2016年春の深夜アニメとして放送されたTVアニメ「くまみこ」の最終話が話題になっている。作中キャラクターの発言に原作者がブログで「あの発言は、酷いなあ」と苦言を呈し、担当脚本家がツイッターのアカウントを消して雲隠れ。なぜ、関係者の間にも異例の動きが見られる“炎上騒動”になったのだろうか?
(※編集部注:以降、ネタバレする箇所がございますのでご注意ください)
「くまみこ」の原作は、吉元ますめが「月刊コミックフラッパー」で連載中の漫画。東北の架空の山村「熊出村」を舞台に、熊を奉る神社に巫女として仕える雨宿まちと、人間の言葉をしゃべるヒグマのクマ井ナツの交流を描いている。
結論から述べると、「くまみこ」最後の二話において「後味が悪すぎた」「主人公・雨宿まちのかわいさを演出できなかった」ことが炎上の大きな要因だろう。同作が「今期の覇権アニメ」と目されるほど人気を呼んだのは、何よりも漫画ではなくアニメだからできる動き、声の点で飛び抜けて優れていたからだ。
中学生のまちが寝そべって足をパタパタする、ぜい肉をムニムニする、このような思春期の女の子の何気ない動きに対する、スタッフの熱く暗い執念を感じさせる表現の高さに驚嘆させられたのが「くまみこ」というアニメだった。動くべき所はトムとジェリーもかくや、バトル物もかくやという程に躍動感のあるアクションをし、とにかくスタッフが楽しんで作りこんでいるのが伝わってきたのだ。
そして、まちの声を当てる今回初主演の日岡なつみの演技。明るくハツラツとした声は純朴な田舎娘のまちにピッタリで、これ以上の配役は無い、よくぞ!と称賛されるほど。ショックを受けてうろたえた声、えづき、涙声の表現力はまちの魅力をとことん引き出していて、漏れなく視聴者の心をざわつかせただろう。
◆最終話の「後味が悪すぎた」理由
話を戻して、「物語の後味が悪すぎた」のは、視聴者の大半が感じたことではないだろうか。「くまみこ」のような日常もの作品が、最後の一・二話でいきなりシリアスになり、教訓めいた話になるのはよくある展開だ。
しかし、①田舎コンプレックスを抱きながらも都会に憧れ、世間知らずなりに努力し続けたまちが、②いざ都会に来てみると、執拗な被害妄想にさいなまれ、③いとこで地方公務員の良夫の非情な発言も飛び出し、④村に戻ったまちはナツとの共依存引きこもりENDという、素直に喜べない結末を迎えたのだ。
①はこの作品の物語の土台で、田舎者のまちが、世間知らずなりに都会の文化を体験し、機械音痴を克服しようと家電や携帯に挑戦する。まちが頭をフル回転させて課題を克服しようと試み、ズレているなりに最後までやり通す、それをナツがそれとなく導いてあげ、まちは様々な経験を積み少しずつ成長していくという過程の喜怒哀楽と一生懸命さに私たちはニヤニヤしてしまう。
しかし、いざ東北アイドル自慢コンテスト出場のために仙台に向かったまちに待っていたのは②生々しい被害妄想だった。親しげに話しかけられてもまちには辛辣な言葉の幻聴が聞こえ、観衆に石を投げられる幻覚が繰り返し描写される。おどろおどろしい背景に亡霊のような人影に石を投げつけられる表現は恐ろしく、単に「田舎コンプレックスをこじらせすぎて萎縮している」よりかは病的なものを感じさせる生々しさで、ジョークにしてはやり過ぎ感が否めなかった。
最も議論を呼んだのが③いとこの良夫の非情な発言だ。もともと良夫はまちを妹や娘同然に扱い、下着姿のまちを押し倒して(!)も下劣な感情も抱かない程まちへ深い家族的愛情を持つとともに、熊出村を盛り立てるために調整・工作活動を行うしたたかさを持ち合わせている。
それでも良夫の強引さがキャラとして受け入れられていたのは、村民として暖かい心の持ち主だという前提があったからなのだが、最終話ではあくまで村のためには「まちを犠牲にしても構わない」という問題の発言が飛び出し、行き当たりばったりなのは演技で、全ては計算ずくでただただまちを利用していたのではないか?と勘ぐってしまう展開に。原作者の吉元ますめが「あの発言は、酷いなぁ」としたのも、ネット上でサイコパス呼ばわりされるほど良夫が大人の都合を優先させまちへの家族的愛情が薄い人間として描かれた点にあるのではないか。
女の子とナツの応援もあり、素晴らしいパフォーマンスをしたまちだったが、結局は被害妄想に押しつぶされ④都会への夢を諦めナツに甘やかされてエンディングを迎える。ネットショッピングを活用する姿は引きこもりを暗示させ、②被害妄想や③良夫による重圧もあって、いよいよ精神を病んでしまったのではないかと不安を感じさせアニメは終了する。
◆アニメ最終話は「何が問題だったのか?」
この展開は原作と同じだが、原作では仙台へ出発する当日に、まちが石を投げられる夢を見て恐ろしくなり仙台行きを拒否、そのまま甘やかされENDとなるため、実際に仙台には行かずに断念しており、まだまちの臆病さが微笑ましく思える終わりになっている。しかしアニメでは実際に都会に行き、これまでの成長を踏まえた上で挫折して帰ってくる構図になっており、原作と同じ甘やかされる描写であってもより重大で深刻な意味合いを感じさせる。
「くまみこ」のアニメ自体は、原作に忠実に作られており、まるで「漫画を絵コンテに使っているのでは?」というほどで、原作の持つ魅力が隅々まで表現されたアニメ作品だ。アニメオリジナル要素があるのは九話以降くらいで、それ故に最後の一、二話で担当脚本家が雲隠れする事態にも繋がってしまったのだ。
アニメ最終話の後味を悪くする大きな要因となった「被害妄想」の描写も、ある意味では原作に忠実に再現されている。「嫌味を言われる幻聴」はおつかいに行った際に既に見ていたし、「大勢に石を投げられる妄想」も原作に描かれている。しかしアニメ最終話ほどにまで執拗に繰り返されてはいないし、演出に難があったのは否めないだろう。
はたして何が問題だったのか? それは、単純に今作最大のウリであった「まちのかわいさが演出できていなかった」ためであり、これが今回ファンの間で大騒ぎになった最大の要因だろう。改めて最終回を見てみると、まちは終始落ち込んでいるか被害妄想で萎縮しているか、ともかくまちにあまり動きがないことに気が付くだろう。ストーリーに多少問題があっても視覚的に面白い話数になっていればここまで炎上することはなかっただろうし、最終回にインパクトに欠けてしまったのが一番大きな要因だったように思われる。
では制作側は最終回には何を盛り込もうとしていたのだろうか? アニメのくまみこならではのもう一つのウリは「絶望するまちの描写」だった。アニメでは毎回どこかでまちの目からハイライトが消え絶望顔を晒している。もちろん原作でも同じようにまちは絶望しているが、アニメでは日岡なつみの素晴らしい演技もあり、各話で印象的に描写されている。女子中学生を動揺させるシーンにスタッフが並々ならぬ力を入れていたのは、視聴者の誰もが感じ取れることだ。
「かわいいまち」「絶望するまち」という2つのウリの中で話題性のある後者を押し出そう、1クールアニメのクライマックスとしていよいよまちを都会に出そう、オリジナルにしても原作に忠実に田舎コンプレックスと被害妄想を軸にしよう、でも最終的には田舎に戻そう、という風に組み立てられたのだろうか。この骨子自体は悪くなさそうだが、絶望まちを押し出すあまりちょっと笑えないレベルまで達してしまったこと、話の展開のために良夫のキャラを読み違えてしまったことが誤算だっただろう。
ならばどうすればよかったのか? 日常もの作品にあえて視聴者にストレスとなる展開を持ち込むことは危険であり、都会に憧れ、世間知らずなりに努力を積み重ねてきたとなると、やはり最後は報われてほしいもの。「ご当地アイドル」というある都会的で非日常的なものをこなすにあたり、神楽という田舎的でまちにとって最も日常的なもので認められ表彰される、という展開自体はとてもよく出来ている。となると最後に無理やり原作の展開に合わせて挫折引きこもりENDに着地するのではなくて、まちの成長を感じさせて、もしくは成長してはいるがまだまだ未熟だというのを描写して、そしてまた以前と変わらないまちとナツと熊手村での日々が続く…というようなものが無難な最終回の流れではないだろうか。
最終回こそ賛否両論ある結末になったが、まちとナツが仲睦まじくいちゃいちゃする様子は、数ある日常ものアニメの中でも至高もの。7月から始まる2016年春の深夜アニメでもいい作品に出会えることを楽しみにしたい。
<取材・文/芝村メイ>
©2016 吉元ますめ・KADOKAWA刊/「くまみこ」製作委員会
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