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原発城下町で家屋解体進む 栄枯盛衰40年

 東日本大震災の津波で被災し、東京電力福島第1原発事故の影響で4年以上、手付かずだった富岡駅前商店街(福島県富岡町)で、国による家屋の解体が進められている。町の玄関口に40年近く店を構え、原発建設から事故まで激動の一時代をそばで見つめてきた1軒の小料理屋があった。(郡山支局・吉田尚史)
 店の名は「まどか(圓)」。青森県出身の小野伊津子さん(59)が、小さな店を引き継いだのは1976年。20歳の誕生日だった。
 「駅前はネオンもなく真っ暗。寂しかった」
 10年とたたないうちに町は好況に突入する。80年代までに福島第1原発の全6機が運転を開始。富岡町と楢葉町にまたがる第2原発の着工で人口が急増した。
 「駅前の平屋の木造店舗がビルへと様変わりし、ビジネスホテルも建った」
 料理修業の経験もなく、接客も苦手。追い風にも商売に身が入らなかった。「20代は目標もなく人生を悲観していた。辞めてもいいと思っていた」と苦笑いする。
 転機は35歳だった。「ママ、店つぶれちゃうよ」。下火になりかけた店に連日通い、支えたのは電力関連企業の若手社員たちだ。
 「逃げてもまた一から。富岡でやるしかない」と本気になった。時はバブル時代。「あの小さな町にパチンコ屋が立ち並び、活気に満ちていた。町は電力さんで変わった」と回想する。
 作業員や関連企業社員に親しまれ、東電幹部らも足を運んだ。後に原発事故対応の指揮を執った故吉田昌郎元所長もその一人。東電女子サッカー部マリーゼの選手も顔を見せた。関西出身者や地元の阪神タイガースファンが集う店として有名だった。
 開店から35年目の春。古里と思えるようになった町は避難区域と化した。店は津波で無残な姿となった。
 「一時は東電さんを恨んだ。もう生きていたくもなかった」と苦悩した。絶望の底に落ちた小野さんが顔を上げるきっかけは、亡くなった吉田元所長の存在だった。
 「何だお前、落ち込んで。今、何しているんだ」
 2013年夏。東京であったお別れ会に参列した時だ。にこやかな吉田さんの遺影が心に語り掛けた。
 「またママとして頑張っているよ、と言えるようにやるしかない」。翌14年2月、避難先のいわき市四倉町で「まどか」を再開した。
 原発城下町の栄枯を見続けた店舗や家屋約30棟は、年内にほぼ解体を終える。
 「寂しいけれど、町が生まれ変わる一歩。全てを受け止め、これまでの40年にありがとうという気持ちでいっぱい。廃炉の行く末と新しい時代を見守りたい」


2015年12月28日月曜日

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