こんにちは。最近とても気になることがある。ヒビちゃんはマンション住まいなので、いわゆる集合住宅に住んでいることになるんだ。
自分の部屋を出て、マンションのホールや郵便受けで、同じ住人に遭うケースは頻繁にある。
マンションには世代も性別も、時には国籍も違う住人がいるのだが、驚くようなことがある。
同じマンションの住人でありながら、まともに挨拶すら出来ない大人が結構いる。
今回は、挨拶の出来ない中高年オヤジたちについて語っていこうと思う。
挨拶できない理由ってなんだ?
今回、ラジ生?でもしゃべらせてもらったが、そのようなコミュニケーションを好まない人たちもいるのだ。
特に観察していると、中高年オヤジが圧倒的に多い。ヒビちゃんも同じ世代としてとても恥ずかしい限りだ。
中には事情があって、あまりコミュニケーションを避けている方もいるだろう。
でも、挨拶されて不快に思う人は少ないのだから、やはり人付き合いの基本として、考えてみてはどうかと思う。
人は独りでは生きていけない。必ず誰かのお世話になっている。年を取れば身体も動かなくなる。
いずれ家族以外の誰かに介護される場合だってあるだろう。
そうであれば、他人からも愛される「オヤジ」のほうが良いはずだ。
気難しくて人とのコミュニケーションが嫌いという人は、他人からも遠ざけられる。
挨拶すら出来ないのはなぜだろう?
その理由を考えてみよう。確かにマンションの場合は、いろいろな人が来るのも事実だ。
外部の人なので、どんな人かもわからない。犯罪者でないという保証はどこにもない。
なので、廊下ですれ違ったりエレベーターに乗り合わせれば会釈くらいは行えるものの、あまり声はかけない。
正直危険人物かもしれないので、声をかけられないというケースもあるだろう。
大きなマンションの場合、同じマンションの人かどうかなんて見てもわからないケースもあるからね。
知らない人には挨拶しない。
これも日本の特性かも知れない。特に子供の場合には、親や学校からも知らない人とはしゃべらないように指導されている可能性だってある。
私たちも小学生のような小さな子供には、むやみに話しかけると誤解を受けるような時代だ。
ただし、ココで取り上げているのはあくまで大人同士での「挨拶」の話だ。
欧米などでは散歩している見知らぬ人同士でも、気軽に声をかけてくる。
これも積極的にコミュニケーションを取ろうとする姿勢が文化になっているのだ。
特にマンションの場合、数十年住んでいるのに隣の住人の顔を見かけたことがないなんてこともある。
ご近所意識を持てない環境と言えるかもしれない。
感覚としては町を歩いていて、すれ違う人々に挨拶しないのと大して変わらないのだろう。
でも、挨拶されて不快に思わないのなら、積極的に挨拶をおこなってみてはどうだろう。
せめて同じマンションの敷地内で出会った人には挨拶したいものだね。
積極的なコミュニケーションの姿勢は、積極的な人生を作って行くと思うので、私は今後も元気に声をかけていこうと思っている。
挨拶ができる人とできない人の違いって?
挨拶ができる人とできない人の違いってさ、個人が家の外の社会と関わる能力を備えているかどうかだと思う。
声を出して挨拶する人は、正常に社会性の能力を備えているんじゃないかな。
軽く会釈するだけの人もいるけど、挨拶の必要性は理解していても社会参加に受け身で関わっているかもしれない。
挨拶の言葉って、人と人とのコミュニケーションの役目をしているんだ。
「○○さん、お早うございます。」という挨拶の言葉を掛けると相手も「お早うございます。」と普通は返す。
さらに挨拶の次の言葉が出て来くるのが普通だ。「今日は暑いですねぇ」とか、「今日は風の強い不安定な天気になりそうですねぇ」とかの言葉だ。
挨拶の次に発する言葉は人間関係を豊かにする言葉に繋がる。
つまり、人と人とのコミュニケーションをする挨拶の言葉を言い表せない人って、人間関係をうまく続けていくことが困難になるのだ。
挨拶のできない人、結局そういう人は孤立してしまうのです。
さらに、挨拶の言葉ってね、秘められた意味があるんだよ。
「私はあなたのお顔を拝見できて嬉しい」「あなたに敵意を抱いていませんよ」「幸せですよ」「嬉しいですよ」等々の心の内の表現でもるのだ。
挨拶をしても返さない人もあります。その人は挨拶の声が聞こえなかったのかも知れません。
また、何かに夢中になっていて気がつかなかったのかも知れません。
挨拶の言葉って本来、相手のために掛けるのではなく、自分の社会性の能力をより豊かにするために行うもの。
従って、挨拶をしたのに返事がないと言って挨拶の言葉を言い表す事をやめる必要なんてない。
中止するのは、あなた自身にとって良くないのだ。自分が損をすることになるからね。
良いじゃないか!自分のために元気に挨拶をしようぜ!