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【社会】中村梅之助さん死去 初代「金さん」、大河「花神」劇団前進座代表で、テレビドラマ「遠山の金さん捕物帳」の初代金さん役で知られる歌舞伎俳優の中村梅之助(なかむらうめのすけ)(本名・三井鉄男(みついてつお))さんが十八日、肺炎のため死去したことが分かった。八十五歳。東京都出身。親族と劇団員で密葬を行った。劇団葬を三月三日午前十一時から東京都港区南青山二の三三の二〇、青山葬儀所で行う。喪主は長男で俳優の梅雀(ばいじゃく)(本名・進一(しんいち))氏。 三代目中村翫右衛門(かんえもん)の長男に生まれ、八歳のとき「蜂の巣長屋」で初舞台を踏み、翌年の「勧進帳」で四代目中村梅之助を襲名した。「俊寛」などの時代物から「魚屋宗五郎」などの世話物まで、気迫にあふれた演技に定評があった。「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛は父から「俺よりいい」と褒められたといい、前進座が文化庁芸術祭賞(一九九三年)を受賞した。近年は新歌舞伎「元禄忠臣蔵」や「法然と親鸞」など幅広い役を自在にこなした。 前進座には四五年に入団。劇団の歴史とともに歩み、父ら第一世代亡き後は十歳下の嵐圭史さんとともに第二世代として劇団を支えた。 テレビでも活躍。テレビ朝日系「遠山の金さん捕物帳」(七〇〜七三年)の遠山金四郎やNHK大河ドラマ「花神」(七七年)主人公の大村益次郎の役で、茶の間の人気を集めた。 二〇一二年五月の国立大劇場の歌舞伎公演では「口上」を述べる予定だったが、体調不良を理由に辞退していた。右足の動脈硬化症や不整脈、結腸切除、片方の腎臓摘出など満身創痍(そうい)だった。 それでも一三年一月には、三十一年の歴史に幕を閉じた拠点の前進座劇場(東京都武蔵野市)のファイナル公演千秋楽で口上に登場。本紙の取材に「劇団の百周年を目指す」と語っていた。同年五月の国立大劇場公演で一年ぶりの舞台復帰を目指していた。 ◆負けじ魂 伝統芸継承 十八日に八十五歳で亡くなった中村梅之助(うめのすけ)さんは、丸い顔でいつも笑顔だった。「祖父(二代目中村翫右衛門=かんえもん)は面長な役者顔だったのに、父、私とだんだん丸くなった。母親の影響かな」と話していたことを思い出す。 怒った顔を想像できなかったが「演劇界の革命」を旗印に門閥が幅を利かせる歌舞伎界を飛び出し、劇団前進座を結成した父(三代目翫右衛門)の話になると語調が急に改まった。 「ことごとに『緞帳(どんちょう)役者(下級の俳優)』とさげすまれた父たちはその悔しさをバネに頑張った」。巡業を重ねる芝居には、いわゆる「大歌舞伎」のような引き幕が許されなかった。父たちの苦労に思いをはせていた。「劇団創設当時の初心を忘れずに、全国のお客さんに正しく伝統芸を伝えたいと、私たちも負けるものかの根性で努める」と力強く語っていた。 伝統を意識する一方で、大歌舞伎とは違った独特の演出で、前進座らしい工夫も凝らした。父の代から続く劇団の財産演目「俊寛」などにそれが表れる。 晩年はさまざまな病魔と闘い、舞台も滞りがちだったが、「だいたいの役はやり尽くしたかな」と苦笑していた。二〇一三年一月、前進座劇場閉館のファイナル公演の千秋楽に口上で登場し、名作「元禄忠臣蔵」(真山青果作)の一場面で、大石内蔵助のせりふ「しずかに名残を惜しまるるがよい…」を引用して語ったのが印象的だった。 「この年になってようやく分かった芝居の機微がある。それを先輩としてではなく、芝居仲間として後輩たちに伝えていきたい」と決意を語っていた梅之助さん。「いざとなったら広場のテントでも芝居はできる」と熱弁を振るった。最後まで芝居への情熱は衰えなかったが、この時もニコニコと春風のごとくだった。 (富沢慶秀、小林泰介) (東京新聞) PR情報
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