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 戦後を代表する文芸評論家江藤淳(1932~99)が、批評家小林秀雄や政治思想史家丸山真男らから受け取った書簡が見つかった。礼状から抗議文までさまざまで、意外な交流関係もあり、文壇の緊張感や保守派の論客・江藤の素顔が伝わってくる。18日発売の「新潮45」誌で一部が公開される。

 書簡は300通以上ある。多くの中から江藤が選別して残したものらしい。

 作家埴谷雄高(はにやゆたか)からのはがき(62年3月)は、献本への礼から始まるが、〈文壇的にならないように〉と釘を刺して終わる。江藤の評伝を執筆中の平山周吉氏は「江藤は埴谷から影響を受けたが、後年の激しい論争の伏線といえる不穏な手紙」とみる。

 作家北杜夫のはがき(67年11月)は4枚続き。贈られた「江藤淳著作集」を読めない事情を、〈ウツ状態から脱しかけ〉〈どうもまだハガキ一枚まともに書けない〉と弁解しきり。埴谷を弁護する一文を挟み、締めの一文は〈死にたくないと思います〉。

 65年3月の音楽評論家吉田秀和の手紙は抗議文だ。江藤は朝日新聞夕刊の文芸時評で、加藤周一の小説を「国際連合的感覚」と批判した。吉田は〈ショックでした〉と書き、加藤の普遍的な概念による表現の努力が「最大公約数的な考え方」だと誤解されるのでは、と擁護している。