皆さんは文章を書くとき、どのようなことに気を配っているだろうか。助詞・助動詞の使い方や用語の使い方、誤字脱字など色々あるかと思う。では、僕が何に最も気を配っているかと言えば「表現」と「文章の順番」である。
もちろん、誤字脱字や文法的なものも大事だけど、それに捉われた文章は面白みに欠けて好きではない(もちろん、軽視していい要素ではないが)。そこで、今回は僕が気を付けている表現の仕方などを少し書いてみようと思う。
「桜が咲いている公園」は「桜が咲いている公園」ではない
たとえば、この写真に写っている風景をどのように表現すればいいのだろうか。この問いに答えなんてないかもしれないけれど、「どのように書けば魅力的か」という部分には解答があるかと思う。
考えられるのは
「桜が咲いている公園にて、地元住民が集まって花見に興じている」
という感じだろうか。でも、この文章では誰も目を止めないだろう。
先ほど書いてみた文章は、写真に写っていることをそのまま文字に起こしただけである。事実を書くことは大事だけれど、そのまま書いても「写真を見ればわかる」となってしまう。特に、現代では写真を添えて文章を飾ることが多いので、写真をそのまま書いたって意味がない。
では、どのように書くのがいいのだろうか。僕が書くとすれば、こんな1文を書いてみるかと思う。
「昼間から花より団子な宴会が開かれ、花見客だけでなく酒屋の顔も華やいでいる」
こんな感じだろうか。ただ目に映る情報だけではなくて、その場面から連想できることや、考えられる状況や付随する効果を盛り込んでみる。先ほど書いた1文をそのまま使うか使わないかは別にして、一度写真とは関係なさそうなことも考えてみる。
文章の力は目に見えないものを具現化すること
http://blogs.yahoo.co.jp/torafarugared/folder/514067.html?m=lc
文章を書くのに必要なのは情報である。何か1文書くとしても、何らかの情報が元になっているはずである。フェイスブックで「たのしかった」と呟くためにも「楽しかった事象」がないと呟けないし、インスタで写真と文章を載せるにしても「写真」という情報があってはじめて成立する。昨今では感情をそのまま文章化することが先行しているように見えるけれど、その元になっているのは経験や事象、情報となっている。
だからと言って「絶対に何かをしないとものを書けない」とは言わないけれど、具体性やリアルな感情を文章に乗せるためには経験や想像をかき立てるものを付随させていくことが大事だと思っている。あまり自分の経験ばかり語るのも、非常に押しつけがましくて嫌味な文章になるので……。
情報が簡単に手に入って共有できるからこそ、僕たちは何かを「書いたつもり」に陥りやすい。その結果、自分で文章を生み出さなくても何かを「語った状況」を生み出しているのも事実です。
だからこそ、自発的に「おもしろい!」や「もっと見たい」を刺激する文章を書くことって大事になってくるんじゃないかと思う。ちょっとしたことでも事実を大事にして、その物事に対して「感情」が乗ることを意識しないと、僕たちの中から本当に「リアル」が抜け落ちそうで怖いときがある。
「キャプチャー」 という文化
写真や引用があれば、ある程度の文章やコンテンツを作ることができると考える人もいる。その1つにまとめサイトがある。
ネット上などにある情報を再編集することで、有益な情報へと昇華して提供するものだ。しかし、過剰な広告やまとめサイトの氾濫による類似化によって、全ページを見る人は減ってきているように思う。
その中で、今の若い人たちの中には「キャプチャ」という文化が広がりつつある。
このサイトに書いてあったり、企業が危惧していることを僕は気にしていない。ネット上にはびこる悪質な広告などもあるため、その広告を避けようとした結果生まれたものならば、仕方ない気もする。
僕としては、こちらの「かっぴー」さんの考え方に賛同する。
キャプチャで拡散する若者が増えてるって話の論点は「PVやシェア数に加算されなくて媒体価値に繋がらない」って所に置いちゃダメなんだよなー。
— かっぴー(SNSポリス) (@nora_ito) 2015, 11月 21
これ、まごう事なきコッチの都合だからな。
彼らの都合からしたら、楽な方が良いに決まってる。
キャプチャする若者は、基本的には味方なんだよね。
— かっぴー(SNSポリス) (@nora_ito) 2015, 11月 21
だって面白がってくれてシェアしてんだから。
彼らの遊び方に合わせて、遊具をカスタムするか、公園の看板的に啓蒙するしかない。
僕たちが少なくとも企業人ではなくて、「表現者」や消費者に対して「おもしろい」を提供していく立場ならば、広めてくれることや「文章による刺激」にもっと貪欲にならないといけないと思う。
もちろん、広告としてマネタイズする方法は考えるべきだと思うけれど、キャプチャーしてくれた文章を「さらに読みたい!」という形で誘導することはできると思っている。もっと言えば、それこそ「書かれていない部分」を探そうと読者を刺激しながら、読んだ人が別のストーリーを生み出してくれればそれでいいのではないだろうか。
自分のブログへと来てくれなくても、自分の文章によって刺激を受けた人が別の文章を生み出してくれれば、自然とそれは自分の宣伝をしてくれていることになるわけだ。
サイトへ来てくれることも考えないといけないけれど、見てくれた人の何かを刺激する文章を書いていくことは、これからのブログやSNSでは重要となってくるのではないかと考えている。
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