2回の震度7を記録した熊本地震は、今なお震度5クラス以上の余震が続く。熊本市出身の記者は「本震」から2日後の18日に熊本入りした。見慣れた土地や聞き慣れた地名が「被災地」と呼ばれる。いち被災者として地元に向き合い、友人たちの証言をもとに埋もれた実情を探った。
■72歳母の無事を確認
「大丈夫や?」「いま日吉東小に避難しとるよ!」「結構人おるよね!なんか恐ろしくて家におれんわ!」「今の揺れもこえー」(原文ママ)
16日午前3時、無料通話アプリ「LINE」。中学の友人ら4人のグループチャットで、互いの安否を確認し合った。
16日午前1時25分、熊本で発生した地震は益城町・西原村で震度7を記録した。14日夜の震度7の地震に続いて2回目の巨大地震。テレビでは被害の大きい益城町の現状しか流れなかった。
記者の実家は熊本市南区だ。ここで20歳まで過ごした。16日未明の地震直後、母(72)に電話で無事を確認する。母は「14日に片付けた食器が、また全部落ちた」と嘆いていた。熊本市中央区のマンション11階に住む祖母(96)と叔母(63)も、電話で無事を確認できた。
朝になって被害の状況が次第に明らかになってくる。テレビでは、益城町や南阿蘇村で家屋の倒壊の様子が映し出される。阿蘇神社や熊本城などの重要文化財が倒壊もしくは損壊していた。
記者は18日午前、現地取材班の一員として熊本入りが決まる。大慌てで名古屋から新幹線に飛び乗り、一路熊本に向かった。
■体は悪臭を放つ
博多で車に乗り込み、地元を目指した。支援物資のトラックで渋滞する基幹道路を避けて迂回し、通常1時間半で着くところ、3時間かかった。
実家までたどり着き、自分の部屋を見てがくぜんとした。机がベッドの近くまで押し出され、2つの書棚は倒れ、参考書や漫画本が散乱していた。思い出の品々が無残な姿になっていた。
部屋の中に立ち尽くしていると、「ズーン」という地鳴りのような音が響き、家が揺れる。余震だ。十数分おきに震度1~3の余震が続く。とても寝られず、気の休まる状態ではない。
翌朝以降、取材の合間に家の片付けなどを手伝う。最もつらかったのは断水だ。トイレの排せつ物を流せない。トイレをきれいに流そうと思ったら、5リットル以上の水が必要になる。小便はためて大便の時に流すルールで、家の中にも臭いが立ちこめる。
トイレの水は近くの小学校のプールからくみ、使っていた。母のような高齢女性だけでは重労働だ。顔も頭も体も洗えず、歯も磨けない。体は悪臭を放つ。
実家近くの日吉小学校は、母校だ。小学校6年間を過ごした。給水スポットに指定され、給水車が1日3回現れる。住民が水を求めに並ぶが、給水は1回につき6リットルという。これで数時間、過ごさねばならない。
熊本市北区に住む同級生の義父、笹田勝(58)は近くの公園までトイレの水をくみに行く。飲料水は「給水スポットの学校を渡り歩いて家族とペット用の水を確保する」という。
熊本は「水の都」といわれていた。水道の8割は地下水を利用し、県内各地で湧き水も出る。だが一旦、水道が止まると、車を運転できない高齢者など弱者が最も打撃を受ける。水をくんだとしても、重たいタンクを運べない。
若い男性は日中働きに出ているか、県外で就職している。男手がないことで家の片付けも進まず、水にも苦労する。そんな負の構図がある。