日本の社会で自殺はどう捉えられてきたのか
[レビュアー] 西田藍(アイドル/ライター)
近代以前の日本では、「自害」「捨身」「心中」「相対死」「切腹」「殉死」など、自殺は手段や様態に応じて、記録されてきたという。
本書で取り上げるのは、「厭世死」「生命保険に関わる死」「過労自殺」「いじめ自殺」という4つの事例だ。
序章によると、今行われている自殺予防対策は、自殺が本人の意志による選択であることを否定しているのだという。「自殺は社会の努力で避けることのできる死」(「自殺総合対策大綱」)と定義され、自殺者の80%から100%が精神障害だという2000年のWHOの調査もある。
貧困、病苦、精神錯乱。こうした外的要因が自殺の原因とされていた20世紀初頭、藤村操の死をきっかけに「厭世自殺」が流行したことが、「自ら望んだ結果としての死」という自殺の定義が社会に受け入れられていく大きな転換点であったと、第1章は指摘している。その一方、西洋から入ってきた精神医学が、自殺の「医療化」を進めたようだ。
私が注目したのは第3章「自殺を補償する」、第4章「自殺を予見する」でそれぞれ取り上げた「過労自殺」、「いじめ自殺」の対比である。
91年の「電通過労自殺裁判」をきっかけに、〈過労→精神障害→死〉という理論構成で、過労自殺において、本人の意志は免責される。労災認定され、企業責任が問われるようになった。元々、自殺も精神障害も日本ではスティグマとして忌避の対象だったが、過労自殺は精神医療化されたのだ。
しかし、「いじめ自殺」の場合は逆なのだ。遺書など、死んだ児童本人の意志が重要視される。だからこそ学校に自殺の責任を問う裁判では、自殺の予見可能性が争われる。法廷でいじめと自殺は、まだ、結びついて当然だと思われていないのだ。
「自殺」は社会の中に確実に存在する事象だ。どこまでも「事後の対応者」でしかない我々社会は、今後、どう「本人の意志」を扱っていくのだろうか。