歴史に関する質問は大歓迎
こんにちは、秋吉妙香です。
今週も三国志末期を語る時間がやって参りました。
曹丕(そうひ)に少々触れたところ、次のようなコメントをいただきました。
【動乱の中国史・その1】漢王朝最後の皇帝と諸葛孔明は同じ年に亡くなっていた - フィーライン・アイズ
今回のお話では曹丕の非情だけど礼をわきまえていたという人物像に興味を持ちました。その曹丕と劉備や孫権とのやり取り関係を知りたいと思います。
2016/10/24 23:44
たなかあきら(id:t-akr125)さん、ありがとうございます。
曹丕(そうひ)は非常に興味深い人物なんですよ。
では、リクエストにお答えして三国鼎立の背景と、
魏の一族について書いて行きますね。
他の皆さんも「この人について知りたい」とか、
「この戦について説明してください」など、
三国志末期に関する質問を投稿していただけるとうれしいです。
私にわかる範囲であればお答えしますので、
お気軽にブコメやメッセージを送ってください。
漢の滅亡と三国鼎立
光武帝・劉秀が再興(後漢)してから200年ほど経っていましたが、
皇帝の求心力がいちじるしく低下したため、
政治が腐敗して民衆からの支持を失っていたんです。
各地の群雄を割拠させるキッカケとなり、
これによって事実上、漢は滅亡してしまいました。
曹操は彼を庇護するという名目で、政治の実権を握りました。
彼の官爵は丞相⇒魏公⇒魏王と登って行ったんです。
ところが、皇帝即位まであと一歩というところで死んでしまったので、
息子である曹丕が後継となって、新しい王朝を建国しました。
ただし、表向きは家臣達から禅譲するように上奏し、
家臣達に重ねて禅譲を促されるという形を取った。
18回辞退したのちに、初めて即位した。
文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国土を安定させた。
蜀と呉の動き
これに激怒したのが劉備でした。
彼は曹丕に対抗して即位(昭烈帝)し、蜀を建国します。
彼は「漢中王」として益州(現在の中国四川省付近)にいたんですが、
なんとしてでも彼らを打倒したいという思いがありました。
そこは劉備の所領の生命線ともいえる地域でした。
しかし、勢力拡大を狙う呉の孫権も、荊州への進出を考えており、
両軍は支配権を巡って対立を深めてしまいました。
劉備の勢力が伸びることを苦々しく思っていたんです。
曹操の本拠地まで迫る勢いでした。
だから地盤である荊州を失うわけには行かなかったんですよ。
孫権の配下の中には分割統治を提案する者もいて、
強硬な関羽はそれをきっぱり断ってしまいました。
すでに和議を結んでいた孫権を利用して、
関羽を背後から攻撃させる策を提案します。
荊州南部の統治を認めるというものだったので、
この条件を受け入れて曹操に協力しました。
呂蒙(りょもう)に捕らえられて処断されてしまったんですよ。
劉備にとって不幸だったのは、
これ以前にもうひとりの義兄弟の張飛が、
待遇に不満を持っていた部下によって殺害されていたことです。
しかも彼らは、孫権軍に逃げ込んでいたんですよ。
あいつづく孫権の不義理なやり方に激怒しました。
彼は大軍で親征し「夷陵(いりょう)の戦い」を仕掛けます。
しかし、孫権軍の知将・陸遜(りくそん)の火計に大敗をしてしまい、
義兄弟たちの仇を取ることはできませんでした。
在位2年ほどで亡くなってしまいました。
魏より呉王に任じられていた孫権は、
曹丕が死んだ3年後の229年に皇帝となり、
ここに「魏・蜀・呉」の三国が誕生したんです。
「蜀漢(しょっかん)」と呼ばれることがあります。
魏 : 220-265
蜀 : 221-263
呉 : 222-280
曹丕と曹植
母の卞氏(べんし)は歌妓出身で、もともとは側室でした。
その原因は敵方の女性と一夜をともにして、
守りの脇が甘くなったからなんです。
有能な重臣までもが討ち死しました。
これを聞いた正室の丁夫人は、
「私の可愛い息子を殺した」と激怒します。
曹操は謝罪して関係の修復を申し出るんですが、
丁夫人が嫌がったため、二人は離婚となってしまいました。
このため側室だった卞氏が正室として取り立てられました。
若くして亡くなったので、曹丕が実質的な長男になったんですよ。
曹丕は若い頃から才気に溢れた人物で、
8歳で巧みに文章を書き、11歳になると父に従軍しました。
とくに文に関しては「典論」を著すほどで、
『文章は経国の大業にして不朽の盛事なり』と言っています。
現代語に訳すと次のようになります。
【文学は国を治めるのに匹敵する大事業であり、
未来永劫にわたって朽ちることはないのである】
彼が即位後に「文帝」と呼ばれたのは、
文章に対する並々ならぬ情熱があったからなんでしょう。
でも、曹丕には強力なライバルがいたんです。
それは母を同じくする弟の曹植でした。
彼は詩を作ることに関して抜群の才能がありました。
「詩聖」と称えられる人です。
部屋の中を七歩進んだだけで、
一編の詩が作れたという天才でした。
曹植を後継者にしようと考えることがありました。
どちらを次の君主にするかで、激しい暗闘があったんです。
でも、「長幼の序」を乱してはいけないという重臣の進言があり、
一件落着をはかりました。
さらにこの兄弟の対立には、こんな興味深い背景があるんですよ。
三国志のカインとアベル
この絶世の美女は曹丕の最初の妻の甄氏(しんし)です。
彼女は冀州(きしゅう・現在の河北省)の出身で、
父は県令を務める名門の令嬢でした。
縁あって袁紹(えんしょう)の次男の袁煕(えんき)に嫁ぎますが、
この時、城に攻め込んできた曹丕に見初められて、
そのまま連れ去られてしまったんです。
曹丕は甄氏を熱愛して一男一女を儲けるんですが、
困ったことに弟の曹植が彼女に心惹かれてしまったんですよ。
曹植は兄嫁への叶わぬ想いを、
「洛神賦(らくしんふ)」という詩にしたためるんですね。
この詩の主人公は、
都にある洛水(黄河)のほとりを散歩している時、
美しい川の女神の姿を見て恋をしました。
この主人公が曹植で、川の女神が甄氏だといわれています。
妻と弟の仲が「あやしいのではないか」と思いました。
ただ、これには異説もあって、
後世の創作じゃないかと言われています。
甄氏の悲劇的な最期
でも、曹植とのことがなかったとしても、
曹丕と甄氏の夫婦仲はギクシャクしていたんです。
昔の君主はいまのように一夫一婦制ではありませんから、
曹丕は甄氏のほかに側室を次々と迎えました。
山陽公(もと漢の献帝)の二人の娘も後宮入りしましたが、
その中で大きな力を持ったのが郭氏(かくし)でした。
彼女は低い家柄の出身で、
もともとは一介の侍女だったんですが、
その美貌と才知を曹丕に気に入られ、
やがて寵愛を独占するようになりました。
後宮で自分が出世すれば、親類縁者の生活も安定しますから、
郭氏は甄氏に関する悪い噂を曹丕に言ったんです。
夫に冷遇される甄氏はつい恨み言をつぶやくんですが、
これが彼女の命取りになってしまいました。
甄氏は曹丕から自裁を命じられ、221年の8月に亡くなったんですよ。
憧れの人の突然の死に、曹植は大いに嘆いたといいます。
郭氏はまんまと皇后の座を手に入れましたが、
皮肉なことに曹丕の子を産むことはありませんでした。
曹叡は誰の子なのか
曹丕が聞いた噂の中に、
息子の曹叡(そうえい)に関するものがありました。
曹丕が甄氏を略奪したときに、すでに身ごもっていたらしく、
これに激怒した曹丕は甄氏につらく当たりました。
でも、もともと人の奥さんだった女性を、
無理やり自分のものにしてしまうんですから、
なんとも酷い話ですよね。
血は争えないということでしょうか。
(ちなみに私は、こういったエピソードがあるので、
曹操の一族はちょっと苦手です)
母を失い、父にも冷遇された曹叡ですが、
司馬懿が懸命に支えたので、第二代皇帝として魏を率います。
もっとも、司馬懿の本心は彼に見えていなかったようですが・・・
妙香のまとめ
曹丕は才能豊かな人物だったんですが、
兄弟や親類たちとはしっくり行きませんでした。
妻の甄氏のことに見られるように、
神経質で苛烈な性格が恐れられていたんでしょう。
歴史にIFはタブーですが、
もし彼が兄弟や親類と仲良くしていたら、
魏が司馬氏の「晋」に簒奪されることはなかったかも知れません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は曹叡の時代についてお話したいと思います。