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社会通念では、人間の命の重さに違いがあることを制度として定めることは、許されないとされます。子供が出生前の段階にあるとき、診断にもとづいて、どの子を産むか、または産まないかを選択することはどこまで許されるのでしょうか。

子供が胚の段階であれば、「やむをえない事情」がある場合に限り、診断にもとづいた選別をすることが認められています。近年のゲノムの検査・操作技術の進展は、胚の初期段階での選別の可能性を増大させており、選別が「やむを得ない」かどうかを考えることを難しくしているようです。

「着床前スクリーニング」という検査技術が議論の種になっていることをご存じでしょうか。日本産科婦人科学会(以下日産婦)は2015年2月、着床前スクリーニングを臨床研究として実施する計画を既定路線としました。

着床前スクリーニングというのは、体外受精を行う場合に可能となる、胚(受精卵から胎児になるプロセスの初期段階にある個体のこと)の検査技術の一つです。不妊治療での効果が期待されています。

着床前スクリーニングを含む「着床前の胚の検査」では、子宮に戻す前(着床前)の胚の遺伝情報を検査します。検査結果をどの胚を子宮に移植するのかの判断に利用するため、「着床前診断」と呼ばれることが多いです。

着床前診断は、臨床応用の可能性がある一方、「命の選別」につながりかねないという懸念があるために、これまで日産婦はかなり制限された範囲でしか認めていませんでした。着床前スクリーニングは、今回の計画ではじめて限定的に認められることになります。

今回の日産婦の臨床研究計画の発表は、今後着床前診断による胚の選別がどの程度許されるのか、どういう歯止めを考えるべきなのか、などの議論を熟するのに機会を提供するという意味が大きいのではないかと思われます。

本稿では、ゲノム科学の専門的内容を補いつつ、着床前診断に関して議論のポイントとなる点を説明していこうと思います。

前半部では、議論の前提となる部分を一から説明する目的で、着床前診断の全体像を説明します。着床前の胚の遺伝情報を調べることで何を知ることができるのか、それが利益や懸念にどう結びつくのかを整理して述べます。

後半部では、「やむを得ない事情」がどう考えられているか、着床前診断に対する日産婦の立場を説明し、新たに認められるかもしれない技術として、着床前スクリーニングに関する議論の争点がどこにあるのかを明らかにしようと思います。

 

 遺伝情報の有用性

着床前診断では胚の遺伝情報を調べることで、その後の胎児の生育や出生後の生命活動の特徴について、何事かを知る手がかりにしようとしています。遺伝情報というのは、個体が親から受け継いでいる情報のことで、個体がどういう生命活動を営むかの基本的な部分を規定するものです(遺伝情報の実体や、生命活動を規定する仕組みについては、注釈を参照してください)。

遺伝情報は、個体を構成する各細胞にそれぞれ格納されています。個体を構成する細胞群は、一つの細胞である受精卵が分裂と機能分化を繰り返した末にでき上がります。分裂と機能分化の過程で遺伝情報は基本的に変化しないので、個体を構成する各細胞は、すべての細胞に共通で個体に固有の遺伝情報を持つことになります。

着床前診断では、ある程度分裂が進んだ胚から、一部の細胞を採取し、採取した細胞の遺伝情報を得ることで、個体に固有の遺伝情報を得ます。細胞の採取は、その後の胚の成長を妨げないかたちで行うことができます。

個体に固有の遺伝情報は、生涯にわたり個体の生命活動の基本的な部分を規定する重要な情報です。着床前に胚の遺伝情報を検査することができれば、妊娠が始まる前の段階でその重要な情報が入手できます。つまり、胚の遺伝情報の検査を行うことで、その後の胎児の生育と出生後の生児の生命活動について、妊娠前に何らかの判断を下せる可能性があるということになります。

 

 得られる情報とその方法

遺伝情報の有用性がわかっていただけたと思います。次に、遺伝情報を具体的にどのようにして調べ、それにより何がわかるのか、ということをみていこうと思います。

遺伝情報をどのように調べるかは、遺伝情報の特にどの部分を知りたいか、に大きく依存します。遺伝情報のなかのどの部分に着目するか、それをどのように知るか(方法)、それにより何がわかるのか、の3点は着床前診断の種類を分けて考えるときに、役に立つ情報ですので、ここで少し丁寧に説明をすることにします。

ところで、着床前診断で知りたいことは、産まれてくる個体に固有の遺伝情報ですが、子の遺伝情報はヒトである親から受け継がれるものなので、ヒトゲノム(ヒトの遺伝情報に共通の部分、既知)を参照するか、親の遺伝情報を調べるかで胚の遺伝情報の大部分は知ることができます。

新たに、胚の遺伝情報の検査で知りたい個体に固有の情報は以下の2種に大別して考えることができます。

  1. 親からどの遺伝情報を受け継いでいるか
  2. 染色体に関わる変異の有無

それぞれについて、遺伝情報の中で知りたい部分はどこか、どうやって知るのか、何が分かるのか、を明確にするかたちで説明していこうと思います。その前に、子が親の遺伝情報をどのようなかたちで受け継いでいるのか、考え方を簡単に説明します。

 

 親から子への遺伝情報の伝達

同一の生物種内であれば、個体の持つ遺伝情報の枠組は共通です。同一種内の個体に共通のこうした枠組は「ゲノム」と呼ばれます。ヒトではヒトゲノム、イネではイネゲノム、と呼ばれます。

個体の遺伝情報を考えるときは、このゲノムという単位を1セットとして考えます。ヒトの場合、一個体の持つ遺伝情報全体は、2セットのゲノムから成っています。

「セット」という言葉は、ゲノムを「染色体」というかたちで考えると分かりやすくなると思います。

染色体は、細胞周期のなかのある段階で観察される構造のことです。見た目には穴のないマカロニのような形をしています。遺伝情報の実体はDNAという分子ですが(注釈を参照)、染色体はDNA分子が凝縮した構造で、やはり遺伝情報に対応していると考えることができます。

染色体でいうと、ヒトゲノムは23本1セットの染色体から成っています。染色体の1セットは、生命現象のなかでセットとして動く単位であり、次世代への遺伝情報の受け渡しを考えるときに、染色体というかたちを考えることが多いです。

ゲノムという枠組の中で、遺伝情報の内容はセットごとに微妙に異なっています。この差異が個体差のもとになります。ヒトの個体は2セットを持っており、以下に説明する伝達の方法により、個体間のヴァリエーションは豊富になることに寄与しています。

ヒトの子は両親からそれぞれ遺伝情報を受け継ぎますが、両親の計4セット(一般化すると、片方の親Aがa1とa2という2セット、もう片方の親Bがb1とb2という2セット)から2セットしか受け継ぐことができません。

一方から1セット分、他方から1セット分を受け継ぐことになります。このとき、一方の親の持つどちらかのセットを丸々受け継ぐ(先ほどの一般化した表記では、例えば「a1とb2」)のではなく、各セットから部分部分を取り全体で1セットとなったものを受け継ぐ(Aから、a1とa2の各部でどちらかが選択され全体として1セットになったものと、Bからも同様の1セット、を受け継ぐ)というかたちをとります。

 

 両親からどの遺伝情報を受け継いでいるか

両親からどういう構成で遺伝情報を受け継いでいるかは、胚の遺伝情報を調べてみなければ知ることができません。

実際の検査では、遺伝情報の中の興味のある部分(遺伝子座)というのが前もって決まっているので、その部分が両親からどちらの遺伝情報を受け継いでいるかを調べます。

興味のある部分が前もってわかるのは、ヒトゲノムのどの部分に何に関する情報が書かれているか、ということはヒトという種に共通なかたちで決まっているからです。(その具体的な情報のことを「遺伝子」、書かれている部分(場所)のことを「遺伝子座」と呼びます。同じ遺伝子座において、種内でバリエーションがあるとき、そのバリエーションのことを「多型」と呼び、個々の種類は「遺伝子型」と呼ばれます。)

一般に、遺伝情報のなかで興味がある部分というのは、個体間の興味がある差異に関係するような遺伝情報の部分のことです。個体間の差異に遺伝情報の差異がどういうかたちで反映するか、は生物学が追求しているテーマの一つであり、未だに全面的に解明することができていない問題です。

その中でも例えば、目の色、耳垢の乾湿、お酒の強さ、などはどの部分に情報が載っていて(遺伝子座)、どの遺伝子型がどの性質と結びつくかよくわかっています。

胚の検査の臨床応用において重要なのは、遺伝情報の差異が一意に疾患と結びつく場合です。重要なはたらきをするタンパク質を指定する情報に違いがあると、タンパク質の働きが変わり、疾患となって現れることがあります。

このような疾患(遺伝性疾患)の有無を胚の段階で診断できる可能性があり、実際に診断が行われている疾患もあります。

もちろん、個体間の差異との関係がはっきりしている多型のある遺伝子座が知られているなら、その遺伝子座を調べることで、目的の差異を診断することが可能です。単一の遺伝子座に対応しているわけではありませんが、性別も、一種の多型であり、特定の遺伝子座を調べることにより、胚の段階で診断することができます。

多型に関する研究が進んでいくことで、遺伝情報のみからわかる個体の特徴は、今後ますます多くなっていくことが予想されます。

最後に、どうやって知るか、ですが、DNA配列の特定の部分を調べるにはPCR法という技術があります。一般的に、DNAの配列を知るには、同じ配列のDNAの分子が大量に必要です。PCR法はDNAの目的の部分について、同じ並びのDNA分子を大量に合成する技術で、この大量に合成した分子を使うことで、DNAの目的の部分がどの遺伝子型なのか知ることができます。

 

 染色体に関わる変異の有無

遺伝情報は基本的に親のものを再構成して受け継ぐのですが、一部に配列や染色体構成で親の遺伝情報とは異なる部分が生じることがあります。これは変異と呼ばれます。変異が起きていることも、実際に胚の遺伝情報を調べてみなければ知ることができません。

変異にもいろいろな種類がありますが、胚の遺伝情報の検査において重要なのは、染色体構成に関わる変異です。

染色体構成に関わる変異には、通常は2つ組である染色体の数が一部で3つ組になったり(トリソミー)、一部が反復したり、位置が入れ替わったりするものが含まれます。

染色体構成に関わる変異は、可能性としてはどこにでも起こりうることになるので、確実に知りたいのであれば遺伝情報全体に目配りをする必要があります。変異の起こりやすい部分が前もって知られていることもあるので、そういう知識から見当をつけて特定部分を重点的に調べるということが実際には行われています。

染色体構成に関わる変異が原因とらる疾患が知られており、胚の段階で遺伝情報を得ることで診断できる可能性があります。

また、不妊治療の文脈では、染色体構成に関わる変異が流産のしやすさに関わるということがいわれています。

染色体構造を調べるのには、FISH法という技術が用いられてきました。染色体の特定部分を蛍光分子により標識して、染色体の構成がどうなっているかを顕微鏡下で観察するという方法です。一度に標識できる部位が限られていたり、精度にが低かったりするようで、診断誤差が大きいことが難点としてあるようです。

 

 懸念される影響

着床前の胚の遺伝情報を検査して、選別の根拠とすることにどのような問題があるのでしょうか。この問題の話をするときに、よく「命の選別」というフレーズが用いられます。産まれてくる命がヒトの手で選別されるというような意味だと考えられます。

体外受精では複数の胚から一つを選んで移植することが一般的であるようなので、そこでも選別が行われていると考えることもできます。単なる選別ではなく、遺伝情報に基づいて選別を行うことに懸念があるようです。

遺伝情報を知ってから産むかどうかを判断する行為には、特定の遺伝子型を良いものと考えたり悪いものと考えたりする立場が働いてくる余地があります。

実際に遺伝子の善し悪しを明確な判断基準として用いる場合は現実に少ないのかもしれませんが、遺伝情報により選別を行う機会が与えられていることが、善し悪しの価値判断を社会に徐々に定着させていく原因となってしまうかもしれません。

特定の遺伝子型を良いもの・悪いものと分ける考え方は、良い遺伝子を増やし、悪い遺伝子を減らすことで社会がよくなっていくという立場と結びつきやすいとされています。このような立場は優生思想などと呼ばれます。

優生思想は、実際には特定の集団の利益追求の正当化のために使われ、社会において特定の遺伝子型の差別や人権侵害に結びつき、社会の基盤を損ねてしまう危険があります。

 

 出生前診断との比較

もともと着床前診断は出生前診断の代替としての役割が期待され、研究が進められてきた経緯があるようです。

出生前診断においては、かなり妊娠が進んだ胎児の遺伝情報を調べます。体外受精に限らないこと、胚の高度な取扱い技術を含まないことなどの利点がありますが、産まないという決断をする場合は中絶というかたちになり、母体の心身への負担は大きくなります。

着床前の胚の検査で、出生前診断と同様の情報がわかるのであれば、産まないという決断をする場合の母体への心身の負担は軽減されます。

同じことがわかり負担が軽減するのであれば、出生前診断の一部を代替する技術として着床前の胚の検査を位置づけることは妥当であるという意見も出るかもしれません。

しかし、着床前診断は負担が少ない分、遺伝情報をもとに選別をする機会として、今後利用しやすくなっていくことが考えられます。この点から、着床前診断と出生前診断とは異なる診断技術として分けて議論する必要があると考えられます。

 

ここまで、着床前診断ではどんな目的で何を調べるのか、どういう懸念があるか、ということを述べてきました。後半では、懸念もある技術として、日本で着床前診断がどういう考え方のもと受け入れられているか、について述べた後、最新の動向として、着床前スクリーニングに関する議論のポイントを明らかにしたいと思います。

Photo by pixabay [ 注釈・参考文献]

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