対機説法、という言葉がある。
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リンク先にあるとおり、これは「相手の精神状態や理解力にふさわしい手段で説法すること」を意味する。世の中には、理解力も精神状態もさまざまな者がいるので、通り一辺倒な説法ではうまく伝わらない。相手にあわせて説法するのが上手な説法、ということになる。
これはインターネット上で説法、いや、説法に限らず色々なアウトプットをやっている人にもある程度あてはまる。
ネットの読み手や視聴者には、理解力も精神状態もさまざまな者がいるのだから、ひとつの表現だけですべての読み手をカバーすることはできない。もし、自説をできるだけ広範囲の人に届けたいなら、わかりやすいもの~難しめだが緻密な内容のものまで、相手にあわせて提供する必要がある。あるいは、twitterならtwitterのフォロワーの、ブログならブログの読者の、動画配信なら動画配信の視聴者の理解力や精神状態を踏まえたアウトプットをするのが適当、ということになる。
あわせているつもりが、フォロワーに呑まれてしまう
ところがインターネットで相手の理解力や精神状態にあわせて長くアウトプットしていると、歯車が狂ってくることがある。
インターネットにおける説法やアウトプットのたぐいは、「自分から相手のところに出向いて」行うものではない。「読みたいと思った読者が発信者のところにアクセスして読む/視る」「読みたいと思った人達が集まってくる場所で伝えたいことを伝える」といった性質を持っている。である以上、「ひとりひとりにあわせてアウトプットする」のでなく、勢い、「集まっているみなさんにあわせてアウトプットする」になりやすい。特に、単一のネットメディアに偏ったかたちでアウトプットを続けている人は、そのようになりやすい。
「集まっているみなさんにあわせてアウトプットする」のも、対機説法とはいえるだろう。しかし、いつも同じような場所で似たようなみなさんにあわせてアウトプットし続けていれば、相手にあわせた投稿しかできない自分自身、みなさんに最適化した投稿を繰り返してしまう自分自身ができあがってしまう。それしかできなくなってしまえば、もはや、対機説法とは言い難い。
自分のアウトプットをうまく届けるためにフォロワーを意識しているうちに、フォロワーに呑み込まれてしまい、自分自身を見失ってしまう――そうした現象は、インターネットでアウトプットに精を出す人々の間では珍しくないものだ。はじめのうちは色彩豊かで変化球にも富んだ投稿をしていたアカウントが、フォロワーを意識するあまり、フォロワーと同質のアウトプットしかできない……もっと言うと、フォロワーの理解力や精神状態にあわせて刈り込まれたアカウントへと身を落としていくのは、見ていて楽しいものではない。
複数のネットメディアにまたがってアウトプットを続ける人・すでに自分自身の考えが確立している人であれば、このような「フォロワーの理解力や精神状態にあわせて刈り込まれていく」リスクは少ない。オフラインのアウトプットこそが重要な人も同様だろう。しかし、単一のネットメディアに偏ったアウトプットを続けている人・自分自身がグラグラしていて簡単に他人の影響を受けてしまう人・オフラインでばかりアウトプットを続けている人は、フォロワーに呑まれるリスクが高い。
インターネットは、「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤く染まる」が起こりやすいメディアだ。だから、アウトプットをする側も、インプットをする側も、同じ場所で・同じ相手に・同じようなコミュニケーションを続けているうちに、同質化しやすい点に注意を払う必要がある。
「別に同じになったって構わないし、同質なほうが気持ち良いじゃないか」と反論する人もいるかもしれないが、フォロワーに影響を与えているつもりがフォロワーの下僕のようになってしまう構図は傍目に見て格好良いものではない。それと、皆と同じところに理解力や精神状態をあわせっぱなしで過ごしていると、自分の頭で考えるよりもフォロワーの傾向で考えようとする変な手癖がつくこともあるので、ほどほどにしておいたほうが良いと思う。