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―Share The World― -知の海へ-

動く好奇心!人生彷徨う文系大学4年生によるブログ!ヽ(・∀・)ノ

貨幣哲学-ありがとう。ごめんなさい。ー

こんにちは!!

 

1月8日までは、”1000字”ブログとさせてください!まこっちゃんです。

 

 

ブログを書く訓練として”1000字”は、ある程度の長さとその中に伝えたい内容のエッセンスがしっかり要求されるため、最適な文量であるという野性的な直感からです。

 

 

 

本稿の投稿に至ったのは、以前はお金を使うことへのある種のためらいや支出への恐怖を抱いていた自分がいたことに起因し、そして、それらを和らげてくれたひとつの”考え方”を皆様と共有したいと思い立ったことにはじまります!

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皆様もこのような経験はありませんか。

 

 

例えば、苦学生(?)な私のケースですと、お昼ご飯に牛丼に500円を使うべきか、焼き芋で我慢して150円に押さえておくべきか、そうすれば350円浮く・・・のように笑 

これはあくまで極極極一例ではありますが・・

 

 

 

 

お金と節約、お金と贅沢、お金と貯蓄、等々主にお金が財布から出てゆく際にまつわる葛藤や躊躇感を私たちは一生をかけて付き合っていかなければなりませんよね

 

 

 

 

「今日はいくらお金が使えて、いくら今月まで残しておかなければならない。

そうなると、あれが買うことができないな、つらいな。でも我慢だ。」

 

 

 

など、なんとも形容し難い感覚が脳内にまとわりついてしまう症状です。笑

 

 

とても無機質な資本主義社会の1体のコマとして生かされてる気分になり

なんか人として狂っちゃいそうですヽ(;▽;)ノ

 

 

 

そこで、考えるわけです。

 

そもそも、貨幣とは・・かつての”物々交換”を起源としている、と。

 

 

 

”お前の貝、このどんぐりと、交換してくれよ”

”ありがとう、また頼むよ” な会話の進行具合だと思います。笑

 

 

 

一体何故こんな無機質な貨幣社会に生きなければならないかを払拭させてくれたのが

この”ありがとう”の言葉でした。

 

 

 

当たり前すぎて忘れていたことでした。

 

 

牛丼一杯にしても、牛を飼育してくれる方々、米を栽培してくれる方々、牛丼を調理してくれる方々、牛丼を私のテーブルに運んでくれる方々に対して、

 

 

”500”のありがとうが込められているということですよね。

 

 

 

仮にどんぶりを落とし割ってしまって1000円の弁償だとしたら、

”1000”のごめんなさいということになりますよね。

 

 

 

お金の動きは、ありがとう。とごめんなさい。を仲介するしか見られないはずです。

貨幣は御礼や謝罪をするための手段でしかないということですね。目的ではなく。(´・ω・`)

 

 

(1000字はあっっという間ですね)

 

 

考え方ひとつですが

1000”円”ではなく、1000”ありがとうという単位になれば、

より豊かな消費社会になるのではないかと、ふと思った今日でした。