ただ、「型」はあると思う。
僕はブログ記事における書き出しに定型は設けていない。ここを掘り下げていく。
なぜ人は書き出しに悩むのか
それが全てのとっかかりであり、これにくじけると文章全体が駄目になってしまうのではないかという錯覚に陥っているのではないかと思われる。また、そこに正解があるのであれば、それを選択したほうが結果が出るのではないかという推察をしているのではないか。
ここははっきりいってしまえば正解はない。数学などの明確に答えを出せる分野ではない。自分というものを表現するのに正解があるかどうかと言われたら、どう答える?それに正かいなんてありゃしないのだ。だから自分の出し方なんて人それぞれで面白いのである。
しかしながら、出足で悩むようなリソースを割きたくないという気持ちもわかる。文章を書くというのは一筋縄ではないからね。なので、僕の考えていることをどうにか文章化して一定の方向性を示したい。
「どうも○○です」自己紹介系に利点はあるか?
大いにありだと思うし、定期購読中のブログでもこのような書き出しをする人が多い。この利点というのは先述、書き出しで頭を捻らなくて良いぶん、記事内容に集中することができるというところ。もうひとつは、筆者が名乗ることでブランディングとなることであろう。
記事内容がついてくれば、というのは最低条件としても、毎回このように名乗っていれば「どうも○○です」→「あ、○○さんが書いた記事なんだー」と認めてくれるようになるかもしれない。つまりは自分の売り込みである。
定期購読者であればそんなことを言わずとも誰が書いたかわかろうものだが、検索エンジンから流れてきたような読者であれば管理人の顔はおろか名前すらわからないことが多い。そのような方々に名前を売ることができるだろう。
2点のメリットをお伝えしたが、僕的に最大のメリットは後者、名前を売るという部分だと思う。でも、これをあえてしていないのである。
僕がブログ記事における文章の書きだしを決めていない理由
フレキシブルな書き出しができない
悲しい、嬉しい、怒り。そんなエントリーを書き始める時に必ず「どうも○○です」と決めてしまえば、どこか調子が狂う時もあろうかと思う。例えば怒りに打ち震えたエントリーを書こうとして「ふざけるな!」と始めたとする。その前に「どうも○○です。ふざけるな!」って、なんか危ない人みたいじゃないかな。調子狂うよね、やっぱり。またはサイケというか、トリッキーな書き出しをしたい場合なんかも名乗りは邪魔になりうる。
こう考えるとその時の気持ちを素直に書き綴るエントリを主とする僕の筆耕スタイルにはどうしても「名乗り形式」は合致しないのである。
管理人の顔は記事内容で伝える
若干暑苦しい理論だけど、まさにこの通りである。とにかく僕の性格が知りたければ中を見てくれ、それですべてがわかる。これくらい熱い気持ちで毎回ブログを書いているものだから、僕にとっては名乗りなど蛇足になってしまうのであり、逆に興ざめとなる。
一応言っておくけど、名乗るブロガーを全否定するつもりはない、あくまでも僕の中では、の話をしている。それについてヒートアップするのは構わないけど、レスポンスはしないからね。余談。
記事の内容が面白ければ名前を知りたいという感情も起こるだろうし、ひと手間ふた手間かけて管理人プロフィールを見てくれるだろうよ。まぁ、僕の場合は『ポジ熊の人生記』なのでポジ熊という人が書いたのだろうということをヘッダ画像を見て察してくれる人がほとんどだろうけどね。
まとめ
- 書き出しに正解は無いが、型を決めることはできる
- 「どうも○○です」というのは悩まなくていいということ、自分を売り出すという2点のメリットあり
- 僕は記事内容を柔軟にするため、また面白ければ必然的に手間をかけてくれるだろうという中身ありきの運営をしているから書き出しは決めていない
こんなところかな。最近では文末の締めも形にこだわらないようにしている。