幸村、最後の戦い!大河ドラマ『真田丸』の激戦地「大阪・天王寺界隈」 | 大阪府

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幸村、最後の戦い!大河ドラマ『真田丸』の激戦地「大阪・天王寺界隈」

幸村、最後の戦い!大河ドラマ『真田丸』の激戦地「大阪・天王寺界隈」

記事作成日:2016/09/04 14:29 │ 最終更新日:2016/09/04 14:29

澤 慎一のプロフィール写真 トラベルjpナビゲーター 澤 慎一 放送局ディレクター

豊臣vs徳川、最後の決戦「大坂夏の陣」。圧倒的な軍勢を誇る徳川家康。しかし、家康の首だけを狙い、一直線に切り込んでゆく武将の姿がーー。その武将とは、NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公、真田信繁(幸村)。俳優の堺雅人さんが演じる幸村の苦悩や、武人としての生き方に共感された方も多いことでしょう。
大阪・天王寺界隈は、幸村が男の命を懸けた最後の激戦地。幸村ゆかりの大阪への旅で、名将の魂に触れませんか?

幸村が戦った砦!これが「真田丸」の全容

写真:澤 慎一

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NHK大河ドラマ『真田丸』。キャストは主演の堺雅人さん、幸村の父を演じる草刈正雄さん、家康は内野聖陽さん、ヒロイン役の長澤まさみさんなど、登場するキャストたちも魅力的。小さな家族“真田丸”を守るため、悩み、苦しみ、戦国時代の波にほんろうされながらも誇り高く、必死に生きようとする家族愛の物語です。

実際の「真田丸」というのは、大阪城の南側に築いた砦(とりで)のこと。周囲を川で囲まれた大阪城は難攻不落。しかし、南側だけは陸続きで、唯一の弱点。徳川勢はかならずここを攻めてくる。幸村は、家康を積極的に迎え撃つため、あえて大阪城の外側に「真田丸」を築きます。諸説はありますが、「真田丸」は大きさが約200メートル四方にも及び、土塁の高さは約9メートル。

こちらが「真田丸」のジオラマで、大阪市天王寺区役所1階で見ることができます。大坂冬の陣では茶臼山(ちゃうすやま)に家康は本陣を築きますが、これは家康から見た「真田丸」。中央からやや右寄りの奥に見えるのが大阪城(手前は四天王寺)。赤いのぼりを立て、深い堀を巡らし、家康から大阪城を守ろうとする幸村の心意気が感じられる見事な砦ですね。

「真田丸」の名残り!大阪城につながるヒミツの穴「三光神社」

写真:澤 慎一

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秀吉が死去し、関ケ原の戦いで西軍が破れた後、秀頼(秀吉の子ども)もろとも豊臣家を滅ぼそうと、家康は画策。家康は日本全国の大名を集め、大阪城を包囲。その数、約20万。徳川の大軍勢に対し、「真田丸」に立てこもる真田軍はわずかに3000。

慶長19年(1614年)12月4日未明。大坂冬の陣の火ぶたが切られます。霧に隠れて攻め入る徳川軍。これに対し、六文銭の旗のもと、武具を赤く染めた幸村軍は、まるで燃え盛るツツジのような鮮やかさ。六文銭とは、あの世にわたる三途の川の渡し賃。決死の覚悟で挑む幸村軍の士気は高く、凄まじい勢いで奮戦し、徳川軍に大打撃を与えます。

こちらが激しい戦場となった跡地に建てられた「三光神社」。真田丸があった場所で、幸村の銅像があるほか、この隣には大阪城につながるというヒミツのトンネルがあります。真田の抜け穴≠ニ呼ばれるもので、幸村が使った秘密の抜け道(諸説あり)。普段は鉄の扉で閉められていますが、11月の第1日曜日に行われる「真田祭り」の際には開放されます。

大坂冬の陣で豊臣、徳川側ともに多大な犠牲者を出し、和平が成立。その条件の一つとして、真田丸は取り壊されました。このため、真田の抜け穴≠ヘ唯一と言ってもいいほど、「真田丸」の名残りが感じられる遺構。穴の前に立つと、400年前の戦国ドラマが遠くから聞こえてきそうです。

幸村、最後の本陣「茶臼山」

写真:澤 慎一

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和平の条件として、「真田丸」をはじめ、強固な堀までを家康側は埋め尽くします。すっかり防御力を失った大阪城に向け、家康は再び進軍を開始。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まります。決戦の日、5月7日朝。「真田丸」を失った幸村は、天王寺区の茶臼山に本陣を設け、3倍以上の兵力を持つ徳川軍を見下ろします。圧倒的な敵の数。

その時の軍勢を記した看板が、茶臼山に掲げられています。赤が幸村で、青が家康。左の階段を登れば、そこは高さ30メートルにも満たない茶臼山の山頂。周囲を木で囲まれ、原っぱになっているだけで、幸村につながる手がかりは何もありません。しかし、ここに立てば当時の幸村の気持ちに近づくことができ、深く魂に響くものがあります。

最後の突撃…幸村の終えんの地「安居神社」

写真:澤 慎一

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茶臼山に布陣する幸村。敵は3倍。しかし、圧倒的に不利な中でも、幸村はあきらめません。自分がおとりになって、家臣たちが家康の背後を突く戦法を取ります。しかし、徳川の軍勢に驚いた前線部隊が戦闘を開始。背後を突く戦法は不可能となり、武力の差でわが軍が全滅するのは明らか。茶臼山の山頂で、幸村は死を覚悟します。
「ならば、最後に武者魂を天下に示したいーー」。ねらうのは、家康の首だけ。

真田幸村、最後の戦い。最後の突撃が始まります。幸村隊は、家康本陣に向かって、一直線に突進。その一歩手前まで突き進みます。家康は恐怖におののき、自害をしようとしますが、家臣たちに止められます。しかし、やがて体制を整えた徳川の大軍勢が幸村を取り囲み、幸村軍は次々と倒れていきました。

5月7日夕刻。幸村はみずから傷つきながら、家臣を介抱しているところを見つかり、敵に討たれます。享年49歳。その幸村が戦死した場所が、安居(やすい)神社。ひっそりとした静かな空気が張りつめています。幸村が倒れた場所にあったとされる“さなだ松”のほか、幸村の銅像、石碑が建ち、多くの酒樽が備えられ、今も多くの人々が幸村を慕い続けています。

幸村の魂は今もここに…「大阪城」

写真:澤 慎一

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最後にご紹介する幸村ゆかりの地は、大阪城。天守閣は夏の陣で焼失しますが、徳川幕府によって再建。以降、落雷などで被害を受け、天守閣を持たない城でしたが、昭和時代に市民による寄付で再建工事が始まり、さらに平成の大修理で豊臣秀吉時代により近い姿で復元しました。現在の大阪城は、博物館・展望台として使われ、5階では大阪夏の陣で戦った真田幸村の激戦をミニチュア人形で再現しています。

関ケ原の戦い以降、敗者となった幸村は、罪人として高野山の麓にある九度山に身をひそめることに。15年間の幽閉生活で、父親を亡くします。死の間際に、父はひと言。「もう一度、家康と戦いたかった」。そんな幸村に、助けを求めてきたのが秀頼でした。幸村は武具を取り、大阪城へと向かいます。大阪城は、天王寺区から近く、幸村ゆかりの地として最も絵になる観光スポット。これら激戦区めぐりの後は、大阪城を訪ね、名将の魂に触れてみてはいかがでしょうか?

おわりに

幸村が「真田丸」に立てこもり、徳川勢に大打撃を与えているころ、一人の使者が訪ねて、こう言いました。
「徳川方に寝返れば、信州国を与える」
しかし、幸村は断ります。

「紀州でただ命を長らえているところを、秀頼様に召し出され、武士としての面目を立てていただいた身。このご恩は、土地や金には到底かえられない」。

徳川に寝返ったとしても、体制の中に組み込まれた生き方しかできない。それは自分の本意ではない。幸村が、時代を超えて人気があるのは、忠誠を尽くした武人だけにととまらず、窮屈な世の中でいかに生きていくか。たとえ命を失うことになっても、自分の本当の生き様を求める男だったからではないでしょうか?

なお、天王寺区には、ご紹介した以外の魅力のある観光スポットもあるので、ご興味のある方はリンクからのぞいてみて下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/28 訪問

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