FIGURALIA

2016-01-15 グリーンバーグの写真論

グリーンバーグの写真論

大学院の演習で読んでいたマイケル・フリードの『なぜ写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』の中で言及されていた、グリーンバーグによる写真論に興味を惹かれたので、やはり大学院の演習で読んでみた。

Why Photography Matters as Art as Never Before

Why Photography Matters as Art as Never Before


正確にはグリーンバーグが『The Nation』誌に寄せた、1946年のMoMAでのエドワード・ウエストン展の展評(Clement Greenberg, "The camera's glass eye: Review of an exhibition of Edward Weston," The Nation, 9 March 1946)で、以下などに再録されている。


冒頭で「写真とは人間が創りだした中でももっとも透明な芸術媒体だ」と述べるグリーンバーグは、それゆえに写真は資料としての機能を担うことになるのは不可避だが、だからといってそれは写真が芸術作品となることを妨げない、と言う。しかしウエストンの写真は残念ながらこの資料性と芸術性の両立に失敗しているとして、グリーンバーグはウエストンをバッサリと切り捨てている。展評でここまでこてんぱんに批判するのか、と驚いた。


批判される理由を要約すれば、ウエストンは絵画を真似てしまったから、ということである。(キャンバスと違って)写真というメディアは「透明」なので、抽象絵画のように平面性を追求することは無意味であり、むしろ被写体に集中しなければならない。ところがウエストンは被写体の個性を奪って抽象的なオブジェにしか見えない写真を撮ることを目指してしまった。


こうした批判の中で「感情(emotion, feeling)」の問題に触れられているのも面白い。写真には感情が込められなくてはならない、とグリーンバーグは言う。それは写真が「透明」であるために、感情が入りにくいからだという。逆に絵筆は感情と直結しているので、(抽象絵画においては)むしろそれを排除しなければならない。より困難な道を目指さなければならない、というモダニスト的ストイック。写真と感情の関係というのは、写真の黎明期から問われ続けていた問いであろうし、なおかつ現代まで、なんとなく曖昧なままに放り置かれている問いであるような気もする。


それぞれのメディアは自分だけができるものを追求すべき、というメディアム・スペシフィシティ的な考え方が写真にも応用されているわけだが、写真が絵画を目指すという、言わば邪道は、「アート」ではなく「アートっぽいもの(artiness)」にしかならないという。メディアム・スペシフィシティを侵犯してしまったところに生じる「アートっぽさ」というのも、今日からすればむしろ興味深い概念に思える。


こうしてウエストンを批判し尽くしたうえで、対照的な写真家として持ち上げられるのが、ウォーカー・エヴァンスである。つまりエヴァンスは資料性と芸術性を両立させているということだが、その芸術性を担うのが感情ということであろう。それはエヴァンスが文学に通じているおかげだ、とやや唐突に文学が持ちだされるのだが、エヴァンスとジェームズ・エイジーのコラボレーションなどが念頭に置かれているのだろう。両者の共著が出版されたのが1941年である。

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