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ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

しばし

下書き?

これから、ぼくは、しばしネットの世界を離れるのではないかと思う。

短い間だったけれど、ここで書いたエントリは、厳選した、役に立つエントリのはずだ。少なくとも、ぼくにとっては、大事な覚え書きでもある。

この社会には納得できないことが多すぎる。それをなんとかする方法を探してきて、そのヒント――少なくとも、実践の前の情報収集としては、ここに書いてきた方法は、そんなに自分のしたいことと離れていないように思っている。

あとは準備をして行動するだけだ。もし、何かしらの結果を報告できるようになったら、ここにまた帰ってきたいと思っている。

みなさんの人生がよいものになって、無事、平安ある生存ができることを祈っている。もちろん、ぼく自身にとっても。

それから、これは生存戦略とはほとんど関係ないけど、小説と絵をかきたいなあ、なんて思っている。では。

生存戦略その2

生存戦略 宗教

日本で自給自足が生存戦略その1なら、海外で瞑想生活が生存戦略その2である。世界には、瞑想センターというものがあり、もし本気で瞑想したいなら、そこで無料で生活できるそうである。さらに、出家したいなら、そこでも無料で生活できるそうだ。ただ、これはこういう宗教的なもの、精神的なものに興味がなければ、そして現世的な快楽にあまり興味がない人間でなければ意味をもたない生存戦略であるとは思う。だが、ひきこもりの人の中には、そういう人も数多くいると思うので、ここに記す。

 

 自殺するくらいなら出家しよう。
 ひきこもりなら、一度くらいは、というか、もしかしたら何度も、将来の不安に押しつぶされそうになったことがあるんじゃないだろうか。
 世の中には、ひきこもりの人が、将来の不安なんて何にも感じていないからひきこもっていられるのだ、と思っている人がいるかもしれない。
 だが、それは違う。たぶん、世間の人が不安に思っている以上に不安に思っているので、そのあまりの恐怖のため、家からまったく出られないのである。
 能天気になんとかなると思っているやつの方が、案外世間に出て、実際なんとかしている一方で、きっと駄目に違いないという強い信念が、実際に足をすくませ、一歩も外に出られないようにしている、とぼくは思っている。

 それはともかく。
 本当に死ぬ前に、なんとか逃げ道のひとつやふたつ、できればみっつよっつと作っておきたいと思ったことは、ひきこもり経験者ならあるはずで、そのうちの一つとして、出家を考えたことがある人もいるかと思うので、出家というか、修行で悟りを開くということについて話してみたい。
 一般的に考えられている、日本で働いてご飯を食べて生きていくという道が、ひきこもりには、閉ざされがちである。
 面接も受かりづらいだろうし、そもそも自分の精神もなかなか働くということにたいして焦点が合わない、違和感を感じるんじゃないだろうか。
 少なくともぼくはそうだ。
 そこで、外国で、なんとかして、(日本の通常の意味で)働かなくても食べていける方策としての出家を調べてみた。
 出家というか、瞑想センターで過ごすというやり方かもしれないが、とりあえずまとめてみる。

 日本では、僧侶になるのは難しいらしい……というか、僧侶になれば食べていける、死ぬことはない、という文化ではないので、外国の例を。
 主に、出家するなら、僧侶がお布施で生きていける国で僧侶になるべきだと思うのだが、たぶんそれは、タイ、ミャンマースリランカチベットのいずれかになるだろうと思われる。
 ここで、「ニー仏さんの勧める瞑想センターの選び方・瞑想の仕方」(http://togetter.com/li/360858)を参照すると、まず、日本で体験できる瞑想を行い、自分に合ったものを見つけることが大切なのではないかということだ。そのうえで、三か月以上、現地で瞑想をしてみることをすすめている。
 ただし、自分に合っていない瞑想(そもそも瞑想そのものに合っていない人もいるらしい)をしても、意味がないし、瞑想の師の示す方向と自分の行きたい方向が違っていても意味がないので、自分の向かいたい方向性と、その学ぼうとする瞑想の方向性が合致するか、見てみることを強く勧めている。これは全くその通りであると思う。
 上のtogetterで、ニー仏さんは、「一口に「瞑想」といっても、例えばテーラワーダチベット仏教と禅とヨーガでは、やっていることが全然違います」と言っている。興味あるものを日本で実際にやってみる、体験するのにお金がかかり、ひきこもりではできない場合でも、図書館でハウツーの本が出たりしているので、調べることができる。
 座禅はちょっとだけ体験したことがあったが、他は本で読むことができた。
 個人的には、ヨーガの一部とテーラワーダの一部は興味ありそうな気がする。
 上のtoggetterにある、以下の言葉が、印象深く響いた。

【引用開始】よく言われるように、瞑想行において先生の役割はたいへん重要だし、生徒としては師匠の言うことにきっちり従うことがとても大切なんだけど、そもそも先生が教えてることと、自分の行きたい方向が乖離していたら、やればやるほど苦しくなってしまうだけだしさ。
その意味で、瞑想をやる場合にも「教養」はとても大切。「いま自分が何をやっているか」を、思想的・歴史的な面と人倫的・社会的な面の両側面から把握して、その上で、自分がいま必要としているものを選択すること。これができないと、どうしても自救不了(自分自身も救えない)になってしまう。【引用終了】


 さて。
 実際のところ、伝統的な仏教の修行が、どのような変遷をたどって、現代にいたっているのか、そのことについては、ぼくは調べてみたが、よくわからなかった。
 過去の教典をひもといたりしてみたが、はっきりとはわからない。
 ただ、現代、手軽に触れることができる瞑想としては、チベット仏教が日本で修行法を体験できるものをやっていたと思うし、座禅会であれば日本のどこでもやられている(日本では出家して食べていくことができないのでここでは考慮しないが)。
 テーラワーダ仏教(いわゆる上座部仏教)については、お寺でやっている修行法はよくわからないが、日本からでも比較的アクセスしやすい瞑想法としては、ヴィパッサナー瞑想というものがあり、主に三つの系統がある。これは、テーラワーダ仏教で行われている修行法を在家向けに簡略化したもののようだ。
 その三つの系統とは、ゴエンカ系、マハーシ系、パオ系である。
 また、タイにもこれらの系統の瞑想センターがあるが、それ以外にもタイではタンマガーイという新興宗教の瞑想法も存在する。
 これらの瞑想の方法については、ネットにもやり方がのっているので、参照されたい。
 また、pdfでこれらの瞑想についての歴史的、文化的背景を扱っていると思われるものを以下にあげておく。
(上三つが、実際にどんな瞑想が行われているのかについて書かれたもので、下の三つがその歴史的背景などについて書かれたもの)

 これらのpdfと、図書館で本などを読んで、みなさんも生存戦略のひとつとして考察してもらえればと思う。ひきこもりの中で、親が存命な人がいれば、お金を出してもらって、向こうに行くというのもひとつの手であると思う(もちろんその前に、どんな瞑想があるか調べて、自分である程度実践してからという前提で)。渡航費はある程度かかるが、これから死ぬまで暮らす費用を考えると安いものではないだろうか。

 

KirimetiyaneWimalawansa sa 上座仏教三国における瞑想の調査報告 タイ・ミャンマースリランカ
タイ上座仏教における瞑想法の現在 K.プラポンサック
アーナパーナ・サティ入門   ―呼吸への気付きの瞑想―

阿部貴子「現代の仏教瞑想-マインドフルネス(気づきの瞑想)について-」
蓑輪顕量 仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について──
タイ仏教社会の変動と宗教実践の再編 小野澤 正喜

 

 

【補足】

静と動の仏教 (新アジア仏教史04スリランカ東南アジア)や、リチャード ゴンブリッチの「インド・スリランカ上座仏教史―テーラワーダの社会」や「スリランカの仏教」などは、背景を探るのに役に立つかもしれない。

これからの行動計画

これからやりたいことを箇条書きにする

エスペラント語の勉強(cf: 萌えるエスペラント語、ニューエクスプレスエスペラント語

・英語から日本語への翻訳

・小説、あるいはノベルゲームの制作

・絵

上から、三十分、三十分、三十分、三十分で、二時間くらいの時間は、毎日取れるのではないかと推測するが、無理はしない。

 

・ヨガ

・環境問題(cf; 重曹生活)

オルタナティブな経済に関する勉強(cf: ハジュン・チャン、不当債務、反グローバル運動)

滝本竜彦さんのブログを読む

目覚めゆく広場――15M運動の一年

目覚めゆく広場――15M運動の一年 - YouTube

 

新自由主義という経済潮流がある。

個人の自己責任を主張するわりには、会社の責任やお金持ちの道義的責任は棚上げにする思想――弱肉強食の思想――だとぼくは思っているのだが、その経済潮流に対して、草の根で反対の声があがっている。

それに関するドキュメンタリー動画。

下の方で紹介した

『もうひとつの道はある:雇用と社会福祉のための提案』 | Ramon Book Project

という本の中で紹介されていた動画だ。

「ジャスミンの残り香」感想

読書(社会変革、革命)

 いい本だ、名著だ、と思った。
 チュニジアから始まったジャスミン革命とその余波を、中東情勢を説明しつつ語った本。
 すごく読みやすいし、わかりやすい。そして何より面白い。
 エジプトでは、ムバーラク政権から同胞団へ、そして軍のクーデターが起こりスィースィーが最高権力者になったよー、という基本的な流れを抑えつつ、たとえば、同胞団は経済政策
的には新自由主義の信奉者が多い(35ページ)など、知らなかったことがいっぱい書いてある。同胞団は蛇のように狡猾なイメージというのも意外だった。もっとまじめかと思ったが
、したたかなタイプの団体らしい。
 面白かったのは、エジプトやトルコに新左翼がいるとか(たとえば28-29ページ)、ムスリム同胞団支持だけどジーンズもはくしシーシャ(水タバコ)も吸う青年の話とか(40
ページ)、酒好きの不良ムスリムの話とか(109ページ)そういう現実に生きている人の話がたくさん書いてあることだ。イスラム教徒については、コーランにこう書いてあるから、
こう生きているはず、みたいな話が先行しがちで、実際にどうやって生きているのかがあまり見えてこないことが多い。
 昔、イスラム教徒の人に聞いたことがあるが、コーランを全部読んだことがある人は少ないらしい。確かに、古事記を全部読んだ人や、南伝大蔵経を全部読んだ人はあまりいないだろ
う。別の本だが、聖書を最初から最後まで読んだことがあるアメリカ人もあまりいないという。
 だから、これは本当にぼくが読みたかった話で、だって、ネットとか新聞とかテレビでは、そういう生きた人間の話は出てこない。また、同胞団が政権にあった当時、エジプトのリベ
ラルの話はあまり聞かなかったし今も聞いたことがあまりないし、権力を握っていた同胞団ではなく、実際にエジプトの多数派の人はどう考えているのかという話は聞かなかった。
 エジプトの多数派は、同胞団は蛇のように狡猾で信用できないところがあるとしながらも、ムバーラク政権崩壊後は、それなりに支持していたらしい。しかし、ジハード(武装闘争)
主義者との結託や、自分たちの身内に甘い汁を吸わせ、権力をにぎる政策(公立学校の校長を同胞団系にすげかえる)、などの行いが、どんどん共感を失わせた。
 結果、クーデターが起こり、同胞団は政権を追われるわけだが、筆者は、これを、非寛容(同胞団)と寛容(市民)の対立とみる。
 エジプト人イスラム教徒は一日五回の礼拝を欠かさない人も珍しくないが、同時にイスラームの教えに抵触する偶像をまつったピラミッドを誇り、イスラーム主義者が忌み嫌うベリー
ダンスを許容し、マイノリティのコプト教徒との共存に気を配っている、と筆者は言う。敬虔であることと、政治イスラームイスラーム主義)の活動家になることは次元が違う話なの
だ、というのだ。また、敬虔な信徒の大半は、コプト教徒への攻撃に本心から起こっていたし、筆者が取材したある人物は、同胞団は小さな違いを見つけて他人を背教者(カーフィル)
扱いする、と批判する。そこが、多数派市民と、同胞団との違いなのだ、と。
 ぼくは、この件においては、同胞団を支持しない。まったく支持できない。

 ムハンマド・ハーシムという、非暴力、非宗教、反軍政、という人がいるのも初めて知った。そうか、やっぱりエジプトにも非宗教の人はいるんだ、と思った。
 また、アル・イシュティラキユーン・アル・サウリユーン(革命的社会主義者たち)というグループがあったり(彼らは新左翼)、ブラックブロック(こちらはアナキスト)があった
りするのも初めて知った。ぼくはアナキストには親近感を持っているのだけど、ブラックブロックはヨーロッパやアメリカでは聞いたことがあったが、まさかエジプトにもいたとは。筆
者は、エジプトに新左翼がいたことに驚いていたが……。
 ちなみに、前述のハーシムは、国を破壊するという点では新左翼も同胞団も同じとして、嫌悪感をあらわにしたと書いてあるが、そのあとの筆者の、市民運動と革命家はエジプトでも
そりがあわないらしい、というセリフは思わず笑いそうになった。確かにそうかも、と思ってしまったので。

 シリアの話で、情報操作が政府系にも反政府系にも、どちらのメディアにも影を落としていて、何を信じていいのかわからない状態になっている、というのは、日本と少し似ていると
思った。この本は、日本の情勢にも射程を広げていて、脱原発デモが権力におとなしくしたがっているというところに疑問を感じていたり、社会に責任のない人はいないわけだから、原
発を温存している自分たちへの反省が必要という視点(「自分や家族に害が及ばないにしても、人柱を不可欠とする原発という存在自体が倫理的に許されない」、一部の犠牲は電力の安
定供給のためにはしかたないという考えに対抗するよりどころは、ないがしろにされてきた少数派の無念)には共感できた。
 多数派を取ることが目標になるあまり、警察におとなしくしたがって(つまり権力に屈して)しまうなら、原発に反対する根拠がゆがみかねないのでは、という指摘は、もっともだと
思う。
 それからもうひとつ。
 ぼくは、この本ではじめて知ったのだが、警察庁の発表資料によれば、2012年の脱原発デモが波及していったこの年の五月と六月は、前年比で約四分の一も減っていたそうだ。
 筆者の言葉を引用させてほしい。
「でもと自殺者の相関関係の有無を証明するすべなどないが、私なりの解釈ではこの時期の脱原発デモの最大の成果は原発の再稼働を阻止できたか否かよりも、この社会で息を詰まらせ
ている人びとの絶望感を多少なりとも和らげたことにあったように思う。」(96-97ページ)

 アルジェリアのプラント襲撃事件にも少し触れていた。その中で、過激化して民衆に牙を向けていく運動についても書かれていて、印象に残った。
 イスラーム主義だけでなく、クメール・ルージュセンデロ・ルミノソ、日本の新左翼の大学キャンパスでの恐怖支配も同様だし、孤立と自壊も一緒だと言った。

 202ページからは、かなりの読みどころだと思う。
 革命青年達とイスラーム主義者との似ている点と違う点。決定的なのは、後者が権力を取って世界を変えようというのにたいし、前者が、革命権力でさえ腐敗すると思っているところ
だ。ぼくも、筆者と同じく、革命青年たちと同じ気持ちである。
 筆者が、長年の知り合いのサラフィー・ジハード主義者から、改宗を受けたときに断った回答が、すごくよい(ちなみに筆者はこの人になぜ改宗をすすめないのか聞いたそうだが、ご
りごりの無神論者だから回収しても無駄だと言われたらしい。そういうこともあるんだ、人間的だなあと思った)。
 ちょっと長いので、要約して引用する。

イスラームは神という絶対的な他への完全な服従によって我執からの解放をめざし、そのための環境として初期のイスラム共同体を再現しようとするが、それは平凡な人間の手で作ら
れる。そのために信徒の集団が必要となるが、それは他(神)の啓示を解釈する権威や、服従しない異物の排除、権威ある人間からの承認願望を生み出し、理想と真逆の性格を帯びる。
その先に真の解放はないのではないか。イスラーム国で発生している粛清はこの限界を示していると思うし、個人の殉教願望も組織により制約されている。それに対し、タハリール広場
に集まった革命青年たちはある意味もっとドライで、国家も、悠久の歴史も、神を信奉する共同体も信じていなかったし、絶対的な真理の後ろだてをもって他人に講釈を垂れるような我
執をともなう人間くささはなく、どこまでも不服従を貫く生き方を大切にしているようだった」

 最終章が本当によい。
 革命を後悔しているか?という質問への、圧倒的大多数の「ノー」の声。
 変わるエジプト。エジプトのIBMが変化しているということ。
 憔悴しているとはいえ、大統領を二人も獄につないだ民衆。
 ぜひ、読んでほしい。

第四次世界大戦とジョン・ホロウェイ

社会を世界を自分を変える

権力を取らずに世界を変える、という本を読んでいたら、サパティスタが第四次世界大戦について語っている、というような箇所があって、ちょっと検索してみたら、面白いものを見つけた。

何かあったときにアーカイヴすることができるように、第四次世界大戦についてサパティスタの人が語ったところへのリンクは、最初のふたつはアドレスがわかるようにした。最後のリンクだけはタイトルを表示。

https://ramonbook.wordpress.com/2014/02/18/la-quatrieme-guerre-mondiale-a-commence-2/

https://ramonbook.wordpress.com/2014/04/19/la-quatrieme-guerre-mondiale-a-commence/

第四次世界大戦が始まった(3)-マルコス副司令官 | Ramon Book Project

 

このサイト、面白い。とても。

『もうひとつの道はある:雇用と社会福祉のための提案』出版!ramonbook.wordpress.com

この訳書、共同訳者に、ミヒャエル・エンデのモモから地域通貨シルビオ・ゲゼルに関して書いていた廣田裕之さんがいるのも熱い。

ジュリアン・アサンジ独占インタビュー―イグナシオ・ラモネ | Ramon Book Project

Chavsチャブズと新自由主義 | Ramon Book Project

 

それにしても、目が痛い。

最近、ネットをしていると目が痛くなる。あんまり長い時間できないし、文字を追うのもつらい。これは、ネットから離れろというメッセージなのかもしれない。ネットを離れて、何か別のことをする時期なのかも。

インターネットで質問するときはどこに質問をすればいいのか?

生存戦略

インターネットで疑問が出てきたとき、検索だけではどうにもならないときは、どこかの質問サイトで、質問をするときがある。

さて、この場合、どのような場所で質問するとよいのだろうか?

実際、質問サイトには傾向があって、下手な場所で質問をすると、自分の人格を否定するような答えが返ってくるときがあって、危険である。

まず、技術的な質問(というか、正解が一つにしぼれる質問)の場合だが、これはだいたいどこに質問を出しても変わらない気がする。たとえば、パソコンで変な表示が出たのだが、どういう意味か、とか、このシーンのある映画の名前は何か、とか。

でも、たとえば、親が変なことを言ってくる(と思う)んだけど、わたしと親とどっちが悪いのかな?などという場合。こういう風に答えが一つに決まらない、解釈がいろいろあるような場合。

たぶん、親よりの回答をしてくるのは、発言小町とgooかなぁ。どちらかといえば自助努力を重視したり、権威者への尊敬を大切にしているイメージ。

子どもよりの回答をしてくるのは、人力検索はてなだと思う。弱者救済やマイノリティへの配慮意識が高いイメージ。

Yahoo知恵袋はちょっとよくわからない。

そういうわけで、自分が求める答えがどっちかを考えて質問するとよいかも。あるいは、複数のところに質問をするとか。

でも、個人的に一番いいと思うのは、それなりにしっかりとした専門家のところだと思う。↑で書いたところは、不特定多数の人間がオープンな場所で会話する場所であり、インターネットでオープンであるということは、いろいろな人がやってくるということを意味しない。インターネットでは自分の興味のある領域にしかアクセスしないことが多いため、常に偏りが生じていると思う。

たとえば、不登校のことで悩んでいるなら、このブログのリンク欄(今のデザインでは左のサイドバーの下の方にある)の宮川さんのところの掲示板なんか最適だろう。こういう管理者がいる掲示板は、誹謗中傷と管理者が判断したものは容赦なく削除されるので、一定の秩序が発生している。その秩序が信頼できるものだと感じれば、質問をしてみるのは悪いことではないと思うし、助けになることもあるだろう。

自分が悩んでいることが、どんなカテゴリーになるのか(学業や哲学、恋愛など)を考えて、そこでいろいろ検索すれば、どこかにはたどり着くと思う。どこにもたどり着けないときは、自分が弱者(子どもや傷つけられた方)だと思うときは人力検索はてなで、強者だと思うときは他の不特定多数に開かれた質問サイトに行くといいと思う。

ホント、変なところに質問を出して、傷つくことがないように祈っている。