改めて真面目に自己紹介します。
(5781文字)
ふなさんという名前で活動しています。
今はネットビジネスで生計を立てています。
とはいえまだまだギリギリです。
ふなさんを構成するもの
1999年パソコン1台で起業。当時26歳
まさか自分が雇われずに生きていくことになるとは、その頃は思っていませんでした。
その頃はホームページを作ったり、イラストや印刷物をデザインする仕事を主にやっていました。
WEBデザイナー、DTPデザイナーっていうやつです。
その後、サラリーマンも経験しましたが、2015年に再び自由に生きる道を選びました。
アフィリエイトに可能性を感じたからです。
趣味など
絵を描いて時々展示会などをしています。
音楽をやっています。iTunesでも配信されています。
大阪に住んでいます。
現在アラフォーです。
発達障がい、グレーソンADHD、隠れアスペルガー。
多動と衝動性で生きています。
不注意は減って欲しいです。
何かを創ることが好きです。
変な性格とよくいわれるかもしれません。
ニックネーム:ふなさん
むかしから通称「ふなさん」でした。
資格
- ネットショップ実務士レベル1(一番簡単なやつ)
- 基礎心理カウンセラー(基礎だけ)
どちらも無いよりましという感じかな。
簡単に生いたちを
私の出生から話します。
どうやら両親の話によると、私は家で生まれたらしいです。
普通は病院で生まれるもんですが、私は病院に行く間もなく、スルリと母体から抜け出てこの世に現われたのでした。
幼少期
子供の頃は絵が好きで、中学時代は漫画を描く事に没頭していました。
学校の休憩時間、学校から帰っても夜中まで漫画を描くという生活をしていました。
コロコロコミックに一度4コママンガが掲載されました。
小学6年生でギターも始めました。
音楽と絵は、その頃からずっと続けている趣味です。
自分はプロの漫画家になるんだと本気で思ってましたが、プロの漫画家に必要なのは画力はもちろんですが、もっと必要なのはストーリーを作る才能です。
原作者と組むっていう方法や、アシスタントで修行するっていう方法もあったんでしょうが、当時の私は何を考えていたのでしょうか・・・
のちに独学でデザインをやってもなんとか食べていけるようになったのですが、中高生の頃に漫画を描いていたのがすべての基礎になりました。
高校〜東京生活
高校を卒業したら東京で働き始めました。
会社名を言えば、東京に住んでる人ならきっと知ってる人も多いような会社だ。バブリーな会社だった。入社したらライブハウスやディスコで入社パーティー。研修も頻繁で、自衛隊研修や座禅研修なんてのもあった。今では洗脳研修とかなんとか言われたりもするけど、私にとっては貴重な体験だった。同年代の社員も多くて楽しかった。
この頃から漠然と、自分で店をやりたい。月収100万円ぐらい稼げるんじゃないかと、ビジネス書をちょこちょこと読んでた。
その当時は漫画より音楽が好きで、仕事をしながらバンドメンバーを探したりしていましたが、バンド結成にはいたりませんでした。ひとりでスタジオにこもって、ドラムやギターやピアノの練習をしてた。
東京で働きだして2年目ぐらいで、やはり絵で仕事をしたいと思い、再び絵の練習をしてデザイン会社の面接を2社受けましたがダメでした。良くて2次面接まででした。
1社から内定はもらったのにその後一向に連絡がこないので、こちらから連絡してみると、「もういらない」とのことだった・・・???
転職には失敗し、ご飯を食べるのも精一杯になってしまいました。
急遽、警備員やイベント会場のスタッフで武道館や東京ドームを走り回って仕事をしたのは楽しかったです。ファーストフードの店員もやって、いくつもバイトを掛け持ちしました。お金もギリギリ、都内で高い家賃を払って食べるのもギリギリの時に炊飯器が壊れた時は泣きそうになりました。袋麺で1週間ぐらい過ごしました。
東京生活にも限界を感じ、やっぱ大阪やなって思って2年5ヶ月の東京生活にピリオドを打ったのでした。
ちなみに東京では2度ほどゲイに襲われそうになった。その話はまた別の機会に。
大阪に戻ってきて
大阪に戻ってきてからですが、半年くらい親父の知り合いの小さい印刷所でバイトしながらブラブラとしてました。
この時はじめて写植機をさわりました。
やっぱり音楽に関わる仕事がしたいなぁと思って、クラブやBARなど音楽を流すお店で働くようになりました。
DJやってお酒作って料理もつくって、お客さんとも喋って、とにかく忙しかった。でも忙しく感じさせちゃだめ。
このBARで高校生の頃憧れていたミュージシャンにたくさん会うことができました。BUCK-TICKメンバー全員、レピッシュのTATSUさん、小沢健二さん、佐藤竹善さん、ゴスペラーズの村上さん・・・他にも数え切れないくらい。
接客は当時から得意ではなかったですが、お店の経理などもやっていたので経営には少し詳しくなりました。
夜の仕事だったのもあり、3年目ぐらいで疲れ果ててしまい、もう一度デザイン関係で仕事をしたいと思って、初めてパソコンを買いました。
Macを買いました。それまでコンピューターといえば、兄のパソコンでゲームをするぐらいの知識しかなかった。
カセットテープで30分とかパソコンにガーーーーーぴーーーぴーーーーっとデータを読み込ませてやる時代でした。懐かしいね。
インターネットをはじめました。
Macは全て独学で操作を覚えていきました。
買ったときはさほど興味がなかったインターネットを始めてみましたが、ハマってしまい、すぐに自分でもホームページを作りはじめました。掲示板などで交流したりするのも新鮮で楽しかったです。
HTMLを覚えて、CGIも独学で覚えていきました。
ブラック会社との戦い、その1
なんとか月給14万円の印刷会社に就職しました。
ここもブラック会社でした。
家族経営の会社でしたが、上司が社長の息子で毎日社員をいじめていました。
私もいじめられ始めたので辞めました。
突然辞めることになったので退職金も雇用保険も出ません。
労基に行って相談し、残業代を請求しました。会社から6万ぐらいもらいました。
次にパチンコ屋の専属デザイナーの職を見つけました。入ってみると、Macを扱える人がいませんでした。
聞いてみると前のデザイナーは逃げたらしかった。
突然来なくなる社員を何人か見ました。
何でこんなことになるかというと、社長がめちゃくちゃでした。
弱いものいじめかってぐらい、社員を怒ってました。
みんなビクビクしながら仕事している感じ。
こりゃダメだと思い、タイミングを見て辞めるつもりでした。
ある日突然、社長の怒りが私に向かってきました。「仕事が遅い!!」と大怒りの電話でした。
「やる気があるんか!ないんか!ないんやったら辞めろ!」
というわけです。
時にはお昼ご飯も抜きながら仕事をして、それでも仕事はちゃんと仕上げてました。
そういえば「うちの子(社長の子)にパソコンを教えてもらえないか?」という業務外の仕事も打診してくるブラックさでした。
「私の実力や仕事ぶりを認めてもらえないというのだったら、クビにしてもらって結構ですよ」
やっと辞めるチャンスきたか!!
そう思い心の中では嬉しかったです。
噂によると社長は気が弱いところがあるらしく、私には面と向かって怒らず電話越しでした。私も当時は言いたいことは言う性分だったので、社長にはお会いせず電話で即解雇となりました(笑)
ここで踏ん張っても辞めるチャンスを逃してしまうだけ。
「辞めるなら今しかねぇ!」
残ってガンバっている人にはほんとに悪いのですが、会社の奴隷になりたくないので清々しました。
奴隷にはなりたくありません。会社に飼われたくありません。
それから3ヶ月はネットで通販しながら小遣い稼ぎをしました。そこへ趣味でやっていたホームページ制作が遂に花開くときがやってきたのです。
なんか知らんけど26歳でフリーランスでデザイナーをはじめました
東京の小さな出版社で、デザイン担当してた人と仲良くなり、私設の掲示板やチャットで交流していた。
「もうすぐ会社を辞めるのでホームページを制作する人がいなくなる」
「私がやろうか?」
とレスしたのがきっかけで、本当にやることになるんです。
その出版社の大ファンだったので、かなりのテンションで作業に取りかかり、2週間ぐらいでホームページ全体をリニューアルしました。テンションが高かったのであまり寝ず、疲れるまでやって、少し寝て。でもテンション高いから脳ミソはいつも「ワクワク」状態で体が休まったらすぐ起きるという状態でした。(今考えたら完全にADHDの特徴の過集中)
今では立派な出版社になりましたね。
その後もラッキーが続きました。
メジャーデビュー寸前のミュージシャンから趣味が合いそうだからと、WEB制作のオファーが来ました。
制作したホームページが雑誌に掲載されてこともありました。
CDジャケットをデザインさせて頂いたり、アーティスト写真を撮らせて頂いたり、そんなクリエイティブな仕事も任せていただけることがありました。
はじめはバイトしながらやってましたが、1年後ぐらいでネット一本でメシが喰えるようになりました。
メインのクライアントが4〜5件、その他の単発案件で月収20万前後ってところです。
有り難いことに、口コミなどで仕事を紹介してくれたのは、飲食業時代に知り合った人からがほとんどだった。
飲食時代に培った、仕事ぶりなどを見てくれていて
「あなたがやるんだったら(未経験でも)任せてみよう」
そう思って仕事を依頼してくれたに違いない。
私はいつも120%ぐらいの仕事をするつもりで、さらによろこばれる提案をしてきた。
稼げるホームページ、稼げるチラシデザイン、そんなことを考えることができたのも、飲食時代の経験が活きていたと思う。
フリーランスで2011年までなんとかやっていくことが出来ましたが、WEB業界が著しく発展してしまい、田舎で一人でホームページを制作、運営していくことに限界を感じました。デザイン、コーディング、プログラミング、コンサルティングすべての役割を一人でやるのは無理なほど、高度な技術が要求されるようになってきました。
もうひとりじゃ無理だ(;_;
ホームページを作れる希少価値はもう完全になくなっていた。
ひとりバブルは終わったのです。
それでも12年ぐらい、自由にやらせてもらって、お仕事もいただけて有意義な30代を過ごせました。
ブラック会社との戦い、その2
転職7回
フリーランスのデザイナーを廃業して、1年は未就職者訓練事業に関わってました。このあたりでセミナーや人材教育のノウハウなどを学んでいきました。
それが終わって入社したベンチャー会社がすぐに倒産したり、転職することが続きウツにもなり、私がADHD(発達障がい)であることもわかりました。
ちなみに発達障がいとは、不注意・多動・衝動性のある性格のようなものです。病気とはまた少しニュアンスが違います。
ちょっと変わっているので、普通にたくさんの人と仕事をしていると、とても大きなストレスを感じてしまいます。2次疾患でウツなどの気分障害も発症しやすいのです。
訓練事業 → 職業訓練校の講師 → ベンチャー企業のマネージャー(倒産) → リラクゼーションのスタッフ → キャラクターグッズ会社のデザイナー → (ウツ・療養) → 工場で派遣社員 → レトロカフェのマネージャー → (ウツと発達障がいで療養) → 長期療養 → 天才屋を開業
見てるだけでめまぐるしい(;_;
社会に出て働いて思ったのは、仕事というよりも身売り。そんな風に感じました。
転職を一回繰り返すごとに人間はすごいストレスを抱えます。その間、引越しも3回してます。環境が変わりまくって相当ストレスためてました。病気にならないほうがおかしいくらいでした。
訓練事業と派遣で行ってたところ以外は全部ブラックでした。
長年フリーランスでやってたので、一般の会社のブラックさに改めてビックリしました。
それぐらいフリーランスやってると、ある意味あまいんです。
会社に人間スクラップにされるのはもうこりごり
仕事やお金がなくなるって何度も経験しましたが本当に病みます。
あんな経験はもうしたくない。
私は傷病手当もらえないとわかった時、泣き崩れました。社会も無情です。
そんな時にアフィリエイトで成功している人が結構いることを知りました。
私は手に汗を握るほどビックリしていました。
素人はアフィリエイトでは稼げないと思っていたからです。
そのノウハウを知った時、私のなかで世界がひっくり返りました。
そして心の底から救われたと思いました。
これを逃せば私が生きていくチャンスはないとさえ思いました。
そんなことがあって私はまたこうしてネットビジネスを始めることができました。
ブログをやり始めて3ヶ月目に自分に合うと思う案件 を見つけた。それに取り組んでみたら、Googleアドセンス以外であっさりアフィリエイト報酬が発生した。
まだまだ成功というには程遠いですが、これからも頑張っていこうと思っているところです。
私は集団が群れが苦手だ。
インターネットがなかったら、もっと悲惨な人生だっただろう。
振り返ってみると、自分の社会不適合っぷりがわかるよ。
やっぱりいるんだ。
組織の中で働くのが不向きな人が。
サラリーマンもいいけど、フリーランスで生きるのもあり。
どちらも苦労するのは一緒だ。
いい企業は社員ひとりに使ってくれるお金の額が違うから、その分おもしろいし貴重だ。それを味わってからフリーになるのも悪くない。
フリーになるのはいつでもできるけど、一度フリーになってしまったら、なかなかサラリーマンに戻るのは難しい。
それぐらいフリーランスは甘美だ。
フリーランスに必要なのはPVでもお金でもなく信用なんだ。
そしてそれに応える技術も必要だ。
こいつに任せてみよう。
こいつを参考にしてみよう。
そう思ってもらってこそ、はじめてその人に価値が出る。
炎上なんてすればするほど信用も一緒に燃やしてるんだよ。
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