【イントロダクション】
深夜番組『フリースタイル・ダンジョン』が盛り上がっていますが、飲み会でその話をしていたとき、非常に気になるできごとがありまして。
僕:「K DUB SHINEがさ、1990年辺りに『日本語で韻を踏む』という新しいアートフォームのを発明して、そこから日本語ラップのスタイルがはじまっ……」
友だち:「はあっ!? 韻を踏むなんて、歌謡曲にもいっぱいあるし、それこそ万葉集のころから日本にずっとあるでしょ? 全然新しくないでしょ?」
あれあれちょっと待って!?!?
僕も、その周辺も、たぶん業界のまあまあな割合の人も、ずっと、神話や伝説のように、以下のように聞かされ続けてきたし、それを信じ続けてきたわけですよ。
「今の『何小節かごとに、主に脚韻(お尻の方)で、単語単位で母音を合わせる』という韻の踏み方は、K DUB SHINE(以下「Kダブ」)が発明した。
英語で韻踏むのはそれほど難しくないけど、日本語は音数が少ないし、動詞が最後に来るから、脚韻を踏むのが難しい。だから最後の1文字とか2文字だけ母音を合わせるみたいな『なんちゃってな韻踏み」が多数だった。代表的な例では、いとうせいこう(だっけな?)の『語尾に「さ」をつければ韻踏んでラップっぽくなるよ!』という発想がある。
しかし、Kダブは『体言止めを駆使すれば、4小節ごとなり8小節ごとなりで、英語みたいに単語や熟語単位で脚韻を踏める』ことを発見。それを国際電話でZEEBRAに伝え、ZEEBRAが『それ新しいアートフォームになるじゃん!』と興奮し、そこから今の日本語ラップの原型が生まれた」
でも確かに、「押韻」という言葉、教科書で習ったよね? これ韻を踏むってことだよね?
ダジャレや標語って、単語単位で母音合わせる場合多いよね?
俳句や短歌だと、短すぎるけど、でも韻を踏んでるのもあるよね? 「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ(天武天皇)」とか。
じゃあ、僕は20年間騙されてきたってこと? Kダブは、単に車輪を再発明しただけで、新しいアートフォームなどまるで作ってかなったってこと?
それとも、昔ながらの押韻と、日本語ラップでの「韻を踏む」には、何か明確な区別や差があるの?
なにせ20年の歴史がある勘違いかもしれないし、この伝説/神話は僕にとっては個人的にとても大切なもの(なんたってそれが生まれたその瞬間、シーンのど真ん中にいて、毎日その革命を体験していた)ので、ずっと心に引っかかっていて、通勤電車の行き帰りの中で、この数日いろいろ調べていまして。
以下、調査結果です。
【調査】
まずは「絶対的にHIP HOPであらねばならない」(鼎談 Kダブシャイン+小林雅明+佐藤雄一)と日本語ヒップホップの歴史を塗り替えた!ラップグループ「KGDR exキングギドラ」より:
一九九〇年代中盤にKダブシャインさんの発明した日本語の押韻は,文字どおり「まだ見たことのない動きあみだす」リズミックなものでした。そしてその意義はまだ本当の意味で評価がされていません。それは日本語の千年に一度単位での変化であると言って過言ではない。
韻を踏むというのは、「がくせい」なら母音が「あうえい」になるので、それと同じ母音のも例えば「かくめい」というようなことである。これを発明したのが、まさしくかれなのである。
それからの日本語ヒップホップの石杖をつくったといっても全く過言ではないであろう。
まあそうね。そう思い続けてきたよね。
続いてこちら。「押韻」の歴史的変遷と現代における「ライミング」活用の架橋より:
学校で扱う「押韻」が漢詩のみであることからも、韻を踏むという表現は日本の文学ではあまり活用されず顕著な発展をみせていません。
<中略>
ところが、1980年代にヒップホップミュージックが輸入した後、ラップで韻を踏むことを「ライミング」とし、日本語での韻表現は発展していきます。そして現在の日本語ラップでは韻を踏むことは当たり前になっています。
んん? これはなんかモヤる。
このテキストで言うところの「押韻/ライミング」は、「昔からあった」けど「活用されてなかった」、しかし「日本語ラップで定着しはじめた」、と。
つまり、韻を踏むのは「昔からあった」けど、長いことミッシングリンクがあり、その後日本語ラップで復活した、と。
これは僕の疑問にイエスともノートも言える発言で、モヤりますね。
僕と同じことを調べようとしている人もいました。和歌の時代に「韻」はあったかより:
和歌においても、日本語の「音」に着目した表現の技法は存在している。
しかし、それはライミング(押韻)ではなく掛詞というレトリックだ。掛詞は、仮名表記が同じ2つ以上の言葉を「かけて」用いる修辞技法である。
一つの言葉の中に複数の意味を持たせることで、文字数のルールがあった和歌において、より多くの内容を伝えるため等に使われた。
なるほど。結果としては今でいう「韻を踏」んでいるようになっているけど、それはリズム感を作り出すためではなく、同じ音の文字をかけあわせるという遊びだったという解釈ですね。
これは感覚的に分かる気がします。英語圏での韻踏みと日本語の(ラップ以外の)韻踏みには「狙い」に違いがあるということですよね。
だから母音だけじゃなくて子音も一緒だと日本語ラップが急にダジャレに聞こえるときがあるし、Shing02は「ダジャレじゃないのよラップは」と主張した、と。
だからKダブの発明は「小節のお尻で、単語単位で母音を合わせる」だけだといい方が不十分で、「小節のお尻で、単語単位で子音を変え、母音を合わせる」ということなのかも。確かにこれだとダジャレ感はなくなる。
っていうかこの「日本語ラップの基礎研究」というブログは素晴らしい。Kダブらの「固い韻を踏む」スタイル以降の、ニトロ、Shing02(そういえば彼は「日本は古来より言の葉の国」って言ってたなあ)、THE BLUE HERBや韻踏合組合などの、頭やお尻じゃくて変なところ韻を踏んだりり、母音だけ合わせる以外のトリッキーな韻の踏み方にも言及している。
僕の考えながら書いてるこのダラダラとした長文じゃなく、こっちを読んだほうがよっぽどわかりやすいと思うけど、せっかく昼休みつぶして書いてもったいないので、これはこのまま行きます。
【まとめ】
結局、なんかモヤモヤが残るので、間違っているかもしれませんが、まとめるとこういうことですかね。
● 「小節の頭やお尻で、「単語単位」で、4〜8文字もの長さの韻を踏む。母音は合わせて、子音は変える」のを徹底ルールとする手法は、確かにKダブをはじめとする当時のラッパー勢(キングギドラやラッパ我リヤやその他大勢)が「発明」した。これを「押韻主義」と言うらしい
● でも、単語単位とか、子音を変えるとかにこだわらず、広くとらえれば、昔から押韻はあった。特に漢詩の影響が強かった万葉集の時代は(中国語では英語のように韻を踏むことがよくあるので)、押韻しようと工夫した跡が見られる
● でも押韻は、日本ではすたれていき、ダジャレで用いるか、語尾の数文字を合わせるだけのなんちゃってなものになってしまった。これがKダブやキングギドラやラッパ我リヤやその他日本語ラップで復活する
● 一方、最近の日本語ラップシーンは、押韻主義にこだわっておらず、昔ながらの万葉集的な押韻の使い方や、掛詞、ダジャレ、不規則な韻踏み、そして、そういうの全然無視して単に言葉のインパクト、なんでもアリになってきてる
なるほど。いろいろ分かりました。僕は「日本語で韻を踏む」こと自体が厳密にKダブの発明だと信じて20年間生きてきたので、そこはわたくしが間違っておりました。たいへん申し訳ございません。
でも調べていく中で、確かにKダブは韻そのものではないけど決定的に新しい日本語の使い方を発明したし、あと最近のラッパーたちが何をどう考えてああいうライムをしているのか、よくわかるようになりました。やー勉強になった。ありがとうございました。
【おまけ】
関係ないけど僕が一番好きなラッパーは降神です。頼むから新アルバム出てくれ……
あと、僕が大好きなライムは、以下の3つです。口に出して言ってみてください。癖になりますよ。
「長いものはぶった切る出る杭は打ち返す芸術で訴える!」
(Shing02「400」)
「ピエール瀧 on the マイク。好きな座り方は体育」
(電気グルーヴとスチャダラパー)
「自分が自分であることを誇る、そういうヤツが最後に残る」
(K DUB SHINE「ラストエンペラー」)
「ざぶーん 子羊たちが いつになく 冷たい水に飛び込んで笑うんだ たぶん きっとそれは覚悟を決め 身投げしたときにだけ 聞ける調べ」
(なのるなもない「海月」)
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