長渕剛とはいったい何者か——。
長渕の歩みを見つめる時、そこに浮かび上がってくるのは、「男らしさ」や「日本人であること」をめぐる様々な矛盾と葛藤であり、かつ、それらの問題を背負い、つまずきながらも、成熟を重ねてきた姿である。
長渕剛という一人の人間と、その歌について考え抜くことで私たちの生きる〈時代〉をも炙り出す傑作評論、杉田俊介『長渕剛論 歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)が4月26日に刊行される。本書より、この気鋭の文芸評論家と長渕剛本人との対話を特別公開!
TEXT 杉田俊介
長渕剛との初対面
長渕剛についてのこの一冊の本を書き進めている途中に、僕は、長渕その人と数度、会って話すという機会を持った。
初めて会ったのは2015年11月。中目黒駅のそばにある長渕の個人事務所オフィスレンを訪ねた。その前月に出た文芸誌「すばる」に発表した長渕剛論を、本人が読んで、何か感じるものがあったのか、一度会いたい、という連絡をくれたのだった。
噂どおり、長渕剛という人は気さくで、こまやかに気を配ってくれる人だった。力強い握手と、やさしい笑顔が印象的だった。ただ、ちょうどその時期は、富士山麓ライヴのDVD製作の最終段階だったためか、事務所の中には、独特の緊張感が鋭く漂っているように感じた。
しかも、初対面のその日、富士山麓ライヴについての感想なども話しながら、気づくと、なぜか僕も、DVD製作の熱っぽい企画会議の中に混ざっていた。製作の進行状況も知らず、どの人が何の仕事を担当しているのかも、よくわからないままに。
さらに気づけば、ドキュメンタリーの素材映像を、会議室の中で映写しはじめ、「杉田くん、これどう思う?」「ここはどう?」などと繰り返し尋ねられていた。いきなりのインファイト。本当に、この人は、どこまでも直球勝負の人なんだ。おためごかしやごまかしは一切通じない。そう身に染みた。これはもう、つくろわずに、正直な感想を口にするしかない、そう腹をくくって、僕は、目の前の映像について、心に浮かんだことを必死にしゃべっていた。
しかも、その翌日には、彼が「命を預けられる」というほどに信頼するという格闘家(現在は引退)の、三崎和雄氏へのインタビューの仕事を依頼されていた。
不思議な人だと思った。初対面であるにもかかわらず、こちらを深く温かく懐に包み込むような。それでいて、常にまっすぐ、お互いの本音をむき出しにして、厳しく向き合うことを余儀なくされてしまうような。やさしい兄貴のようでもあり、厳格な父親のようでもあり、あるいはまた、こちらのすべてを見透かして包み込んでくる慈母のようでもある。そんな相矛盾するような、けれどそれが至極当たり前であるかのような、そんな不思議な印象を僕は受け取っていた。
直接に顔を合わせたことで、僕はこの長渕論を最終的な完成へと導くには、どうしても、長渕本人の声が必要だ、と思うようになった。いくつか、本人に直接、問い尋ねてみたいこともあった。
それで、手書きの手紙を送った。数日後、快諾の連絡があった。