
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:35:33 No.41721385
(メキシコ)
「The Mexican Stand-off」
《a ~》互いに武器を向け合ったまま誰も動けない状態、三すくみ、にらみ合いのこう着状態◆複数(特に3以上)の当事者が相互に武器を向け合い、それぞれが「自分が攻撃を開始すれば、自分も攻撃されて助からない。かといって、武器を引っ込めればすかさず攻撃される」と考えるため、誰も身動きが取れない状態。
Mexican standoff
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:37:07 No.41721409
(ロシア)
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:35:11 No.41726807
(フランス)
↑これはもっと評価されるべきコメント
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:26:52 No.41731137
(オランダ)
↑笑ったw
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:28:08 No.41731160
(イタリア)
↑爆笑
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:36:34 No.41737345
(フィリピン)
↑自分が知る限りこれを最初にやったのは中国
Zerg(ザーグ)とは、Blizzard Entertainment社の制作したRTSゲーム「StarCraft」シリーズに登場する、超文明種族によって造られた有機生命体種族。
その大群で押し寄せ蹂躙する戦闘スタイルは有名で、英語圏ではStarCraft以外の場でも「Zerg」「Zerg戦術」といえばどんな戦い方なのかが通じるほどその存在が浸透している。
単体のユニット性能は低いが、数さえそろえれば相手の小細工を蹂躙するだけのポテンシャルがあり、真っ黒い“波”のような群れが敵部隊を粉砕して進軍する様は「戦いは数だよ兄貴!」と総帥に憤った将校の台詞を体現するカタルシスを感じられるシーンといえよう。
単語記事: Zerg
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:37:44 No.41721424
(アメリカ合衆国)
核兵器
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:40:19 No.41721471
(ロシア)
空挺部隊
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)12:47:15 No.41721586
(ポルトガル)
大半の陣形はとある特定の一か国だけによって生み出されたものではないと思う。
陣形は戦争には欠かせないものでどこか一つの所から現われてくるものでもないしね。
V字陣形は「最近」の陣形だから、どこが発祥かは簡単に分かるんじゃないかね。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:03:55 No.41722855
(アメリカ合衆国)
スナイパー
ゲリラ戦
衝撃と畏怖(Shock and Awe)
V翼
ドローン部隊
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:08:41 No.41726221
(アメリカ合衆国)
↑>>「衝撃と畏怖(Shock and Awe)」
アメリカ人であることを誇りに思うね。ほとんど戦争犯罪だろこれ。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:25:00 No.41726575
(イギリス)
↑>>「衝撃と畏怖(Shock and Awe)」
まーたアメリカ人の教養の程度が露呈したのか。お前「電撃戦」って聞いたことある?
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:45:20 No.41739777
(アメリカ合衆国)
↑何でヨーロッパ人ってこんなに馬鹿なわけ?
「衝撃と畏怖」と「電撃戦」は違うだろ。
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:52:22 No.41740071
(フランス)
↑どっちも陣形じゃないだろ。つまりお前ら両方馬鹿ってことだ。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)19:20:44 No.41729419
(スペイン)
↑>>「ゲリラ戦」
おいおい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Guerrilla_warfare
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)01:53:41 No.41742727
(イギリス)
↑ゲリラ戦はボーア人。
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)01:54:42 No.41742762
(フランス)
↑実際はスペイン人な。
「Shock and Awe(衝撃と畏怖)」は(「衝撃と恐怖」と訳す人もいますが)、2003年の米国のイラク戦争での軍事作戦名でもあります。もともとは軍事用語で、「急速なる優位性の確保」、圧倒的な力の差を見せつけて敵の戦意喪失を狙う戦争の一技術(戦術)です。Harlan K. Ullman 及びJames P. Wadeによって教義化されました。
Shock and awe -> Sock and awe
1808年からのスペイン独立戦争でナポレオン軍に抗して蜂起したスペイン軍やスペイン人民衆の採った作戦を、ゲリーリャ(guerrilla、 guerra「戦争」+縮小辞-illaで「小さな戦争」を意味するスペイン語の単語)と呼んだのが、ゲリラの語源である。ただし、戦術としてのゲリラ戦 は、この語が生まれる以前の古代から存在していた。
ゲリラ
ボーア戦争(ボーアせんそう、Boer War、Anglo Boer War)は、イギリスとオランダ系アフリカーナー(ボーア人あるいはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った、二回にわたる戦争。南アフリカ戦争、ブール戦争ともいう。
英国は1900年9月までにトランスヴァール北部を除く両方の共和国を管理していた。しかし、彼らは分隊が物理的に存在する間を制御するのみであった。分隊が町または地区を去るとすぐに、その領域での英国の制御は消えて行った。25万人の英国軍兵士では2つの共和国が有する巨大な領域を効果的に制御するのは不可能であった。英国軍の分隊同士に巨大な距離があるため、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド部隊)はかなり自由に動き回ることができた。ボーア人指揮官も、ゲリラ戦のスタイルを採用することに決めた。
特別攻撃隊は、いつでも英国人に対し攻撃してよいとの命令を与えられており、各人の出身地区に派遣された。彼らの戦略は、敵に可能なかぎりの損害を与え、敵の増援が到着する前に移動するというものであった。西トランスヴァールのボーア軍特別攻撃隊は、1901年9月以後非常に活発に活動した。
ボーア戦争
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:16:57 No.41723037
(アメリカ合衆国)
虐殺と褐色の肌の人間に対する爆撃
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:08:14 No.41726210
(イギリス)
↑それを生み出したのはお前らじゃないぞ。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:19:07 No.41723063
(スペイン)
テルシオ
ゲリラ
テルシオ(Tercio)は、1534年から1704年にかけてスペイン王国が採用した軍事編成。あるいはまた、その部隊の戦闘隊形。単に戦闘隊形を指す場合はスペイン方陣(英語:Spanish square)とも呼ぶ。テルシオの編成や戦闘隊形は、17世紀初頭までヨーロッパ各国で盛んに模倣された。
1534年、スペイン軍は3つ(西:tercero=英:third)の部隊をイタリア半島に送った。テルシオ(Tercio)という名称はこのとき初めて出現するが、このように3つに部隊を分けたことに由来すると考えられる。部隊にはそれぞれ、Lombardia(ロンバルディア)、Napoli(ナポリ)、Sicilia(シチリア)、という呼称がつけられた。
1568年のハイリヘルレーの戦いの図。槍兵方陣や大砲など、当時の軍隊が描写されている。画面右がスペイン軍のテルシオである。
テルシオ
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:27:07 No.41723210
(アメリカ合衆国)
核攻撃陣形
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:35:18 No.41723342
(ギリシャ)
スレ主が貼ってる奴がそれ
ファランクス(古代ギリシャ語: φ?λαγξ、phalanx)は、古代において用いられた重装歩兵による密集陣形である。集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。
重装歩兵が、左手に円形の大盾を、右手に槍を装備し、露出した右半身を右隣の兵士の盾に隠して通例8列縦深程度、特に打撃力を必要とする場合はその倍の横隊を構成した。戦闘経験の少ない若い兵を中央部に配置し、古兵を最前列と最後列に配したが、右半身が露出することから、特に最右翼列に精強兵が配置された。
ファランクス
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)14:53:36 No.41723649
(ポーランド)
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:23:39 No.41731056
(クロアチア)
↑ユサールのオリジナルってトルコに敗北したセルビアから逃げてきたセルビア人によるものじゃなかったっけ?
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:30:38 No.41731224
(リトアニア)
↑ポーランドのユサールは重騎兵。セルビアのは軽騎兵。
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:36:28 No.41739429
(アメリカ合衆国)
↑ユサールは多分ポーランドが生み出した非技術的なものではトップクラスのものだと思う。
ユサール (フザール、ハサー、英: Hussar、仏: Hussard、独: Husar)は、近世の軍隊における騎兵科の兵職の一つ。
15世紀のハンガリーにて発祥し、華麗なスタイルと勇猛さで名を馳せた。ポーランドではより華美を極めた有翼重騎兵(フサリア、波: Husaria、英: Winged Hussar)として発展した。
1389年のコソボの戦いで敗北しハンガリーに逃れたセルビア人貴族が、ユサールの起源であるといわれている。その後ユサール騎兵隊として編成された彼らは、ハンガリー王マーチャーシュの治世の間オスマン帝国の精鋭騎兵と互角に戦い、その勇猛さを内外に知らしめた。王の死後、オスマン帝国の圧力に押される形で、ユサールの多くは傭兵としてオーストリアなどの周辺の国へ散らばっていった。
ユサール
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)15:02:19 No.41723792
(チェコ共和国)
ウォーワゴン
ウォーワゴン陣形
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)16:53:56 No.41725920
(フィンランド)
モッティ戦術とか?
http://en.wikipedia.org/wiki/Salients,_re-entrants_and_pockets#Motti
モッティ戦術(もってぃせんじゅつ)とは、第一次ソフィン戦争(冬戦争)時に圧倒的戦力を持った重装備のソ連軍(赤軍)に対して、フィンランド軍が行った包囲(モッティ)・撃滅作戦のことである。
開戦当初、ラドガ湖の北でソ連軍は電撃的な速度で進撃を続けていた。フィンランド軍は国境での防衛を断念し内地へ潰走していった。カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、急斜面の森に挟まれて細く長大な進軍路を進軍し続けてきた事でソ連軍が実質分散していることに気付いたパーヴォ・タルヴェラ大佐に予備兵力を与え、奇襲攻撃を加えた。快進撃にすっかり油断していたソ連軍は、小軍団に分断され後方との補給を絶たれた。これが最初のモッティ戦術実践であった。
その後スキーを履き、装備も雪の色と同調させたフィンランド兵が、後方との連絡を絶たれたソ連軍を側面(進軍路両脇・積雪状態の斜面の森)より逐次奇襲した。こうしてフィンランド軍はソ連軍の各個撃破に成功した。
敵の弱点を突いて敵を混乱に陥れる、という面から言えばモッティ戦術は一種のゲリラ戦と言える。
モッティ戦術
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:08:09 No.41726208
(アメリカ合衆国)
戦闘機の戦闘や戦車に関するものが大半だと思う。
僕は軍事専門家ではないんでね。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:19:21 No.41726452
(スペイン)
矛と銃撃(Pike and shot)
※関連
https://en.wikipedia.org/wiki/Pike_and_shot
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:19:49 No.41726463
(ハンガリー)
ユサールと軽騎兵が廃れるまで使用
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:20:36 No.41726485
(スウェーデン)
「矛と銃撃」陣形
http://en.wikipedia.org/wiki/Pike_and_shot#Seventeenth_century:_Swedish_innovations
「Gå på(進撃)」陣形
http://en.wikipedia.org/wiki/Caroleans#Tactics_and_formations
みんな陣形の重要性を過小評価してる。
スウェーデンのようなクソみたいな国でも大国にのし上がれたのはより良い技術を使用したことによって
スウェーデン歩兵は前進の命令が下されると、静かに歩き始めるのが通例だった。当時は戦闘前や戦闘の最中においても、兵卒間で私語が交わされることもしばしばだったが、彼らはほとんど口をつぐみ、喊声すら上げなかった。ただ聞こえるのは、鼓手の奏でる一定の音律と幾千もの軍靴が地を踏みならす音、装具と銃そして剣が擦れ合う鉄の響きであったと言われている。この敵前における静寂の前進は、軍律が保たれている証拠として良く言及されるが、その一方で相手を怯ませ恐れさせる効果も見込まれていたと言われる。
この前進は、敵の横隊との距離が70歩になるまで続いた。そしてこの距離になると、スウェーデン軍の4列の横隊の内、後ろ2列が少し前に進み出て、横列間の距離を縮め、一方で前の2列は身をかがめた。そしてその直後、後ろ2列が一斉射撃を行い抜剣、前2列も姿勢を正し足並みをそろえて前進を再開し、自らが作った白い硝煙を抜けて、敵との距離が30歩になるまで、整然と進んだ。そして敵間距離30歩で再び停止したスウェーデン歩兵の前2列は水平に銃を構えて一斉射撃を行った。この前進においてスウェーデン軍歩兵は繰り返し「銃剣が敵に届くまで」あるいは「敵兵の白目を識別できるまで」近付かなければならないと教え込まれており、驚くべき事に、良く訓練されたスウェーデン歩兵は、列を乱さずにそれを忠実に実行出来た。そしてこの至近距離からの規律を保った一斉射撃に耐えられる敵は、当時ほとんど存在しなかった。
至近からの銃撃は、敵の戦列を大きく乱したと推測される。これに対しスウェーデン歩兵は士官からの"Ga Pa!" [fall on!]との命令を受けるや、突撃を開始。槍兵は槍を前に倒し、銃兵のある者は剣を抜き、あるいは銃剣を付けたマスケットを構えて、混乱する敵の横隊を突破し、これを壊乱させた。
歩兵の編制と戦術
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:28:55 No.41726667
(ポーランド)
スナイパーはアメリカ人じゃなくてイギリス人
「衝撃と畏怖」はアメリカ人じゃなくてドイツ人
ゲリラ戦は古代から知られてる。アメリカ人によるものじゃない。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:30:22 No.41726699
(オランダ)
陸地を水没させて艦隊を陸地内部に引き入れる
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:36:59 No.41726847
(オランダ)
↑スペイン人がオランダを攻撃して都市を包囲した時オランダは都市の周りを水没させて艦隊を都市に引き入れた。
けどオランダ海軍が都市に入るころにはスペイン人は水没のせいで既に撤退したあとだったから結局オランダは艦隊で物資を補給するだけになった。
1574年、八十年戦争(オランダ独立戦争)で、最大の攻防戦といわれる。ライデン市はスペイン軍に包囲され、飢餓と伝染病に苦しみながらも、オラニエ公の奇策によりスペイン軍に勝利した。
1573年、オラニエ公側(独立軍)の多くの町が敗退もしくは降伏していた。ライデンが陥落すると、アムステルダム以南はデルフトとロッテルダムが残るのみとなり、ライデンの戦いはまさに存亡の分岐点であった。
1574年スペイン軍はアムステルダムから進軍、ライデン市を包囲し、封鎖した。オラニエ公はライデンの南方の堤防を破壊して、海水を引き込んでスペイン軍を分断し、その隙に食料や物資を運び市民を救出するという作戦を提案する。しかし、海水が引き込まれた農地はだめになってしまう。それでも農民は、「自分たちの土地をスペインに奪われるくらいなら使えなくしてしまったほうがいい。」と作戦に賛成、オラニエ公は沼地を農地に戻すための長期償還債権発行を提案し、作戦を実行した。
しかし、海水が浸水するまでには時間がかかり、(オランダの堤防は決壊しても被害が最小限になるように設計されているため)ライデン市民は餓死寸前だった。また、ペストが流行し、市民の3分の1の人口にあたる、184人が死亡した。 そこに、[神風]ともなる西風が10月2日から3日にかけて吹き、北海の荒波が一気にライデンに押し寄せた。浸水は急激に進み、スペイン軍はパニックに陥り撤退した。
ライデンの戦い
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:31:42 No.41726732
(オーストリア)
うちの軍隊は何も生み出してない。
何故かというとハンガリー人兵士はドイツ語を学ぶことを拒絶してオーストリア人はハンガリー語を学ぶことを拒絶したから。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)17:46:13 No.41727051
(オランダ)
これなんか僕のお気に入りのオランダ海軍「歩兵」陣形
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)18:08:07 No.41727523
(トルコ)
この人物が十進法制度を生み出した(十人の兵士→百人→千人→万人)
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)18:11:12 No.41727603
(オランダ)
↑誰このフィンランド人?
※海外掲示板ではフィンランド人は良くモンゴル人の血が流れているとネタにされています。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)18:38:13 No.41728395
(トルコ)
↑「Motun Khan」。あとおそらくは伝説的な「Oghuz Khagan」でもある。
冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう、ピン音: Mòdú Chányú; 注音符号: ㄇㄛˋ ㄉㄨˊ ㄔㄢˊ ㄩˊ、生年不詳 - 紀元前174年)は、秦末~前漢前期にかけての匈奴の単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)。「冒頓」は名であり、「単于」とは匈奴の言葉で君主を指し、漢語で言うところの王・皇帝に相当する。また「冒頓」とはテュルク語やモンゴル語の「勇者」を意味する「バガトル」の漢字音写、との説がある。
冒頓単于
トルコ民族の間に伝えられた,オグズ・ハーンOghuz Khān(オグズ・カガンOghuz Qaghan)なる人物を主人公とする伝説・説話ないし英雄叙事詩。
【オグズ・ハーン伝説】より
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)18:51:43 No.41728760
(スペイン)
1537年に海兵隊。「Compañías Viejas del Mar de Nápoles」という名称で。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)18:55:30 No.41728856
(スペイン)
↑あと塹壕戦も
中世ヨーロッパの艦船には敵の船体を破壊するような艦載砲は装備されておらず、初期の海軍は実質的に陸上部隊を運ぶ輸送船団であり、この時代の海戦とは兵士を乗せた船同士が遭遇した際に行なわれる接舷戦闘であった。艦船に大口径砲が装備されて水上艦同士の砲撃戦が行なわれるようになり、海軍が常設の海上戦闘組織になると、接舷戦闘や目的地での上陸戦闘を行なうために、陸軍が艦船に配属する専用部隊を設けたり、海軍が歩兵部隊を組織するようになった。これが海兵隊の始まりである。
世界で最も古い歴史を持つのは1537年設立のスペイン海兵隊である。
海兵隊
世界初の塹壕戦は627年に中東で行われたハンダクの戦いと言われている。この時の塹壕は騎兵を防ぐ障害物としての壕で敵騎兵の攻撃を防ぐことに成功している。世界初の塹壕を掘ったのはペルシャ人のサルマーン・アル=ファーリスィーで、アラブ諸国の軍隊では世界初の工兵とされている。
塹壕
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)18:54:31 No.41728833
(スペイン)
海兵隊(アメリカ人には申し訳ないけどレパントと比べたら沖縄は冗談みたいなもの)、テルシオ、ゲリラ。
レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。
スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。
レパントの海戦
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)19:25:17 No.41729529
(イギリス)
「歩兵方陣(infantry square)」
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)19:27:25 No.41729584
(スイス)
「矛方陣(pike square)」
http://en.wikipedia.org/wiki/Pike_square
スイスが戦争に卓越していた時に発展した。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)19:46:28 No.41730080
(フィンランド)
イタリア人が誰もこのスレでテストゥドや他のローマ軍の陣形を自国の功績に挙げてなくて残念。
それに関する冗談を書き込むつもりだったのに。
テストゥド(羅:Testudo)とはローマ軍の歩兵戦術のひとつ。歩兵集団が密集した隊列で盾(スクトゥム)を前方、上方に掲げつつ対峙、移動する戦術。主に騎兵に対する防御あるいは攻城戦での突撃に用いられた。
『テストゥド』という言葉がラテン語で「亀」という意味である。その名の通り歩兵が互いに重なり合うほどに密集し、盾を掲げた姿は亀のようで、また行動も亀のようにゆっくりとしていた。
テストゥド
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:24:03 No.41731070
(イギリス)
矢の大量射撃
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:25:27 No.41731103
(フィンランド)
↑全員黒人か。そしてイギリス。そうだな、うん。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:40:04 No.41731454
(イギリス)
↑これ鎧だと思う。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:29:37 No.41731197
(トルコ)
これも数に入る?
関連記事
「カンナエの戦いのような兵数で劣る軍が大軍を破った戦い」海外の反応
カンナエの戦い(カンナエのたたかい)は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。第二次ポエニ戦争における会戦の一つで、ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上名高い。2倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利であった。
カンナエの戦い
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:34:24 No.41731310
(イギリス)
ゲリラ戦術って言葉自体はスペイン人に関して生まれたものだけどこの戦術を生み出したのはスペイン人じゃない。
有史以前から存在していた戦術。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:35:44 No.41731342
(リトアニア)
↑これ。大抵の反乱軍はこの「ゲリラ戦術」を使ってた。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:41:23 No.41731493
(フランス)
電撃戦(ナポレオンによって生み出された)
空軍(1909年にフランスが生み出した)
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:44:48 No.41731595
(オーストラリア)
↑電撃戦を生み出したのはナポレオンじゃない。フリードリヒ2世の頃からプロイセンで実用されてた。
それに初めて航空機が他の航空機によって撃墜されたのは日本の航空機で、撃墜したのはドイツの航空機
普仏戦争後、フランスは再度ドイツと交戦準備をしている中で、1909年12月よりフランス陸軍省は軍人に航空訓練を受けさせ始めた。1910年3月に航空軍事訓練所(Etablissement Militaire d'Aviation)が設立され、航空機の軍事使用の実験が行われた。同年10月22日に世界初の軍事航空隊(Aeronautique Militaire)が組織された。
フランス空軍
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:49:15 No.41731727
(オーストラリア)
エミュー
開拓が進むと,この鳥は畑をふみ荒らし,穀物を食べ,柵を倒し,羊のための水を盗むという理由で,害鳥として駆逐されることになった。とくに1932年には,エミュー退治に軍隊が出動し,〈エミュー戦争〉をひき起こした。
この戦争はエミューが分散したので完全な失敗に終わり,防柵をはりめぐらして畑を守ることになったが,60年代になってもエミューの殺害には奨励金が支払われていた。
エミュー戦争
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)20:56:18 No.41731943
(フィリピン)
うちの植民地以前の先祖は麻薬の影響下にある状態で敵に突撃してた。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:11:31 No.41736455
(日本)
万歳(BANZAAAAAAAAI)
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:12:24 No.41736489
(カナダ)
↑
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:14:25 No.41736558
(カナダ)
カナダが装甲兵員輸送車を生み出した。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:26:54 No.41736992
(イギリス)
横隊>それ以外の陣形
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:37:45 No.41737381
(フランス)
↑方陣>横隊
これとか方陣の優れてるところが分かる。
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:40:00 No.41737468
(イギリス)
↑>>ワーテルローの戦い
横隊>方陣
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:47:01 No.41737699
(フィリピン)
↑横隊と砲兵が組み合わさって方陣を壊滅させてから方陣は廃れたと思ってたんだけど?
タボル山の戦い(タボルさんのたたかい、フランス語: Bataille du Mont-Thabor)は、1799年4月16日、クレベール将軍率いるフランス軍と、ダマスカスのパシャ率いるオスマン帝国軍との間で行われた戦い。
当時ナポレオンはアッコを包囲しており、ダマスカスはその包囲を解くために軍を派遣した。アッコ南方に進出したクレベールは、オスマン軍が圧倒的多数であることを知りながら、それを阻止することを決意し、戦闘に突入した。
フランス軍は2つの方陣を形成して8時間の間戦ったが、ついに弾薬が底をついた。オスマン軍が勝利を得ようとしたその時、ナポレオンが2,500名の兵士と2門の大砲を引き連れて増援に到着した。最悪の事態がいままさに起きようとしていることを見てとったナポレオンは、ただちにオスマン軍の側面を攻撃した。不意を突かれたオスマン軍は混乱し、ついに退却した。
タボル山の戦い
Comment by Anonymous 05/15/15(Fri)23:58:20 No.41738095
(リトアニア)
こういうパヴィス盾はリトアニア/プロイセンから来たもので後にポーランドや神聖ローマ帝国とかにも広まった。
陣形はうちらは生み出したりしてない。
体全体を防護する大きくて重い長方形の盾
pavise
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:01:19 No.41738204
(フィリピン)
自分が知る限りじゃポーランドのユサールは重騎兵とするには軽すぎるし、軽騎兵とするには重すぎる。
だから・・・中騎兵?
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:05:46 No.41738331
(ポーランド)
↑むしろ槍騎兵。ユサールの戦術は空いての陣形が壊滅するまで突撃することにあるから。
ウィーンの戦いじゃオスマントルコが陣形を崩すまでユサールは六回突撃してる。
17世紀後半の第二次ウィーン包囲はその後のヨーロッパの運命を決める戦いであったが、フサリアの長所が存分に発揮された典型例である。ヨーロッパ連合軍がウィーン郊外の丘の上に陣取ると、連合軍総司令官であるポーランド国王ヤン3世が率いるフサリア3000騎が、ウィーンを陥落すべくこれを包囲していたオスマン・トルコ軍15万に対する中央突撃を敢行、敵の総司令官カラ・ムスタファ・パシャのいる本陣まで一気に縦深し大混乱に陥れ、たった1時間でトルコ軍全軍を散り散りに敗走させている。
ユサール
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:39:00 No.41739518
(アメリカ合衆国)
俺達は軍隊の陣形は何も生み出してないけど、陣形を生み出した国よりその陣形を上手く活用できる。
Comment by Anonymous 05/16/15(Sat)00:44:22 No.41739737
(フィンランド)
↑空母を思いついたのはアメリカ人だと思うけど実際に稼働する空母を最初に建造したのはイギリス人。
ただこのコンセプトを最初に試したのはアメリカ人だから半々だと思う。
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(ポルトガル)
大半の陣形はとある特定の一か国だけによって生み出されたものではないと思う。
陣形は戦争には欠かせないものでどこか一つの所から現われてくるものでもないしね。
V字陣形は「最近」の陣形だから、どこが発祥かは簡単に分かるんじゃないかね。
言おうと思ってたが書いてあった
キキーッ!どおぉーーーんッ‼
「ニイちゃん道のド真ん中でパンツおろしてナニやってんの!あ?弾幕うすい?うすいのはニイちゃんのアタマだろ?」
日本の場合はもう難民は完全に入り込んでるし、
後は外国人参政権と人権擁護法ヘイト規正法で乗っ取り完了。
実際は8種類じゃなかったそうなのに
後の兵法書で8陣が作られてしまったようだ
それにアメリカやドイツもやってたりする。
日露戦争の時に、前例がないなか、ほとんどその場でやり始め、野戦砲兵の観測、陣地転換、射撃技術の草分けは日本陸軍だったりする。
日露戦争を境に歩兵操典とかの教本ががらっと変わる。
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パイクによる密集方陣(スイス)とか反転行進間射撃(オランダ)とかは発祥地を主張してもいいと思うけどね
「俺達は軍隊の陣形は何も生み出してない」と言っているアメリカ人がいるけど
散兵戦術が正規軍の陣(形はないが)として効果的であることを証明したのは独立戦争時のアメリカのはず
その後の歴史的展開を考えるとこれは誇っていいんじゃなかろうか
V字陣形と鶴翼
は別のもの?
中国の三国時代や日本の戦国時代の陣形は事実と創作相半ばしてるから
車懸かりの陣とか名高い陣形でも本当にやってたかどうか怪しいのいくつかあるのよね
個人的にはフィクション確定の上大した活躍してないけど名前だけなら八門金鎖の陣が好きです
なんとなく広く散らばっている:鶴翼
主将を中心にまとまっている:魚鱗
前後に長く散らばっている:鋒矢
なんてレベルでしかなかった模様
あれは実は史実じゃなかったとか言われてるんだっけ?
自爆攻撃って、かなり古くからある戦法だよね…そして陣形でもないw
再現するにあたり、弾の装填に意外と時間が掛かって次!はい次!とテンポ良く行かないという事で伝えられている様には出来ないって事だったかと。
捨てられる側も肯定して全力出してたのは珍しいケースだと思う。
主力空母と高速護衛艦艇群による輪形陣を挙げよう。
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は大日本帝国海軍が実証したと言っていい。
玉砕は古今東西あるけど(有名なのだとバリのププタンとか)
自「爆」攻撃ができるようになるのは
火薬の発明またないといけないからそんなに歴史ないんじゃないかな
日本だと松永久秀が自爆した最古の人物だろうけど
自爆攻撃した最古の人物は一体誰だろうかね
爆弾三勇士?
その車ってもしやこういうやつでしょw
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※19
戦国時代の陣形って、「一方が鶴翼ならもう一方は魚鱗」が定型になっている。
たまに蜂矢の陣なども出て来るけど、ああいうのは軍配(軍師)が占いで「この方角に進軍するなら五行説から見て……」と判断しているもので、現代人から見た実用性は考慮していない。
当時の人間の実用性はあったので、馬鹿に出来ないけど。
※20
篭城側が絶え間なく撃っていたという話はあるので、装填(複数)と射手が分かれて実用性を高めること自体は当時もあっただろうけど、機械的な入れ替えは現実的ではない。
戦前に陸軍が定説化したけど、同じく陸軍が広めた有名な関ヶ原布陣図(メッケルが見たというのは都市伝説)、大坂の陣布陣図は近年の研究で明らかに同時代史料と整合性がとれないことが指摘されている。
※31
意図せずして帰還前に爆発した事故死という説がある。
しかし、念の為検索して見たらこの時も小笠原長生が喧伝しているのか。どこにでも出て来るなこの人。
「捨て奸は陣形に入りますか?」
万歳アタックを出した日本人にはがっかりする
アメリカ・カナダ合同で日本軍のいる島を包囲掃討。
近海の敵艦隊に攻撃を加え、島に缶詰めにし、艦砲射撃で叩いて、アメリカとカナダで別れて上陸し、掃討する。
実に素晴らしい包囲陣形だった・・・日本軍がいればな!w
アメリカ兵「敵だ撃て!」カナダ兵「敵だ撃て!」