どもども、かずかずです。
僕、10ヶ月だけ大企業でサラリーマンやってたんですが、どうしても馴染めなかった文化の一つが、「青い銀行」とか「某M社」とか言ってみずほ銀行の話をすることです。
別にみずほ銀行に限った話じゃないんですが、誰かや会社を指す時に、明らかにそれと分かるつまんない代名詞を使ったり、「某」とアルファベットを組み合わせたりするコミュニケーションに、回りくどさとを感じました。
隠語は仲間意識を強める
隠語を使うことは、「私はそれを揶揄しています」という意思表示としての機能があります。だから、ネガティブな力で誰かと繋がるためのコミュニケーションツールとして成り立ってるかもしれないんですが、なんか閉じた人たちって印象を受けて気持ち悪さを覚えました。
『消費者の世界』と『企業の世界』の間の溝
なんでこういうことが起きるかというと、人の意識の中で、消費者と企業の間に、きっぱりと線が引かれているからだと思います。
つまり、みずほ銀行ではなく「青い銀行」という風に表現するのは、消費者である自分と企業人である自分を切り離す行為でもあるのです。
恐らく、「お金を生み出す」という行為は、多くの人達にとって「企業のみが許されてる」行為です。
すると、お金を生み出している側とお金で買っている側は、人々の脳内ではこんな感じで別の世界の住人なのです。
たとえ野原ひろしが、ある時はサラリーマンである時は消費者だったとしても、それは流動的な変化では無く、「ONかOFFか」であり、または川の向こうとこっちのようなものなのです。
その、川(消費者と企業の境界線)を乗り越える儀式が、色々ありますが、例えば一つは「スーツを着ること」だと思います。
スーツを着ている時(例えばですよ)は、個人ではなくあくまで企業の一部であり、その時の行動はその人のものというよりかは、よっぽど企業のものであるのです。
だから(というのもいささか乱暴ですが)、イノベーティブなことしてる人たちって大抵私服かビジネスカジュアルな印象あります。そういう人達にとっては、消費者と生産者の側面がきっぱり分かれてないんだと思います。
「青い銀行」に感じる特権階級臭さ
もう一つ、「青い銀行」という言葉を使って会話を進めている人たちに、「オレたちは今こっち(川の向こう)側にいる」といった陶酔も感じてしまいます。
考えすぎかなぁ。
意識の中での消費と生産が一線を画すことでの弊害
こうやって考えると、転職に非寛容な社会や、起業精神があんまり無いことやそれを小馬鹿にする文化を説明することが出来ます。
例えば転職とは、企業ワールド(川の向こう)の中で企業と企業の間を移動することです。でも、今いる企業の一部としてではない半個人のような状態でワールドをウロウロするんだから不安です。
起業については、川のこっちで金を生み出そうとする行為であるので、先ほどの前提に従えばやっぱりノット・ウェルカムなわけです。
要するに生産と消費が一線を画しすぎてると思うんですよね。海外に行くと店員が思った以上に「人間である」ことに驚かされます。
うーん、なんだか「企業人」と話してる時に感じる「お前は誰なんだ」感の根源がちょっとずつわかってきたような気がします。
濁さずにバサッと言ってる記事
上記のようなことを、今朝かっぴーさんのコラム『広告マン、SNS使わなすぎ問題』を読んで思い出しました。
ちょっと趣旨違う感あるかもしれないんですが、広告業界において「自分が関わった案件を言ってはいけない陣営」がいるらしいんですが、SNSの投稿でその関わった案件が臭っちゃうことが多く、どうせ隠せてないんだから言えばいいじゃん、という内容です。
あと以前記事に書いた、渋谷直角さんの「カフェでよくかかっているJーPOPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 」という漫画でも、色んな社名とか人名を隠さずバシッと言ってて気持ち良かったんですよね。
ほなほな