この辺りの記事を読んで思ったんです。
オタクだったはずの自分は、いつしかぬるいオタクに退化して、いまではすっかり元オタクになってしまったのだと。
オタクであり続けるためには、相当なリソースを必要とする。
リンク先の記事にもグッズにお金をどのくらい投じるか、みたいな線引きが書かれていましたが、社会人としてリアルな生活を維持していくためには、やはりオタク活動に投下するリソースを抑制する必要があると感じています。実際ぼくもそうなりました。
まず、お金の問題。
社会人になると、さすがに身なりにも気を配らなきゃいけないし、交際費も大人になると跳ね上がる。何でもかんでもコンプリートしていられないのです。将来に備えて貯金もしなきゃですし。
そして、時間の問題。
これがデカイ。ぼくのようなライター業は、マトモな仕事に比べると仕事時間が鬼のように長いので、学生時代ほどアニメを愉しむ時間を確保することができないのです。漫画も同じ。ゲームはいうまでもなく。特にギャルゲーは無理ゲーです。あれは時間がかかりすぎる。
さらに、将来の問題。
学生時代は悪く言えばバカ、良く言えば楽観的だったので、ヌボーっとアニメに没頭できました。いまはどうか?全然ダメですね。アニメを観たことが何につながるの?と自問自答してしまい、どうにも集中できません。たとえば「スターウォーズの新作を観た」ならば話のネタになりますが、「SHIROBAKOを観た」と言える場面は、少なくとも僕の生活の中に、いまはありません。
こうしてぼくは、「ぬるオタ」に退化した。
昔の作品についてはそこそこ語れるけど、最新の作品は、ほぼキャッチアップできていないロートルなオタクになってしまったのでした。いちおうアニメのタイトルくらいは頭に入っているので、あーあれね、SHIROBAKOね、くらいまでは言えるけど、その先はペラッペラの状態です。
ちなみに、ぬるオタに退化するまでの流れは、こんな感じ。
物質的オタクからの脱却。
社会人になって最初の変化はこれですね。まだオタク熱は残っているので、作品鑑賞はまじめにやるわけですが、現実的なお金の問題から、収集はどんどんあきらめる方向になりました。作品鑑賞はするが、それ以外はナシという状態ですね。
一見するとエセオタクっぽい状態に思えますが、違います。全然違う。なぜなら、作品を鑑賞する姿勢は真摯なのですよ。エセオタクなんかと一緒にされては心外です。観ると決めたら、正座してちゃんと観るのです。萌え~とか思いながら観るわけです。抱き枕を買わないだけです。
精神的オタクからの脱却。
徐々にオタクワールドが現実世界に侵食されていきます。まっとうな社会人生活をおくっていると、アニメを観る時間がなくなり、ゲームをする時間がなくなるためです。
そして時間のない中で、厳選してゲームをプレイしたり、アニメを観たりするうちに、知らない作品の割合がどんどん高まってきます。すると、作品レビューを読む楽しみが徐々に損なわれていくのですね。レビューでは他作品との対比がしばしば行われるので、知っている作品が多ければ多いほど、楽しく読めるのですが、それが叶わなくなります。
そもそもこの時点で、ぼくには現実世界にオタク話をする仲間がおらず、レビューを通じて、間接的な文化交流をするだけの状態になっていました。しかし、オタクの世界は非情で、知識量の少ないものは、あっという間に話題についていけなくなります。
オタク世界でぼくは孤立してしまいました。とうとう「ぼっち」になってしまったのです。
リアル世界の居心地よさに、引き込まれる。
オタク世界のスピードについていけなくて、つまらない思いをしているぼくにとって、現実世界はとても居心地がよかったのです。たとえば、飲みに行くって素晴らしいです。だって楽しむために、何の予習もいらないのです。
1本のレビューを読むために、あるいは、1本のレビューを批判したいがために、2クール24話のアニメを10時間くらいかけて予習する必要はないわけです。時間のない社会人には、このお手軽さがぶっ刺さりました。
PS4の発売で、分かってしまった。
ぼくはもうぬるオタですらない。ただの元オタクです。
PS3の頃からその兆候はありました。すでにハードウェアの発売にワクワクできなくなっていたのです。PS4に至っては、もはやどんな形なのかさえわかりません。
ゲームは、たぶんいまでも好きです。もちろんPS4は買えるし買ってもいいのですが、それをのんびり楽しむ心の余裕も時間も、もう残ってないのですよね。
酔った勢いで懐かしい映画を借りてしまうようなもんかなぁ。鑑賞するのではなく、想い出に浸るために観るのです。もしもPS4を買うことがあるとすれば、それはゲームが楽しかった頃に戻りたくて買うのだと思います。おそらく買った日に1回プレイして終わりでしょう。アルバムを毎日眺める人はいませんよね。
もちろん、ブログを書く時間でゲームをすることはできます。ただ、 ブログと違ってゲームは中断すると再開が難しいのです。以前、RPGをプレイしていたとき、忙しくて数週間放置していたことがあったのですが、久々に再開したぼくは愕然としました。
ダンジョンの途中でセーブしていたら、どっちが手前でどっちが奥か分からなくなっていたんです。そのとき、完全に終わった、と思いました。それ以来、ゲームはやっていません。
オタクとエセオタクの間には、犯罪者と不良くらい大きな差がある。
オタクは、仮にオタク活動をやめても元オタクになるだけです。完全な一般人に戻ることはできません。エセオタクはそもそも一般人なのです。
ぼくはオタク的な生き方からすっかり遠ざかって10年近く経ちますが、いまだに自分のことをオタクだと認識しています。実際、ゲームはいまでも好きですしね。やってないだけで。というより、満足できるレベルで楽しめないのなら、手を出さない方がマシだと思って触らないようにしています。これが本音です。
エセオタクは悪ぶっているだけの不良と同じです。本質的にオタクじゃないのです。一線を越えていない。だからこそ、リンク先の記事に書かれていたような、
「何のアニメが好きなの?」と質問すると、彼女からは『弱虫ペダル』という答え。僕はアニメを全話見ていたので、「俺もアニメは見てたわ! △△ってシーン、熱かったよね!」と少し身を乗り出して話しました。
しかし、彼女の反応は「私、アニメ全部は見てないんですよね……」とかなり引き気味。僕は友人から「お前、乗りすぎ(笑)」とつっこまれ、爆笑されてしまいました。
こういったすれ違いが起きます。
お酒をたしなむ、なんて表現がありますけど、そんな感じなんですよねー。エセオタクたちは、まさにアニメやゲームをたしなんでいます。
一方でオタクというのは、はっきり言って依存症の状態。完全に断つか、どっぷり浸かるかしかないように思います。すくなくとも、ぼくにとっては「たしなむ」状態はとても中途半端に感じられて苦痛でした。
社会人になったばかりの頃は、長期連休のたびにアニメを一気見したり、大作を1本プレイしたりしてクリア後に激しい虚脱感に襲われることもありましたが、いまはなくなりました。そもそもゲームをしたいと思わなくなりました。ひょっとすると、毎日5分、10分、ソーシャルゲームで遊んでいることが、ニコチンパッチ代わりになってくれているのでしょうか。
オタクの感性は、いちど手に入れてしまうと記憶喪失にでもならない限り、消えることはきっとありません。エセオタクたちは、まさか自分がガチオタになると思っていないでしょうが、海外に1年留学した人がすっかり海外にかぶれて帰ってくるように、気づいたら立派なオタクになっているということは十分あり得ます。
オタクと一般人の間は一方通行で、気軽に行き来できるものではありません。そうした認識がないからこそ、エセオタクたちはオタク的なものを気安くファッション感覚で身に纏うことができるのでしょうねぇ。
二度と消えない、刺青だってことをわかっていないのです。