アメリカのプロ・バスケットボールリーグ、NBAのシーズンが閉幕して1ヵ月、この10年で一番と言って過言ではない劇的なフィナーレの熱狂から、やっと少しだけ回復して、この原稿に向かっている。
筆者が応援するゴールデンステート・ウォリアーズは、プレーオフ決勝ラウンドの最終戦、最後の1分まで同点で競った末にクリーブランド・キャバリアーズに敗れ、惜しくも昨シーズンに続く2連覇を逃した。
かつてマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズが樹立し、不動と言われたシーズン72勝の記録をあっさりと破り、優勝が確実視されたウォリアーズのまさかの敗北を、筆者はテレビ越しに、チームの地元サンフランシスコ・ベイエリアのファンたちとともに嘆いたのだ。
だが、キャバリアーズの選手たちが優勝トロフィーを掲げる光景を眺めながら、筆者は心のどこかで、ウォリアーズが負けてほっとしている自分に気づいてしまった。必死に応援したはずのウォリアーズがもし勝利していたなら、自分はなぜか、心に深い傷を負わされていたような気がしてならなかったのだ。
そして翌日、決勝の興奮を冷ますように各紙スポーツ欄を読み漁っていると、不思議なことに、報道のあちこちにも、ウォリアーズの敗北に対する一種の安堵感――いや具体的には、ウォリアーズのスター選手、ステフィン・カリーの敗北に対する安堵感――が、漂っているように思えた。
ステフィン・カリーは、報道陣の投票で決まるNBAの最優秀選手賞(MVP)を2年連続で受賞し、またユニフォームの売上枚数も全選手中1位と、メディアとファンの両方に愛されるスーパースターである。筆者もシーズンを通して、彼の活躍に一喜一憂してきたはずなのだ。
そんなNBAきってのスター選手が敗北にうなだれる姿を見て、我々は悲嘆する一方で、なぜほっと胸を撫で下ろしてしまうのだろうか?
2009年のドラフトでウォリアーズに入団し、やがてスター選手へと成長したカリーだが、彼はスポーツジャーナリストたちにとって、つねに人泣かせな存在でもあった。
それは、かつて派手な振る舞いでNBAを賑わしたデニス・ロッドマンやアレン・アイバーソンのように、カリーが素行の悪い選手だからではない。問題はむしろ、その真逆と言える。
スポーティング・ニュース紙のコーリー・コリンズ記者曰く:
「我々は複雑な人物像を描きたい。ある程度ダークな過去も掘り起こしたい。カリーはコート上でもプライベートでも完璧すぎて、誰に取材しても、メサイアの再来のように言う。それはもちろん良いこと……だが我々は書くことに困る」
つまり、カリーが「上手い」というあまりにも明白な事実を書く他に、彼の生い立ちや成長過程を取材しても、記事になる「物語」が、なかなか見つからないというのだ。
対照的に、例えば決勝でカリーを破ったキャバリアーズのスター選手、レブロン・ジェームスの生い立ちを取材すれば、「物語」の材料には事欠かない。優勝後のインタビューで、彼はスポーツチャンネルESPNのレイチェル・ニコルズ記者にこう語っている:
「私は片親の家庭に育ちました。母は16歳で私を産みました……私は貧困の中に育ち、自分の3人の子供には決して見せたくないものを見てきました」
ジャーナリストが「ダークな過去」を探し当てて「物語」を構築するまでもなく、ジェームスのようなスター選手が、そもそも自らの人生のストーリー性を意識している例はNBAに珍しくない。
カリーの前年にMVPに輝いたケビン・デュラントは、授賞式の壇上で、最前列に座る母親を見据えて、こうスピーチを締めくくっている:
「あなたは21歳の時すでにシングルマザーで……僕たちはどこに行っても歓迎されず、アパートからアパートへと渡り歩いたね……あなたは、僕たちに希望を与えて……衣服と食べ物を与えてくれた。食料が足りない時、僕たち兄弟に食べさせて、あなたは空腹のまま床に着いたね。そんな犠牲を払ってくれたお母さんが、本当のMVPです」
デュラントの「本当のMVP」スピーチは報道陣の心を鷲掴みにし、MVPへの道のりについて数多の記事が書かれただけでなく、母親のワンダにまで取材依頼が殺到した。そしてついには、彼女の半生がThe Real MVP: The Wanda Durant Story(『本当のMVP ワンダ・デュラント物語』)として映画化され、ケーブルテレビのライフタイムで放映されることによって、「物語」の構築は完成したのだ。
いわゆるアメリカン・ドリーム、つまり社会の底辺から這い上がり、困難を乗り越えて成功を掴むという「物語」は、アメリカのプロ・スポーツにおいて、今なお根強い人気を誇る。
前述のコリンズ記者曰く:
「我々は、無一文から成り上がる立身出世の物語を好む。不幸な少年時代を克服して成功した選手について書きたい……その点、カリーの道のりは、他の選手に比べて簡単だったと言える」
90年代にNBAで活躍したデル・カリーの長男として生まれたステフィンは、二親が揃った裕福な家庭に育った。その両親に加えて、今ではカリーの妻と二人の娘が加わった家族が仲良く試合観戦する姿がテレビに映ると、それは幸せな家庭像そのものである。
さらに敬虔なキリスト教徒として知られ、ベビーフェイスと屈託のない笑顔の持ち主でもあるカリーは、あまりにもドラマチックな「物語」で溢れるNBAにあって、一人イメージが健康的すぎるのだ。
スポーティング・ニュース紙のアディ・ジョセフ記者はこう書く:
「ストーリーテリングの鉄則として、一つ困難な状況を見つけないと、そこに物語が生まれない。カリーについて書こうとするとき、これがいつも難しい。彼の問題と言ったら、たまにボールの扱いが雑ということぐらいなのだから」
だが「ステフィン・カリー物語」がいまひとつ盛り上がりに欠ける理由は、彼が幸せな家庭に恵まれたことだけではないだろう。いくら幸先の良い環境に生まれても、カリーほどの成功を手にする過程には、少なからず逆境を克服する必要があったはずだからだ。
実際、バスケットボール選手としては小柄で、ジェームスやデュラントのような体格に恵まれなかったカリーは、名門大学のスカウトからことごとく無視され、NBA入りした後も度重なる怪我に悩まされた。カリーのMVPは決して天から降ってきたものではなく、彼がオフシーズンごとに積み重ねてきた想像を絶するトレーニングの賜物なのだ。
だがカリーは、こうした過去の苦労についてコメントを求められても、血の滲むような努力について生々しく語るどころか、概ね笑みを浮かべて肩をすくめるばかりで、ジェームスやデュラントのようなストーリーテリングをなかなか披露してくれない。
「ステフィン・カリー物語」が盛り上がらない本当の理由は、肝心のカリーが、自らの成功を説明することにまったく興味を示さないことなのだ。
カリーのあまりにもそっけない仕草は、過去というものに対する執着心が薄いだけでなく、その多くを記憶にさえ留めていない印象を与える。
筆者にとって、特に印象的だった試合がある。
プレーオフ第2ラウンド第4戦、怪我による2週間のブランクから復帰したばかりのカリーは絶不調で、いつもは決めるスリーポイントシュートをことごとく外した。それでも懲りずにシュートを打ち続けたカリーは、最終クオーターも残り5分を切った時点でやっと1本を決めると、途端に嬉しくなったのか、それまでの不調などすっかり忘れてしまったかのように、踊り出したのだ。
その様子はあまりにも滑稽で、ちょうど翌日に予定されていたカリーのMVP受賞式で、ウォリアーズのスティーブ・カー監督は、こう冗談を言っている:
「みなさん、昨晩の試合を見ましたか? カリーは途中まで、10本中ゼロでした。それなのに、11本目を決めると、奴は踊りだした。私は思わず(アシスタント・コーチ)の方を見て、おい、奴は本気で踊ってるのか? と聞いてしまいましたよ。11分の1のくせに、踊って喜んでるぞ、と」
そんな監督のスピーチを聞いて壇上で大笑いするカリーのMVP授賞式は、デュラントのそれと随分雰囲気の異なる、明るいものだった。10本の失敗を忘れて、11本目の成功に大喜びするカリーのプレーに象徴されるように、会場にはただ「現在」の喜びだけが充満し、過去の逆境や苦悩の反芻という、「物語」作りには欠かせない要素が欠落していたのだ。
ウォリアーズのチームメイト、アンドレ・イグダーラは、カリーについてこう語っている:
「カリーはある意味……まだ小さい子供っていう感じがするよね。奴は罪っていうものが何なのか、まだ発見していないんじゃないかな」
過去が短すぎるために、記憶に引きずられることなく、連続する「現在」を次から次へと生きる子供のように、カリーはただその瞬間に、誰よりもバスケットボールが上手いだけの選手である。
そんなカリーは文句無しのスーパースターだが、ジャーナリストがいくら「物語」作りを試みても、決して主人公を演じてはくれないのだ。
優れたアスリートたちの偉業を目撃した時、我々はなぜ、それを「物語」で補完しようとするのだろうか? コート上で彼らが見せてくれるプレーに感動するだけでは、なぜ不十分なのだろうか。
一つ明白な理由は、選手たちの「物語」が、時に映画化にも値するほどドラマチックなエンターテインメントだということである。
筆者も、この手のあるいはベタな「物語」は決して嫌いではなく、デュラントの「あなたが本当のMVP」スピーチなど、YouTubeで繰り返し再生しては涙してしまう口である。
だがどんなに良くできた「物語」も、アスリートのプレーそのものに勝る感動を与えることはできない。一心不乱にプレーする選手たちが、無意識のうちに作り出す奇跡的な一瞬とは対照的に、意図的なストーリーテリングの結果として生まれた「物語」は、あくまで作り物に過ぎないからだ。
ジェームスやデュラントが貧しい家庭に育ったのは事実には違いないが、彼らの人生には他にもたくさんの事実があったはずであり、それらを人為的に取捨選択して成功までの道のりを説明したものこそが、「物語」に他ならないのだ。
つまり「物語」は、コート上で展開されるプレーそのものの刺激を一段階薄めた、二番煎じの茶だと言える。だが、その二番煎じをあえて摂取することで、選手たちのプレーが引き起こす過剰なまでの興奮を冷ます効用こそ、まさに我々が、「物語」を求める理由ではないだろうか。
自分たちの理解を超越する、あまりに刺激的なものを目撃してしまった時、我々はそれを説明し、安心させてくれる「物語」に、一種の治癒効果を求めるのだ。
小さな子供が熱いストーブを触ってしまった時、その子は火傷の痛さよりも、その瞬間にいったい何が起こったのか分からない不安に怯えて泣き出す。子供はやがてストーブの仕組みを知り、身辺の現象を一つずつ説明できるようになり、不安を取り除いていく。
だがいくら成長しても、前回のコラムで取り上げた2001年の同時多発テロのように、理解の範疇を超えた出来事に遭遇してしまうと、我々は再び不安に陥り、それを一刻も早く鎮めようとして、起きたことを説明できる「物語」の構築を試みる。
こうして、戦争や恋愛など、過度の刺激を伴う出来事の後には必ず数多の「物語」が生まれるように、スポーツも、時に「物語」で薄めなければ飲み込めないほどの強い刺激で、我々の感受性を揺さぶってくるのだ。
カリーが初めてチームを優勝に導いた昨シーズンは、その典型だった。
スポーツジャーナリストたちは、ウォリアーズの勝利を説明する「物語」の構築に苦心した結果、対戦相手の主力選手が怪我していたことを強調して、カリーの成功を過小評価する作戦に出た。
オーランド・センチネル紙のブライアン・シュミッツ記者は、「サンフランシスコ・ベイエリアのファンには申し訳ないが、今回の優勝には……『但し書き』を添える必要がある」と書いている。
怪我は付き物のプロ・スポーツにおいて、体調管理も実力のうちであるのは言うまでもないが、それにもかかわらず、多くのジャーナリストが苦し紛れの論を展開せざるをえなかったのは、例によって、カリーが自らの成功について何も説明してくれなかったからだ。
そして今シーズン、故障者ゼロのベストメンバーで臨んだキャバリアーズを、もしカリーが最後の1分で負かしてしまっていたら、我々は今度こそ言い訳ができなかったのだ。
カリーほどバスケットボールが上手くて、人気抜群で、外見まで格好良い選手が、あのマイケル・ジョーダンの記録をあっさりと破り、MVPを受賞して、挙げ句の果てに優勝までしてしまったら、そのパフォーマンスは刺激が強すぎる。
そんなプレーを見せつけておきながら、刺激を薄めるための「物語」という防具を提供してくれないカリーの勝利を目撃したならば、我々は興奮を通り越して、丸裸にされた感受性に火傷を負ってしまっていただろう。だからあの日、カリーの敗北を目撃して、我々は悲嘆すると共に、大きな安堵感に胸をなでおろしたのだ。
ステフィン・カリーのプレーは、哲学でいうところの「崇高」と形容する他に、表現することができない。「崇高」の体験には、極限的な喜びと共に、痛みが伴うとカントは書いている。
激しく感動することと傷つくことが表裏一体であるのなら、筆者は来シーズンも、カリーを応援したい。幼少時代に熱いストーブに触れてしまって以来、痛みから身を守るためにあらゆる「物語」を収集してきた我々だが、一方で、そんな「物語」の要塞などいとも簡単に突き破り、感受性を直撃してくれるような刺激を、じつは待ち望んでいるのではないだろうか。
安心な「物語」で説明できてしまうジェームスやデュラントよりも、暴力的なまでに説明を拒み続けるカリーを、やはり筆者は応援したいのだ。
そんなカリーが、決勝に敗れた後のインタビューで、一つ気がかりなことを言っていた。
「私たちは、この敗北の記憶をしっかり心に留めて、来シーズンの……糧としたい」
すべての子供はいつしか自意識に芽生えて、やがて大人になるように、カリーは今シーズンの敗北によって、ついに過去に対する意識に目覚めてしまったのだろうか?
ファンとしてわがままを言えば、そんな過去などさっさと忘れて、次の勝利に浮かれて踊る、カリーの姿が早く見たい。
(参考文献)
“Stephen Curry and the Media: The stories behind the NBA MVP's stories,” Sporting News.
“Sorry, but a Warriors’ title would get an asterisk,” Orlando Sentinel